03.-1






日が昇り、空が白み始めた頃。

スウェットスーツに身を包んだ名前は、
一通りのトレーニングを終えて、一段落ついていた。





『………』





伝う汗をタオルで拭い、何とはなしに、周りの景色を眺めている。

その視線が、あるところでピタリと止まった。

禁じられた森のある一点を、瞬きもせずにじっと見つめている。

日が昇り始めたとはいえ、まだまだ辺りは薄暗い。

昼間でさえ暗い森の中なので、夜が明けたばかりの今頃などは、そこは闇と見紛うごとく暗い。





『…』





暗闇ばかりで物がよく見えない森の中。
ある一点。
名前はじっと見つめながら目を細める。

見つめる先の暗闇に、何かがいる。

確かに、動いているのだ。





『…』





名前は動いているそれから目を離さないまま、少しずつ歩を進めた。

朝露に濡れた芝生を忍び足で踏み締めながら、森の方へ近付いていく。

一歩、
また一歩。

近付いていくたびに、その姿が鮮明になっていく。





『…』



「…」





名前の足で、あと五歩くらいの距離だろうか。

気配に気付いたのか、森へ向かう足をピタリと止めて、それは名前の方へと顔を向けた。

黒い、痩せた犬だった。

警戒しているような鋭い目で、じっと名前を見つめている。





『…』





どちらも動かず、見つめ合ったまま。

先に動いたのは名前だった。

おもむろに屈むと濡れた芝生に跪き、じっと犬を見つめた。

犬も名前をじっと見つめた。





『…』



「…」



『…』



「…」





どれほどの時間そうしていたのか分からないが、何の前触れもなく、犬が動いた。

今までの用心深さはどこへいったのか、躊躇う事も立ち止まる事もせずに名前の方へと近付いていく。

そして名前の前まで来ると、ピタリと立ち止まり、そこに座ったのだった。





『…』



「…」





じっと見つめてくるそのつぶらな瞳に、先ほどまであった明らかな警戒心は無くなっていた。

完全に気を許したわけではないだろうが、元々人懐こい犬なのかもしれない。

犬の鼻先に、名前はゆっくりと手を近付けた。





「…」



『…』





犬の鼻がひくひくと動く。

少し乾いた鼻が掌に押し付けられ、ぺろりと生暖かい舌が触れた。

名前はもう片方の手をゆっくり伸ばし、犬の頭に載せるようにした。

犬は動かず、されるがままだ。





『…かわいい。』



「…」





犬の耳がピクリと動き、つぶらな瞳が名前を見つめた。

名前は相変わらずの無表情で、犬が抵抗しないのを良いことに、頭から尻尾の先まで存分に撫でる。

不気味なほど無表情で長身痩躯の男に、かわいいと言われながら愛でられるのは、
相手が人間であれば恐怖に駆られて泣き出すところだろう。





『…海の匂いがする。』



「…」





犬の体毛が少し長めなせいか、絡まりあい団子状になっている部分が所々存在した。

その上、毛がいくつもの束になり、硬く固まっているのだ。

そして不思議なことに、潮のかおりがするのである。





『…』



「…」





洗ってブラッシングしてやれば、見違えるようにきれいになるだろうことは、想像に容易い。

手元に必要な道具が無いので、残念ながら実行出来ないが。

ただ、肋骨が浮いた、骨と皮だけのような痩せた体。

定期的に何か食べ物をあげられるのなら、それはどうにかできるかもしれない。





『…』



「…」





しかし、相手は野生の動物である。

次に来たとき、また出会える確率はとても低い。





『…また、来る。
何か食べ物を持って。…。』



「…」



『…会えるかな。』





ぽつぽつ、まるで独り言のように話し掛けた。

人と犬。

およそ言葉が通じる相手ではないが、犬は返事でもするかのように、初めて一声鳴いた。





『…』





ふと気付けば、辺りはすっかり明るくなり、名前と犬の影がはっきりと足下にのびている。

大広間では賑やかな朝食が行われている頃だろう。





『…またね。』





名前が立ち上がると、犬も立ち上がった。

互いに背を向けて歩き始める。

名前は学校へ。
犬は森の中へ。

それぞれ歩を進めた。















九時から受ける授業はいくつかあるが、名前がまず選んだのは占い学のようだ。

長い階段をいくつも上った次には、これまた長い螺旋階段を上る。

『占い学』は北塔の天辺で行われるのだ。





『…』





小さな踊り場に辿り着くと、先に来ていた生徒達が梯子を伝って教室に入るところだった。

天井のハネ扉から梯子が下りてきているらしい。

そのハネ扉には、シビル・トレローニー『占い学』教授と記された真鍮の表札が付いていた。





『…』





最後の一人―――名前も梯子を伝って上っていく。

教室は薄暗く、息苦しいほどに蒸し暑かった。

お香の匂いだろうか。
室内に充満している。





「『占い学』にようこそ。」





声が聞こえた。
か細い、女性の声だ。

暗がりの中、名前は目を凝らす。

声を発した主らしき女性が一人、暖炉の前の肘掛け椅子に腰かけていた。





「あたくしがトレローニー教授です。
多分、あたくしの姿を見た事が無いでしょうね。
学校の俗世の騒がしさの中にしばしば降りて参りますと、あたくしの『心眼』が曇ってしまいますの。」





トレローニーはどうやら生徒達に話し掛けているようだった。

どうやらもう授業が始まっているらしい。
早く着席しなければならない。

教室に点々と灯された頼りない深紅の明かりを道標に、名前は残り一つの空席を目指した。





「皆様がお選びになったのは、『占い学』。魔法の学問の中でも一番難しいものですわ。
初めにお断りしておきましょう。『眼力』の備わっていない方には、あたくしがお教え出来る事は殆どありませんのよ。
この学問では、書物はあるところまでしか教えてくれませんの……。」





静かに、隅の空いた席に座る。

予想外にふかふかした椅子で、名前は危うく引っくり返るところだった。

皆がトレローニーの話に集中している今、少しでも音を立てればとても目立つだろう。
気を付けなければならない。





「いかに優れた魔法使いや魔女たりとも、派手な音や匂いに優れ、雲隠れ術に長けていても、未来の神秘の帳を見透かす事は出来ません。

限られたものだけに与えられる、『天分』とも言えましょう。
あなた、そこの男の子。」





突然、トレローニーはネビルに声を掛けた。

大きな眼鏡と、それによって大きく見える目が、怪しげに煌めきながらネビルを見据える。





「あなたのおばあ様はお元気?」



「元気だと思います。」



「あたくしがあなたの立場だったら、そんなに自信ありげな言い方は出来ませんことよ。」





ゴクリ。
唾を飲み込む音と共に、ネビルの喉が大きく動く。

いつもより一層不安そうな表情に変わったが、トレローニーは気にせず話を続けた。





「一年間、占いの基本的な方法をお勉強いたしましょう。
今学期はお茶の葉を読む事に専念いたします。来学期は手相学に進みましょう。
ところで、あなた。」





トレローニーは先程と同じように、突然パーハディ・パチルを見詰めた。





「赤毛の男子にお気をつけあそばせ。」





パーハディ・パチルは驚いたように目を見開いた後、後ろの席に座っていたロンを見た。

そして、おもむろに椅子を引いて、少し距離をとる。

トレローニーはやはり、何事も無かったかのように話を続けた。





「夏の学期には、
水晶玉に進みましょう―――ただし、炎の呪いを乗り切れたらでございますよ。
つまり、不幸な事に、二月にこのクラスは性質の悪い流感で中断される事になり、あたくし自身も声が出なくなりますの。
イースターの頃、クラスの誰かと永久にお別れする事になりますわ。」





話が始まってから何度目だろうか。

トレローニーはさらりさらりと意味深長な言葉を残し、その度に生徒達を緊張させた。

けれども、トレローニー本人は何事も無かったかのように話を続けるし、
多くの生徒達が体を強張らせる中、名前ただ一人、相変わらず無表情であった。





「あなた、よろしいかしら。
一番大きな銀のティーポットを取っていただけないこと?」





声を掛けられたラベンダー・ブラウンは縮こまったが、その目的がティーポットだと知ると、明らかに安堵した表情に変わり、椅子から立ち上がった。

そして棚から巨大なティーポットを取って、トレローニーのテーブルに置いた。





「まあ、ありがとう。
ところで、あなたの恐れている事ですけれど、十月十六日の金曜日に起こりますよ。」





そしてやはりトレローニーは、さらりさらりと意味深長な言葉を囁いて。

やはり、生徒を怯えさせるのだった。





「それでは、皆様、二人ずつ組になって下さいな。
棚から紅茶のカップを取って、あたくしのところへいらっしゃい。紅茶を注いで差し上げましょう。
それからお座りになって、お飲みなさい。最後に滓が残るところまでお飲みなさい。

左手でカップを持ち、滓をカップの内側に沿って三度回しましょう。
それからカップを受け皿の上に伏せて下さい。
最後の一滴が切れるのを待ってご自分のカップを相手に渡し、読んでもらいます。
『未来の霧を晴らす』の五ページ、六ページを見て、葉の模様を読みましょう。
あたくしは皆様の中に移動して、お助けしたり、お教えしたりいたしますわ。
あぁ、それから、あなた―――」





トレローニーは立ち上がりかけていたネビルの腕を押さえ、引き留めた。

何事かと怯えるネビルを、トレローニーの大きな目がじっと見据える。





「一個目のカップを割ってしまったら、次はブルーの模様の入ったのにして下さる?
あたくし、ピンクのが気に入ってますのよ。」





そのすぐ後だ。

言葉通り、ネビルはカップを割った。





「ブルーのにしてね。よろしいかしら……
ありがとう……。」





割れたカップが片付けられた後、生徒達のカップにお茶が注がれた。

湯気が立ち上る、カップを持つ事さえ躊躇うほど、熱いお茶だ。

事実、名前は舌を火傷してしまった。





「あら、まあ…
あなた、お一人?」





カップの葉の模様と、教科書を見比べる名前は、一人である。

毎度の事だが、組にならなければならない授業で、何故か名前は一人ぼっちになることが多い。





『はい。』



「それでは、あたくしと見てみましょう。
お茶はもうお飲みになった?」



『はい。』



「何が見えました?見えたものをお話になって…」





話せと言われても、カップにこびりつくのは茶葉にしか見えない。

歪なそれらは何にでも見えてしまう。





『これは、鳥、…で…
これが…十字架、
あと、これは、仮面…に、見えます。』





名前は本と茶葉を見比べながら、自信無さげな小さな声で言った。

トレローニーはふんふんと頷く。





「カップをお見せになって…」



『はい。…』



「………」





トレローニーは名前からカップを受け取ると、じっとそれにへばりついた茶葉を見つめる。

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