薄暗い世界



遠くから、子供たちが笑いながら歌う声が聞こえてくる。
海沿いの道は風が強く、簡単に飛ばされそうだと静雄は思った。道路の白線を踏みながら歩く。どこまでこの包帯は続くのだろう。



ある日仕事から帰ると、一通の封筒が届いていた。送り主は折原臨也。即座に破り捨てようとしたが、自分を陥れる罠かもしれないと思い留まり、慎重に封を切った。
中には、一枚の古ぼけた切手と、手紙が入っていた。手紙には、

『この切手があれば何処へでも行けるよ』

とだけ、書いてあった。
ははあ、なるほど確かにそうだ、と静雄は深く納得した。この切手があれば、自分は何処へでも行けるのだ。郵便物は何処へだって届けられる。ただ、生き物は郵送してもらえないので、自分の足で歩いて行かなければならないだろう。
静雄には特に行きたい場所は無かった。それでもここでなければ何処だってより良い場所に違いないのだ。静雄は北を目指すことにした。ちょうど明日から盆休みだった。


そして翌日、静雄は財布と切手だけを持ち、北へと歩き出した。携帯電話は置いていった。それはひどく自分を縛り付けるもののように感じていたからだ。
とりあえず電車に乗り、二千円分だけ北を目指した。バーテン服を脱いで池袋を出た自分は、何の力も持たないただの人間になってしまった気がした。窓の外を眺めると、景色がそれなりの速さで後ろへ流れていく。もっと速く走ればいいのにと、静雄はつまらなく感じた。


電車を降りると、そこは海沿いの町だった。海に沿って北を目指そうと考えていた静雄には都合が良かった。
町は閑散とした様子で、駅周りさえ人通りはあまり無かった。ひとまず自動販売機を探し、缶コーヒーを買う。8月の暑い今日は、冷たいコーヒーが飲みたかった。
コーヒーを飲み終え、空き缶をゴミ箱に捨て、静雄は海沿いの道路に出た。車はぽつぽつと走っていた。左右を見て、車が来てないのを確認すると、静雄は走って道路を渡り防波堤に飛び乗った。随分と子供じみた真似だと自嘲する。しかし、誰も見てないなら構うものかとも思った。
その後、車通りが多くなるまで、防波堤の上を歩き続けた。



次の日も、その次の日も静雄は歩き続けた。夜は野宿をするか、駅やバス停で寝泊まりした。だが、交通機関は使わずに、自分の足で歩き続けた。時には何処へ辿り着くとも分からない逃避行への恐怖が胸を掠めることもあったが、今更帰る気にもなれなかった。
この包帯のように続く白線を、追いかけ続けるのだ。その先に何があるかは皆目見当が付かなかった。


赤い夕焼けも夜に浸食されて大分暗くなったころ、静雄は海沿いの少し大きな町に辿り着いた。とはいえやはり人通りは多くなく、そのまま白線を踏みながら行き過ぎようとした矢先、不意に上着の裾を掴まれた。

「大分遠くまで来たね」

振り返れば、切手をくれた男、折原臨也だった。いつも通りの黒いジャケットに赤い目だ。この男だけが、非日常に身を落とした今の静雄に、以前の池袋の日常を突き付けた。

「何でてめぇがいんだよ」
「送り主は俺だから。宛先は知ってるさ」

臨也は虚ろに笑い、静雄を引き寄せ、口付けた。

「ここまでどうだった?」
「別に。なんてこともない町をいくらか通って、海沿い歩いて、そんだけだ」

何故ここに、とは問うたものの、静雄は臨也がいることにさほど驚いてはいなかった。
始めから分かっていて切手を渡したのだ。自分から静雄は逃げられないのだということを。静雄が白線の先にも自分から逃げることのできる場所を見つけられないのだということを。

「さて、そろそろ帰ろうか」
「……まだ、着いてない」

臨也が腕を掴み歩きだそうとするのを、静雄は振り解いた。行き場の無い右手を見てから、臨也は静雄を睨みつけた。

「どこに着くっていうの? 始めから宛てなんて無いじゃん」
「てめぇのいないとこ」

「てめぇのいないとこに、まだ着いてないだろ」


静雄は静かに、そう言った。
臨也は何も言わず、だが厳しい目で静雄を見ている。

「もういい加減にあきらめたら。俺は一生シズちゃんを追い続けるよ」
「しつこいやつだな」
「そんなしつこいやつが好きなんでしょ?」

臨也はそう言って、静雄の横を通り過ぎ、数メートル先まで白線の上を歩いた。静雄はそれを黙って見ている。

「この白線にさ」
「この白線に、終わりは無いんだよ」
「……端っこまで行けば途切れてるだろ」
「そんなの、ただ目に見える部分の終わりでしかない」

すぐそばで、海鳥が甘えたような声で鳴いた。静雄はそれを、意外と人間を恐れないものなんだなあ、と思って聞いた。

「いいよ。俺のこと嫌いって言っても、ずっと一人で引きこもっていても、俺のこと捨てても」
「てめぇに言われなくてもそうする」
「でも、俺の目の届かないところには行っちゃ駄目だ」

そして臨也は静雄に駆け寄り、強く抱きしめた。地元の住民らしき人間が何人か、奇異の目でこちらを見ていた。

「大好きだよ、シズちゃん……」

そう言った臨也は微かに震えていて、静雄は面倒くさい奴だと感じた。臨也の体温は高かった。



臨也は静雄を車で迎えに来ていた。真っ黒な高級車は、如何にも臨也の趣味の塊だった。

「今日中には帰れないね」
「サービスエリアにでも泊まりゃいい」
「俺車で寝るの嫌いなんだよねぇ」

どこかのホテルに泊まろうか、などと臨也が話しているのを聞き流しながら、静雄は車外に目をやった。
すっかり日の沈んだ世界で、海が宝石のように輝いていた。




 


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