7-1.月の中 平原の中心に、向かい合う三つの影がある。 一つは、大鎌にすがりつくようにして立つ小さな影。残り二つ――男と女はそれに対峙している。しかし男は地に伏せ、女は腰を落としてそれに寄り添う。男のまわりには血溜まりができていた。 「いい加減諦めたらどうなの?」 ムジュラという名を持つ死神が挑発するように言った。衣はあちこち破れ、武器も刃が欠けているが、この場で立っているのは彼女だけだ。 倒れた鬼神のそばにひざまずいた大妖精アリスは、強く唇を噛みしめる。彼女の手に宿っていた光が薄くなっていく。妖精の泉から供給される力が絶たれたらしい。 治癒の魔法に力を注ぎ過ぎた。それなのに、鬼神の怪我は塞がらない。 「そんな……」 ムジュラは勝ち誇った笑い声を上げた。 「ふふふ。この世界、私がもらうわ!」 「そんなことはさせません……!」 だが、魔力を失ったアリスはもはやただの少女に等しい。流れ出していく鬼神の血を手でおさえることしかできない。 あたたかく濡れた彼女の手に、青白く無骨な手が重なった。 「鬼神様……?」 伏せていた赤い瞳がうっすら開く。 ――我々には、かねてからの秘策があるだろう。そう彼は目で語っている。アリスは必死に首を振った。 「ですが、あれは今の状態で使えば、あなたまで」 「お話しする余裕があるのかしら!」 死神が大鎌を振りかぶった。 アリスは近くに転がっていた鬼神の大剣を持ち上げた。剣に残っていたわずかな力を増幅させると、防御の結界が生まれる。 「悪あがきもいいところね」 振り下ろされた大鎌が透明な防壁にひびを入れた。この程度の結界などすぐに破られてしまうだろうが、今は少しでも時間を稼ぎたい。 アリスは荒く呼吸する鬼神に目を落とした。ギリギリの体力しか残っていないはずなのに、彼は見たこともないほど優しいまなざしをアリスに向けていた。 構わない、やってくれ。 「……ごめんなさい」 アリスは軽く息を吸う。その喉から澄んだ歌声が流れた。 それは傷ついた魂を癒す歌。終わりを迎えた生命を死へ誘う代わりに、その魂を「あるもの」に封じ込める歌だ。イカーナ王国の音楽家と協力し、敵国へ対する切り札として彼女が生み出したメロディである。 「!?」 あたたかくもどこか悲しい旋律が耳に入った瞬間、がくり、と死神が膝から崩れる。鬼神より優位に立っているとは言え、彼女もまた片足を死の淵にかけているのだった。いやしの歌によって全身の力が抜けたのだ。 地面に這いつくばり、ムジュラは必死に腕を持ち上げる。 「大妖精……こ、この……っ!」 その指先から暗色の魔法が放たれた。 「――っ!」 歌い続けるアリスの体は宙を駆けた闇の矢に貫かれ、崩れ落ち、鬼神の上に重なった。ムジュラはそれを見届けると、同じように力尽きて草原に突っ伏す。 アリスは薄れゆく意識の中で、鬼神の体が「あるもの」に変化していくのを感じていた。ムジュラも同様だろう。 だがアリスはそれを見届けることなく力尽きる。 (鬼神様……) 大きなフクロウが一声鳴いて、明るい空を飛んでいく。 それきり、平原には静寂が戻った。 * かつてリンクはこの階段を上ったことがある。一番はじめの三日間――まだ時のオカリナをスタルキッドから奪還する前だ。 その時は、まさかタルミナの滞在がこんなに長引くとは思わなかった。何度も何度も月の落下を防げず悔しい思いをするなんて、考えもしなかった。それでも彼は予期せぬ出会いに助けられながら四方の巨人を解放してきた。 彼の目的は、お面屋の依頼に従いムジュラの仮面を取り戻すことだ。だが今のリンクはそれだけではない何かに突き動かされ、時計塔の階段を上っていた。 決戦の舞台にたどり着く。宙に浮かんだスタルキッドが、顔のある月をバックにこちらを睥睨していた。その表情はムジュラの仮面に覆い隠されている。 (ついにここまで来たな) あの仮面と対峙するのは三度目になる。エポナとオカリナを奪われたあのファーストコンタクト、一番最初の三日目、そして今だ。月のような黄色い双眸に、二本の角が生えた仮面はいつ見ても不気味だった。正直、お面屋が珍重するだけの価値があるとは思えない。リンクにとってはかつて戦った魔王と同じく、単なる打倒の対象だった。 彼は落ち着いて円形の舞台を見回した。 (ゼロは……いないのか?) 空を占める死の象徴以外、そこには何もなかった。「先に時計塔に向かった」とルミナは言っていたのに、どこに行ったのだろう。 チャットがスタルキッドを睨みながら、 『いよいよね』 「ああ」 うなずき合う二人の前で、見覚えのある光景が繰り返されていく。 『ネエちゃーん!』 スタルキッドの脇から紫の妖精トレイルが飛び出した。 『トレイル!』 『沼・山・海・谷にいる四人の人たち……はやくココに連れてきて……』 一回目の「三日目」とそっくり同じだった。リンクたちは、この時トレイルが残したヒントをもとに四方の巨人を訪ねたのだった。 そういえば、チャットも知らなかった巨人の存在を――彼らを連れてくることがスタルキッドへの対抗策になることを、どうしてトレイルが知っているのだろう。もしかすると、この三日間のうちに、スタルキッドが巨人についてぽろりとこぼした瞬間があったのかもしれない。 それ自体はささいな出来事だ。だが、時を繰り返すことで、小さなミスは巡り巡ってスタルキッド自身に跳ね返ってくる。 「よけいなこと言うな、バカ妖精!」 スタルキッドがトレイルを叩いた。チャットが息を呑んだ。すぐにでも駆けつけたいところだが、 『もうアンタの思い通りにはさせないわ!』 彼女は決然と宣言する。スタルキッドは少し驚いたようだ。 「……まあいいや。いまさらアイツらが来ても、オイラにかなうわけないさ。さっき来たやつと一緒でな、ヒヒッ!」 リンクがはっと身を固くした。「さっき来たやつ」なんて一人しか該当しない。 『ゼロは……アイツはどこよ!?』 『さっきの人は、月の中に――』 トレイルが答えると、またスタルキッドの手が振りかぶられた。乾いた音が響き、チャットが悔しげに呻く。 「上を見な! 止めれるもんなら止めてみろ!」 これ以上の議論は無駄だと言わんばかりに、スタルキッドは叫び声を上げた。あれはムジュラの仮面の力を行使する合図だ。月が仮面の魔力を受け、一気にスピードを上げて落下しはじめた。 前回は、ここでスタルキッドから時のオカリナを取り返した。デクナッツ姿でシャボンをぶつけ、時の歌を吹いて時間を戻した。それは月の落下を直接防ぐことができないゆえの、一時的な処置だった。 だが、今回は秘策がある。 チャットがリンクの目線の高さに飛んできた。 『お願い、弟を、スタルキッドを……!』 「ああ、任せろ」 彼は時のオカリナを構えた。 誓いの号令。それはウッドフォールの神殿に囚われていた巨人が教えてくれた歌だ。「来るべき日、タルミナの中心でその歌を奏でろ。そうすれば助けに来る」という巨人との約束を果たしてもらう日が来たのだ。 さらに、巨人たちは口々に「友を助けて」「友を許せ」と言い添えていた。その友とはおそらく―― 物悲しい旋律がタルミナの空に響いた。月の圧力にも負けず、音の連なりは四方の彼方まで飛んでいく。 号令を奏でるための楽器として、時のオカリナは十分な効果を発揮したはずだった。だが、何も起こらない。月は今にもクロックタウンを押しつぶさんと迫る。 (だめか……?) その時。 ずん、と重い音がした。同時に鈍い地響きが時計塔を揺らす。その発信源は四つ。四方から、どんどんタルミナの中心であるこちらに近づいてくる。 「な、なんだ……!?」 スタルキッドは目に見えて混乱しはじめた。 リンクとチャットは顔を見合わせた。 『これってまさか』「四人の巨人か!」 長い脚に、胴はなく、頭が直接くっついているような異形。それがタルミナの四柱の神だ。 四方からやってきた彼らは時計塔を取り囲むように町の中に足を下ろすと、落下する月をそのまま素手で支えはじめた。 「うわあああ!」 スタルキッドは頭を抱えて叫び、真っ逆さまに落下した。どうもショックで気を失ったらしい。だがリンクはそちらに意識を向けられないほど、空で繰り広げられる光景に気を取られていた。 月の圧を受け、巨人たちの膝は不安げに揺れる。 『お願い……!』 祈るようにチャットが呟く。さすがのリンクも固唾をのんで見守るしかなかった。 数瞬後、目に入るものすべての動きが止まった。 月の瞳から光がなくなった。まとっていた魔力が消失する。あたりは恐ろしく静かになる。 『と……止まったわ』 自分の発言で我に返ったように、チャットは沸き立つ。 『やった、止まったのよ!』 『ネエちゃーん!』『トレイル!』 やっと再会した姉弟は羽を絡めて喜び合う。 『よかった、間に合った。巨人たちの叫びがスタルキッドにきいたのね』 肝心のスタルキッドは床に倒れ伏している。すぐにでも仮面を引き剥がすべきか逡巡するリンクに対し、チャットが前に出てスタルキッドへきつい声を浴びせた。 『ちょっとスタルキッド、アンタ何しようとしてたのかわかってんの!』 『待ってよ、ネエちゃん。そんなにスタルキッドを責めないで』 姉と違ってずいぶん優しい弟のようだ。 『トレイル、なにかばってるのよ! あんなにバンバンぶたれて、アンタくやしくないの?』 『さびしかったんだよ……スタルキッド』 『世界を滅ぼそうとしたのよ! だだっこのレベルじゃないわ、許せないわよ』 『仮面の力がそうさせたんだ。スタルキッドが使うにはあまりにも大きすぎたんだよ』 三日もあの状態のスタルキッドと一緒にいれば、仮面の恐ろしさは否が応でも理解できるだろう。チャットは嘆息した。 『身のほどを知らないからよ。気がちっちゃいクセに……バカなんだから、モウ!』 妖精たちが姉弟喧嘩をはじめた時、唐突に、悪意としか言いようのないものがスタルキッドの体から膨れ上がる。リンクはとっさに身構えた。 (なんだ……!?) ムジュラの仮面がすっと宙に浮かび上がった。スタルキッドは意識がないらしく、力の抜けた体が仮面からぶら下がっている。 『確かに力を使うには荷が大きすぎたようだ』 誰のものでもない声が響いた。ひたすらに不穏で、高くも低くもない声だ。 『そうよバカを認めなさい! ……え?』 チャットはぎくりとして動きを止めた。リンクは妖精たちをかばうように前に出る。 「正体を現したか。ムジュラの仮面!」 表情など変わらぬはずなのに、ムジュラの仮面はにたりと笑ったようだ。 『使えない道具はタダのゴミでしかない。この者の役割は、もう終わった』 スタルキッドの体はまさに打ち捨てられたように落下する。リンクが駆けつける間もなく床に投げ出されてしまったが、大した高度はないので怪我はないはず、と信じるしかない。 『まさか! じゃあ、あの月は――』 薄く開かれた月の口から、もやのようなものが降りてきた。ムジュラの仮面はその魔力の流れに沿って月の中へと昇っていく。 逃げられたか、と見上げるリンクの前で、「核」を取り戻した月の瞳に光が戻った。 『オ、オデは……食う。ぜ、ぜんぶ……食う』 それは月の声だったのだろうか。嫌な感覚がリンクの背筋を走り抜けた瞬間、ずん、と月が圧を取り戻す。 『あああ、また月が……!』 すかさず巨人が必死に支えるが、いい加減月の高度が下がって無理な体勢になっている上、ムジュラの仮面が月の中に入ったことで先ほどよりさらに圧力が上がったようだ。このままでは長くは持たないだろう。 リンクは月を睨んだ。ムジュラの仮面が使った魔力の道はまだ残っていた。 「追ってこい、というわけか」 当然乗り込むつもりだった。おそらく、中にはゼロだっているのだ。 チャットが空を切ってリンクのそばにやってくる。 『仕方ないわね、ついていってあげるわよ』 「それは助かる」 『でしょう? もっと感謝しなさいよ』 呆れたリンクが何か言いかけたところで、トレイルが姉のもとに飛んできた。 『ボクも行く!』 『何いってるのトレイル、どうかしちゃったの?』 『ボクもう、逃げてばっかりはイヤなんだ! ボクがしっかりしていればスタルキッドだって――』 姉も弟も意地っ張りなところは似ているようだ。 『気持ちは分かったけど、アンタは待ってて。ここまで来たんだもの、最後までアタシが行くわ』 弟を諭しておいて、チャットはこっそり呟いた。 (しばらく見ないうちに、ダレかみたいにナマイキなことを言うようになったわね。ホントにアンタたちはバカなんだから……) 小さな声を聞き取ったリンクは口の端をわずかに持ち上げた。 『それじゃトレイル、スタルキッドのことよろしくね』 「行くぞ。時間がない」 二人は月の口へと伸びる魔力の流れに飛び込む。視界が白に包まれた。 ←*|#→ (126/132) ←戻る |