ワンダーランド・サーチライト
4.タイトロープ




静雄が目を覚ますと、パジャマは汗でじっとりと湿っていた。夢見が悪かったせいだ。
横を向けば、臨也が寝息を立てている。
こちらに来てから幾日経ったか、ある日を境に静雄と臨也は同じベッドで寝るようになった。その日と同じ夢を見たのだ。

「……い、臨也」
「…………ん、どしたの……?」

静雄が肩に手を置き、少し名を呼べば臨也はすぐに目を覚ました。元々眠りが浅いのもあるだろうが、静雄がこちらの世界の臨也の前で初めて泣いた日から、臨也は静雄の精神状態に気を配っているようだった。

「……怖い夢、見たんだ」
「どんな夢?」

言いながら臨也は肩におかれた静雄の手を握った。静雄は自分の手が汗ばんでいるので離そうかと思ったが、どうにも不安なのでその手を握り返した。

「…………お前に、気持ち悪い、嫌いだって言われる、夢」
「……また、だね」

それは静雄がこの世界に来る前日の光景だった。

あの日は少し肌寒くて、静雄は自分の耳が冷たくなっていたのを覚えている。その耳は赤くなり、熱くなり、最後には青ざめた。
いつも臨也には化け物だとか気持ち悪いだとか早く死ねだとか言われ続けていたが、自分の慕情を知られた上での罵りは心に刺さるものがあった。
思い起こせば、自分から告白したというだけでもよくやった。愛することが怖くて仕方なかったが、それ以上に、臨也に愛されたいという欲求が膨れ上がってしまった。いや、愛されたいというよりは求められたかったのかもしれない。自分の存在を求める誰かがずっと欲しかった静雄は、その誰かが身近にいたことに気付いてしまったのだ。
そうした一世一代の告白の結果は悲惨なものであり、静雄を絶望に突き落とすには十分なものだった。

「……シズちゃん、それは夢だよ。悪い夢だ」
「臨也……」

臨也は静かに微笑んでいた。静雄は体を起こすのに支えていた肘を曲げ、再び体を横たえた。

「俺はシズちゃんのこと大好きだから。そんな酷いこと絶対言わないよ」

元の世界でのお前は、そんな酷いことを本当に俺に言ったんだぞ。
そう言いたかったが、静雄は言葉を飲み込んだ。こちらの世界の臨也は、ずっと静雄と幸せに生きてきたのだ。
その好意に甘えてしまっていることに、静雄は罪悪感を感じた。

「……そうだな、悪い夢だよな」
「そうだよ。……まだ早い、もう少し寝なよ」
「ん、そうする。…………臨也、手……」
「大丈夫、繋いどくよ」

随分甘えるのが上手くなったものだと、自分でも思う。最初の頃は傍にいるだけでも照れてしまって仕方がなかった。甘えれば甘えただけ、臨也は優しくしてくれるから、ついつい強欲になってしまう。

「臨也……おやすみ」
「おやすみ、シズちゃん」

繋いだ手のひらがより汗ばんできているのが気になったが、睡魔に負けた静雄は再び眠りへと落ちていった。



静雄が目を覚ますと、隣に臨也の姿は無かった。

(……今日は、休みか)

ベッドサイドを見ると、目覚まし時計は10時を指していた。
臨也はきっと、リビングにいるのだろう。もぞもぞとベッドから起き上がり、カーテンを開ける。嫌な曇り空だった。こちらに来てから初めて見るような、暗い空だ。
リビングに行っても、臨也はいなかった。もう仕事に行ってしまったのだと、静雄は独り納得した。何も言わずに出て行ってしまった臨也に、少しだけ寂しさを感じもした。
とにかく腹が減っていたので、静雄は冷蔵庫を漁り、食パンやハムなどで適当に遅い朝食を済ませた。臨也は昼には戻ってくるのだろうか。


5時を回っても、臨也は帰ってこなかった。メールを送ってはみたものの、返信は無い。きっと忙しいのだと、静雄は思い込むことにした。
どのチャンネルを付けても、テレビはつまらないニュースを相変わらずの鏡文字で垂れ流しているだけだ。
一面ガラス張りの窓から外を見ると、ぽつぽつと雨が降り出していた。

(あいつ、傘あんのかな……)

もしかしたら仕事場に常備されているのかもしれない。メールの返信が出来ないなら、雨を気にしている場合ではない危険な案件に関わっているのかもしれない。何にせよ、静雄は臨也の心配などしていなかった。奴がそう簡単に危機に陥るはずが無いと、信じていた。反転した世界でも臨也は臨也なのだと感じていたからだ。

雨が窓を叩く音が心地良い。
不自然に眠気が襲ってきて、静雄はゆるゆるとソファに横たわった。

ざあざあ、ざあざあ。
いつか、聞いたような音だった。



ざあざあと血の流れる音がする。鼓動が早まることはこうもはっきり知覚できるのかと静雄は感嘆した。
そうして、目の前が暗くなった。

(……そうだ、このときの、耳の奥でしてた音だ)

「俺は、シズちゃんのこと大嫌いだよ」

臨也はニヤニヤと笑いながら、静雄に切りかかってきた。

(知ってる、俺だってお前が大嫌いだ)

静雄の意識は確かにあったが、体は勝手にあの日のリフレインを演じていた。
臨也のナイフをかわしながら、静雄は泣いていた。

「ハハッ、何泣いてるの? これだからシズちゃんはっ……!」

ナイフの切っ先が、静雄の頬を掠めた。顎まで伝っていた涙が振り払われ、宙を舞った。臨也はナイフが静雄の肉を捕らえたのを見て、歪んだ笑みを浮かべた。

「動揺しちゃった? 俺に嫌いだって言われて?」

(うるせえよ、俺の勝手だろ)

「…………ッ!」

静雄は身を翻し、その場から走り去った。背中に臨也の嘲り笑う声が突き刺さったが、構わず走り続けた。
ざあざあと、耳の奥で血が流れる音は止まなかった。



「……ちゃん、シズちゃん」
「ん……」

目を開けると、臨也が心配そうに覗き込んでいた。外はもう暗く、室内灯が点けられている。

「ただいま。ずっとここで寝てたの?」
「今、何時だ……?」
「8時。ごめんね、メールも返せなくて。今日は忙しかったんだ」
「いや、構わねえけど……」

相変わらず雨は降っているようで、むしろ雨脚は強さを増しているようだった。その音を聞いて、静雄は今しがた見ていた夢を思い出す。嫌な夢だった。

「夕飯食べてないよね。すぐ作るよ」
「あ……」

笑って台所へ向かおうとする臨也が夢の中の自分と重なって見える。去っていく人の背中だ。
どうにも心がざわついて、静雄は咄嗟に臨也の上着の裾を掴んだ。

「ん、何?」
「…………何でもない」

本当に何でもなかった。別に怖い夢を見たからと慰めてほしかったわけではないし、臨也が永久に居なくなってしまうなんてことはただの妄想だとも気付いていた。それでも、名前を付けられない恐怖が襲ってきて、静雄にこの行動を取らせたのだ。
臨也は微笑むと、静雄の手を優しく包んだ。

「また夢を見ていたの?」
「……ああ」
「そっか」

そのままソファに腰を落とし、臨也は静雄の髪を撫でる。静雄はそれを大人しく甘受した。

「怖かったなら甘えていいんだよ。俺はシズちゃんの恋人なんだから」
「…………」

静雄は臨也の肩に頭を乗せた。臨也はそれを笑って、よしよしなどとわざとらしく言いながら、頭をまた撫でた。

本当は甘えていたわけではない。臨也に表情を見られるのが嫌だったのだ。
最近見るあの夢は、静雄に今の現実は全て夢なのだと突きつけ続けている。早くここから出て行けと告げる。静雄はそれを、この世界における本来の平和島静雄からの警告だと考えていた。勝手に居場所を奪い、臨也の愛までも横取りしている自分を、追い出そうとしているのだと。
それが現実となってしまうことを、静雄は恐れていた。臨也を離したくない。全てが嘘で偽物だったとしても、今あるこれが静雄にとって一番大切な「真実」なのだ。

臨也は相変わらず頭を撫でている。静雄はその手の温度を感じながら、きつく歯を噛み締めた。




 


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