1.河口にて
    Fallen ghost




情報の海を揺蕩うのは心地がよい。

視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。体の全てのリセプターを用いて、自分を取り巻く世界からのデータの奔流を一身に受ける。その流れは時に微睡むほどに緩やかで、時に脳を揺さぶるほど激しい。
折原臨也はそんな情報の海に身を投げるのが何より好きだった。とても暗い、自分の輪郭が分からなくなるほどの深みに潜ったかと思えば、太陽の目を焼くほどの目映さを感じる浅瀬に引き上げられる、そんな海。

まるで自分と世界が一体になったような感覚は、少し頭を凍らせる。そうしてその後、自分は他の誰とも相容れることは無いのだと気づく。それでよかった。臨也は傍観することを望んだ。そのものにはなりたくなかった。

海は深くて冷たく、浅くて暖かい。
時間が来たことを感じ、臨也は情報の海から陸へと上がることにした。



「では、京レの開発中迷彩についての情報はこれにまとめていますので」

臨也は机の上に一封の封筒を置いた。向かい側に座る男はそれを受け取り中身を確認すると、大きく息を吐いて臨也に微笑んだ。

「いやあ、噂に違わぬ手腕ですな。こんなに早く持ってきてくださるとは、正直思っても見ませんでしたよ」

恰幅の良い男はハンカチで額を拭った。顔には多少の汗が浮いているが、それを拭う手は一切汗を掻いていない。きっと義体化しているのだろう。臨也は一瞬だけその手に視線を移し、すぐに外して人のいい笑みを浮かべた。

「とりあえず手に入るだけの情報は集めましたが、これ以上の機密も無いとは限りません。ここから先はリスクが大きすぎるのでお受け致しかねますが」
「いえいえとんでもない! これだけのデータを集めてくだされば十分ですよ!」
「それなら良かった。……では、俺はそろそろ失礼します。報酬の方は以前お伝えした口座にお願いしますね」

柔らかいソファから立ち上がり、臨也は傍らに置いていたブリーフケースを掴んだ。

「ええ、本当にありがとうございました。……ところで、随分アナログな物を使っておられるのですね」
「…………やはり紙媒体の方がセキュリティ上、データより管理が容易ですからね。機密事項はなるべく実体で管理するようにしているんです」
「ははあ、なるほど。A級ハッカー様ともなればそういった手段も取るのですなあ」

臨也はそれに軽く微笑んで返すと、依頼主の事務所を後にした。



外は風が強く、二月の厳しい寒さが襲ってくる。
海に面しているここ、新浜市には、冷えた風がよく吹き込んでくる。
海岸沿いの遊歩道をゆっくりと歩きながら、臨也はコートのポケットに両手を突っ込んだ。ブリーフケースは脇に挟む。磯の匂いよりも舗装されたコンクリートの臭いの方が鼻についた。
今抱えていた案件は全て片付いた。あとは家に戻りゆっくりと休むだけだ。妹であり助手でもある双子に風呂を沸かしておくように頼んでいたが、きっとそんな命令は忘れているだろう。
何かが眼前を横切ったような気がしてふと空を見上げれば、雪が降り始めていた。瞬く間に地上へと届き、自らの肩にも積もりゆく。これは大雪になりそうだ、と臨也はコートの前を合わせ、鼻先まで埋めた。


もう少し歩けば車が停めてある。足跡を辿られないようにするために数カ所に設置している偽装車の一つだ。早く帰って休みたくて、臨也は些か早足になった。

ぐにり、と嫌な感触がした。
足下を見れば、人間の手らしきものを踏みつけていた。

「うわっ」

慌てて足をどかす。手は動く気配はない。そのまま手の付いている腕の先を辿って見ると、その腕は植え込みから生えていた。
殺人事件ならば珍しくはない。ありふれている訳でもないが、植え込みだなんてきっと死体を隠す常套手段だ。本来なら放っておいて、自分に下手な疑いがかかる前に逃げるのが得策だ。だが、臨也はそうはしなかった。

(今の感触……相当堅い)

容赦なく全体重を掛けて踏みしめたにも関わらず、この手は軋む音一つ上げなかった。となれば、これは生身の手でなく義体のものだと考えるのが筋である。
義体は基本的にそれなりの価格で売れる。もちろん真っ当なルートではなく、世間で『闇市』と呼ばれる場での取引だ。合法非合法な手段で活動する臨也にとって、義体の転売もその業務内容に含まれていた。
手だけでも売れば多少の小銭にはなるだろう。そう考えた臨也は植え込みから腕を引きずりだした。

「……っちょ、嘘」

引きずり出した腕には、体が付いていた。それだけでなく頭も。金髪の男だった。簡単に引きずり出せてしまったことを考えると、相当軽いボディをしている。
美しい義体だった。目は閉じていて微細な造形は分からないが、その端正な顔から明らかに生身ではないと分かる。身長も高く、体つきもスマートだ。モデルとして使われていたのかもしれない。何故かバーテンダーの服を着ていたので、バーテンダーとして働いていたのかもしれなかった。
これは高く売れそうだ、と臨也は頭の中で算段した。臨也はただの物質の美しさになど興味は無かったが、男性型であろうと女性型であろうと、顔の造形が良いものは比較的高値で売れる。ちょうど車も近い。必要な機器を持ってきていないので分からないが、とりあえずゴーストの宿っていない死体、若しくは廃棄された義体と見て間違い無いだろう。
周りに人気が無いことを確認すると、臨也はなるべく自然に、まるで酔い潰れた友人に肩を貸すようにして義体を担いだ。仕事も上手く行った上に品質の良い義体まで拾えるとは、今日はツいている。上機嫌で臨也は車へと向かった。



「ただいまー……」
「おかえりなさいイザ兄! 晩御飯ならクル姉と一緒にもう食べちゃったよ!」
「遅……」
「別に一緒に食べる必要ないだろ。風呂は?」
「あれ、入るんだったの? もう洗濯機にお湯入れちゃったよ!」
「………………」

帰宅早々ハイテンションな妹に翻弄される。二人きりの世界に入りがちな妹二人は、さっさと自室に戻っていってしまった。あまりの兄への無関心ぶりに多少の侘びしさは感じるが、手土産は見られない方がいい。あの二人にばれたら丁度良いおもちゃにされかねない。
作業部屋のドアを開けてから、一度車に戻り義体を担ぐ。割に軽いので、部分義体ではなく軽量化されたサイボーグかも知れなかった。双子は自室に戻ったままのようで、見られることなく作業部屋へ運び込むことができた。
ほとんど使われることのない寝台に義体を寝かせ、項のソケットに作業用コンソールを繋ぐ。それなりのセキュリティ網が張られてはいたが、臨也にとってそんなものは無いに等しい。適当に掻い潜り、個人情報をチェックする。
どうやら全身サイボーグらしい。身体情報からは、生身の脳と脊椎の存在が確認できた。裏を返せば、それ以外は全て義体化しているという意味だが。
義体のデータを見る限り、どうやら彼、もしくは彼女は軍事用サイボーグだったらしい。違法すれすれの高出力な義体は、軍による最新鋭の製品のようだ。だとすると、何故あんな道端に無造作に落ちていたのだろうか。が、それよりもそんなものを拾ってしまった不運を臨也は案じた。ざっと見たところ、臨也が今持っている以上の情報はこの義体には無かったが、軍の機密に触れてしまったことには変わりない。しかもこれはデータではなく、臨也の罪をより明確に表す物体だ。

早いところ脳と脊椎を外して売り払うに限る。生身の部分の処分はどうにでもなるのだ、売り払った義体は闇市の住人に任せよう。
そう考えた臨也はプラグを抜き、ひとまず脳を取り外そうとケーブルの束の中から制御用コンソールのプラグを探す。なかなか見つからず、普段から整理整頓をしておかなかったことを臨也は悔やんだ。軍の最新機を妹たちが見つければ、放っておくはずがない。さっさと片付けてしまわなければ。

焦る臨也の背後で、それは確かに身じろぎした。金属製と思われる関節が軋んだ音を立てる。それは確かに臨也の耳にも届いた。
臨也が振り返ると、死んでいたはずの義体がゆっくりと、起きあがっていた。それの周りだけ、時が止まってしまったかのようにゆっくりと流れている。
黒い瞳がこちらを捉えた。美しい目だ。未だ意識は定まっていないようだが、どこまでも深く、透き通った目をしている。臨也が苦手としている目だった。

「……あの…………」

義体が口を開いた。低い男の声だった。

「……あ、ああ、何?」
「いや……ここ、どこっすか」

最もな質問だ。だが、見知らぬ人間である俺を目の前にしてこの反応とは、軍の義体にしてはおかしい。中身が入れ替えられているのだろうか。思っていたよりも面倒なことに巻き込まれてしまったのだろうか──

「あの」
「え、ああ、ここ、ここは俺の家だよ。君、道端に落ちてたから」
「落ちてた……行き倒れってことっすか」
「そう……そうだね。君がゴーストの宿った人間だというならね」
「ご……?」

初めて聞いた、という顔で、それはこちらを見つめてきた。おかしな話だ。何も知らない幼児ならいざ知らず、現代に生きるものであれば、その者たらしめる自我、魂を意味する「ゴースト」という言葉を知らない筈がない。

「ゴースト、知らないのかい?」
「いや、知らないっつうか……」

少しムッとした表情でそれは答えた。臨也は人をからかうのが好きだったから、いつも他人を馬鹿にしたような言葉を話す。この男はそれが気に食わなかったらしい。

「俺、なんつーか何も覚えてないんスけど」
「え」


記憶野の障害、もしくは心因性による記憶喪失か。どちらもここまで義体化率の高いサイボーグにはなかなか起こり得ない症状だ。
彼は一体何者なのだろうか。そもそも、何者かであるのだろうか。
男は相変わらず愛想の無い顔でこちらを見ている。臨也は思ったよりも厄介なものを拾ってしまったことに、深い溜め息を吐いた。




 


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