* ゼロは白い光に包まれた夢から覚めた。時の賢者は彼方に去り、ムジュラの仮面に支配された月の中へと意識が舞い戻ってくる。胸元に刻まれた鮮烈な痛みも復活した。 血塗れた視界の中で、リンクが顔面蒼白になってこちらを見下ろしている。 (そんな顔しなくていいのに……) そう言いたいのに声が出ない。うまく笑えない自分が悔しかった。 「私はこの聖地を時の勇者から取り返すわ!」 高らかに宣言したムジュラが、死神の鎌を振りかぶる――その動きが、ぴたりと止まった。 閉ざされた世界の壁を貫いて、細く鐘の音が流れてくる。 「これは……」 リンクがはっとして顔を上げる。鐘は、いやしの歌の旋律を奏でていた。いつも彼がオカリナで吹くものよりも長いメロディだ。 歌に気づいたムジュラは仮面の下で鬼の形相になる。 「あの大妖精、また邪魔を!」 しかし、いやしの歌は確実に効果を発揮していた。彼女は膝を折り、鎌にすがりついて動けなくなる。「くっ、このぉ……」 優しくも切ないメロディが流れる中、倒れたゼロはリンクへと手を伸ばした。 「お面を」 リンクは反射的にふところに手を入れる。そこには彼が入手し、ゼロのためにとっておいた最後のお面たちがある。 だが、ゼロに向けて動こうとしていた手が、止まった。 「お願い」 ゼロは言葉を重ねる。リンクはかすかに震えながら、はっきりとそれを拒んだ。仰向けに倒れた彼のそばにしゃがみこんで、ただの子どものように呆然と怪我人を見つめている。 『ゼロ、アンタその体……』 チャットの声は弱々しい。彼女の視界の先で、ゼロの体を金色の光が包んでいた。いやしの歌は、ムジュラだけでなく彼の体をも蝕んでいた。 もうきっと時間がないのだろう。そう悟ったゼロは、そっとほほえんだ。 「オレさ……キミに迷惑をかけたくなかったんだ」 それはどこまでも正直な気持ちだった。 「迷惑?」 リンクは一瞬ぽかんと口を開いた。そうすると、彼が本来持ち合わせた幼さが垣間見える。 「……そうか」 眉をしかめたリンクは、徐々にいつもの調子を取り戻しかけていた。 「迷惑なんて、いつものことだ。ロマニー牧場でいきなり待ちぶせするわ、グレートベイの神殿で水に落ちるわ、イカーナでは単独行動するわ――」 どんどん愚痴っぽくなる。『アンタねえ、こんな時に』とチャットは呆れ、ゼロはわずかにほおを動かして苦笑していた。 いやしの歌が止まらない。傷ついた魂を癒すメロディは、リンクの混乱した心すらも落ち着けていく。 リンクは澄み渡った瞳で告げた。 「だが、俺はお前一人分の迷惑を背負えないほど、小さな器ではない」 そうだ、リンクの持っている器は世界をまるごと背負えるくらいに大きい。彼こそが、時の勇者としてハイラルを――闇の世界と化した聖地を救ったその人なのだ。 そんな彼とともに旅をして、少しでも手助けができたこと、なんでもない会話をかわす時間を持てたこと、何よりも自分という存在を生み出してくれたこと。すべてが嬉しかった。ゼロは途方もない幸福に包まれていた。 「そっか……そうだよね。ありがとうリンク」 ゼロが無理やり持ち上げた手に、何かを覚悟したリンクは静かにお面を差し出した。その左手には聖なる三角形が浮かんでいた。 二人の間にあったお面が消え、小さな子どもの手と青年の手が重なった。大きさの違う手のひらは、どちらともなく強く握りしめられる。 ゼロは決然とつぶやいた。 「オレの力、全部使って。あの子を止めて……」 こういう時にどうすべきか、リンクはタルミナの冒険を通して知っていた。彼はゆっくり手を離すと、時のオカリナを取り出した。 『あ、アンタまさか』 チャットの制止も聞かず、リンクは流れる鐘の音に乗せていやしの歌を吹いた。 それは傷ついた魂を癒し、死の淵にある生命をお面に封じ込める歌だ。 ゼロの体が輝きを増した光に包まれ、見えなくなる。やがてそれが晴れると、床の上には一つの仮面が落ちていた。地肌には赤の隈取があって、白銀の前髪が生えている。 『鬼神の仮面……』 チャットが息を呑む。それはいつかルミナが噂を耳にした、「すべてのお面を飲み込むお面」だ。 リンクは何の迷いもなく鬼神の仮面をかぶった。 デクナッツ、ゴロン、ゾーラの仮面と同じように、魂の宿る仮面は変身能力を持っている。鬼神の仮面をかぶった瞬間、リンクの視界は一気に高くなった。肌に浮かぶ赤い隈取、額に落ちる白銀の髪。さらに、かつて彼が大人だった頃に匹敵する体格を手に入れた。胸当てには月を示すマークと、トライフォースをかたどったような三角形が刻まれていた。 リンクは軽く目を閉じ、自らの内側に問いかける。 (ゼロ。いるのか……?) 他の仮面の時はそこに宿る魂と対話ができた。さらには魂に体を貸して「代わる」ことすらできた。だが今、ゼロは何も言わない。そこに「いる」ことだけが感じられた。 それなら別にいい、と思った。 同時に、リンクは鬼神の力の全貌を把握した。ただ体が大きくなっただけではない。全身に満ちる力の量が桁違いだった。おそらく剣の一振りで地を割り、こぶしで岩をも砕けるだろう。なるほどゼロが恐れるわけだ。莫大な力を持つゆえの全能感は、その者を力に酔わせ、もしくは恐怖を抱かせる。どうもゼロは後者だったらしい。 (だが、俺なら操れる) リンクには、自分はかつて魔王を倒して世界を救ったのだという無限の自信があった。 鳴り響く鐘の音はいつしか小さくなっていた。ムジュラは体のしびれを振り払い、立ち上がる。 仮面の瞳に宿る光は怒りに燃えていた。落ち着き払った鬼神リンクとは対照的に。 リンクが背負っていた大妖精の剣を抜くと、剣の形が変化する。柄から二つの刃が生え、螺旋を描いて頂点で交わる、特徴的な形状だ。 「おのれ、時の勇者……大妖精……!」 リンクはゼロの顔で――鬼神の顔で、実にあくどい笑みを浮かべた。ゼロならば決して浮かべなかった、見る者の背筋をぞくりとさせるような表情だった。 「どうした、俺を倒すんだろう? 鬼ごっこでも何でも付き合ってやる。かかってこいよ」 言葉にならない叫びを上げながら、ムジュラの仮面がどんどん大きくなっていく。いつしか少女の体は消え失せて、仮面の後ろから何本もの触手が生える。その姿は正真正銘の化物だった。 チャットが恐れおののきながら、 『く、来るわよ!』 ムジュラの仮面は触手の先から光弾を放った。リンクは軽く手首をひねって剣を振り、それを弾く。相当なエネルギーを持つはずの光弾だが、あっさりと防がれた。リンクは興味なさそうに息を吐く。 『ひっ……』 チャットはもはや圧倒されていた。ムジュラの仮面も、鬼神の力を手に入れたリンクも――彼女にとっては未知の領域だった。 このままでは埒が明かないと判断したのか、ムジュラの仮面から手と足、それに頭が生える。顔はなく、頭の中心には一つの目玉だけがある。仮面の部分がそのまま胴体になった、さながらムジュラの化身だ。 化身は目にも留まらぬ速さで閉鎖空間を走り回る。リンクは眉一つ動かさず、真一文字に振り抜いた剣の軌道から光の斬撃を放った。少女姿のムジュラが操っていた真空の刃に近い。化身は斬撃で足を吹き飛ばされ、倒れ込む。そこにリンクは悠々と近寄って剣を刺した。 ぐぎゃああ、と濁った悲鳴が空間を貫く。もう一度、とリンクが剣を振りかぶると、化身は跳ね起きて距離をとった。 ムジュラが前に垂らした頭を起こす。そこには二つの目玉と口が出現し、さながら悪鬼の顔に仕上がっていた。細かった手足が丸太のようになる。ムジュラの魔人の誕生だ。魔人は長過ぎる両手をムチのようにしならせ、リンクをとらえようとする。 「無駄だ」 リンクは軽く地を蹴った。それだけで驚くほど高く跳躍し、攻撃をかわした。 ムチを次々と振り回しながら、ムジュラはほとんど慟哭のような叫びを上げる。 『なんでこんなやつに……みんなも、鬼神さんも、どうして!?』 『アイツ、なんか哀れね』 チャットはムジュラの叫びに悲痛さを感じた。事情はよく分からないけれど、このような凶行には理由があったのだろうと思った。 鬼神リンクは表情を変えずに呟く。 「どうしてだろうな。俺もお前と同じ立場だったら、多分同じようにイカーナに戦いを挑んだだろう」 仮面を通してゼロの持つ記憶が伝わってきたのだ。あの少女が痛いほどに抱えた「故郷を思う気持ち」はリンクにも理解できる。 『だったら――!』 「だが俺がいるのは『こちら側』だ。神も世界も、すべてが俺に味方している。ゼロはお前に同情するかもしれないが……俺は、正直お前の事情などどうでもいい」 リンクが顔色一つ変えずに振るった剣は、ムチを二本まとめて切り飛ばす。魔人はすすり泣くような声を上げた。チャットは視線をそらす。 ゼロの記憶と思いを引き継いだリンクはこう告げる。 「タルミナは、俺の故郷だ。故郷の人々を傷つけるやつは許せない」 ハイラルの知り合いに似た者たちがこの聖地に数多く存在した理由を、リンクは正しく理解した。時を越え、二度と会うことがなくなっても、彼らのことを忘れることができなかった。「それはみんなも同じだったんだ。みんな、キミに感謝してるんだよ」――そう告げる声が胸の中にこだまする。 今の自分をつくったものがすべてここにある。タルミナはリンクにとって二つ目の故郷とさえ呼べる、かけがえのない場所になったのだ。 鬼神リンクは渾身の力を込め、最後の一太刀を振り下ろす。ムジュラの魔人は脳天から真っ二つになった。 『鬼神、さん……』 斬られた魔人の体から白い光があふれ出る。同時に魔力が流れ出し、魔人は形を保てなくなる。 『や、やったわ……!』 チャットは沸き立った。ムジュラの最期を無感動に眺めながら、リンクは小さくつぶやいた。 「だが、お前が負けたのは考え方が間違っていたからじゃない。俺の方が強くて、たまたま仲間が多かった。ただそれだけだ」 思想の善悪と、戦いの勝敗は関係などないとリンクは信じている。かつての魔王との戦いだって、リンクの実力が足りなければ負けていただろう。だから、彼はムジュラの思いを全て否定しようとは思わないし、勝った自分の考えが何もかも正しいとは思わない。 光があたった場所から、月の世界が崩壊していく。チャットはリンクに身を寄せた。 『ちょっと、どうするのこれ』 「さあ。困ったな」 リンクは仮面を外そうとする手を止めた。 一瞬だけ、ここで朽ち果ててもいいかもしれない、と思った。だが仮面に宿る魂に叱られた気がして、すぐに切り替える。 彼は思い切って鬼神の仮面を外し、時のオカリナを構えた。奏でるのは大翼の歌だ。 光を浴びて崩壊していく世界に、鳶色の羽が降り注ぐ―― * 今にもタルミナを押しつぶさんと圧を増していた月が、突如として白い光を発した。 顔のある月といえど、その実態はただの球形の岩のかたまりだ。それが、天頂の方からさらさらした砂になっていく。空中に漂った砂は山の端からこぼれた新しい日差しを浴びて、朝焼けの空に虹の橋をかけた。 「やったわ……!」 アンジュは鐘楼の窓から身を乗り出し、歓声を上げた。 「アンジュ」「カーフェイ!」 めおとたちは思いっきり抱き合う。ギターの演奏を終えたゴーマン座長はため息をついた。 「あーあ、人前だってのにいちゃついて……おい、どうしたルミナ」 ルミナは蒼白になって、すべての事情を知るはずのアリスを問い詰める。 「ね、ねえリンクは? チャットは? ゼロはどうなったの。みんなあの月の中にいたんだよね? 教えてよアリス! わたしたち、ちゃんと演奏したよ。あのメロディ、ちゃんとみんなに届いたんだよね」 『……』 アリスは沈黙を保ったまま、静かに明けていく夜を見つめていた。 繰り返される三日間が終わり、新しい朝がやってくる。 ←*|#→ (129/132) ←戻る |