31.
夏休みの終わりが差し迫ってきた。
明日、名前は日本を発つ。
トレーニング、学校の課題、店の手伝いを繰り返すだけ。
ただそれだけを繰り返す、代わり映えのしない日々を過ごした。
学校の件で、両親は過保護になり。
トレーニングのおかげで、名前は筋肉質になった。
変化を挙げるならば、それくらいだろうか。
出発前夜。
名前は自室に閉じこもり、トランクを開いて、せっかく詰めた荷物を床の上に広げている。
忘れ物が無いか確認しているのだ。
「名前、開けていい?」
『…』
数回のノック。
続いて母親の声。
名前は立ち上がり、ドアを開けた。
寝間着姿の母親が立っており、名前を見上げている。
『…どうしたの。』
「お風呂、空いたよ。入ってきたら?」
『…』
トレーニングのせいでなくても、汗だくになるこの季節。
名前は一日に何度もシャワーを浴びている。
お風呂に入る必要は無いような気がするが、存外風呂好きらしい。
コクリと頷き、トランクの元へ戻ると、
先程よりも手早く、荷物の確認を進めた。
「ああ、学校に行く準備をしてるんだ。」
『確認。』
「手伝おうか。二人の方が早く済むもの。」
『…ありがとう。』
部屋に入った母親は、ドアを閉めて、名前の前に腰を据えた。
名前お手製のチェックリストを見ながら、二人がかりで荷物の確認をする。
『…』
「…」
親子の間に会話は少ない。
母親は元より口数少なく、言わずもがな、名前はこの通り無口である。
聞こえるのは虫の声ばかりだ。
夜だというのに、外からは蝉の鳴き声がする。
『…』
ふと、名前は手を止めた。
それから顔を上げて、じっと、母親を見つめた。
チェックリストに目を通す母親が、その視線に気が付くことはない。
少しして、珍しく名前が先話を振った。
『…お母さん。』
「ん…?」
母親は手を止めて、ゆっくり顔を上げた。
名前を見て、目をぱちくりさせている。
『学校でのこと、聞いた。』
「学校のこと?………」
『うん。…』
「何だろう…」
腕組みをして、母親は首を傾げた。
考えているらしい母親を、名前はしばらく見つめていたが、
あんまりにもその沈黙が長いので、口を開いた。
『声のこと。』
「声?」
『声が理解できる。
人の声じゃない、声。』
「…」
名前を見つめる、その目の色が変わった。
思い当たるふしがあるようだ。
『普段は理解できない。たまに、分かる。…
先生は、お母さんも同じだったって言っていた。』
「ええ、そうね。…そう。
名前もそうなのね。」
控えめに眉根を寄せて、母親は目を伏せた。
それから名前を見つめて、少しだけ微笑む。
「ごめんね、名前。
いらないものを受け継がせちゃったね。」
ゆるり、首を横に振る。
『お母さんと同じように、制御できるようになれないかな。』
「それって、自由に扱えるようになりたいってこと?
それとも、聞こえないようにしたいの?」
『…自由に。』
「……
…やろうと思えば出来るだろうけど、…やらない方がいいよ。」
『…』
「使わないまま、意識しないまま、忘れてしまった方がいいよ。」
『…どうして。』
「名前。」
溜め息を吐くように名前を呼ぶ。
母親の表情は、もうどうしようもない事を目の前にした、
何か諦めを感じさせるものだった。
「あのね。普段は聞こえないのよね?」
『…』
頷く。
「なら、制御する必要はないんじゃないかな。」
『…』
「今の名前は、たまにしか声が聞こえないのよね。
それを自由に扱いたいってことは、扱えるように練習するよね。
今まで聞こえなかった声を聞かなきゃいけなくなるんだよ?」
『…』
今まで聞こえなかった声、というものが、どんなものか。
名前には想像が出来ない。
名前が聞いた声はバジリスクと、ハリーの蛇語のみである。
いや。
よくよく記憶を遡れば、もしかしたら一年生の頃。
クィレルがハリーの手によって焼け爛れてしまった、あの瞬間。
名前は、まるでクィレルに乗り移ってしまったような感覚に陥った。
そして。
記憶にはないが、ユニコーンの死体に触れた名前が、代弁でもするように語りだしたという事。
それらの出来事も、声が理解できる、ということに関係しているのかもしれない。
それでも。
それよりも。
もっとたくさんの声が聞こえる。
それがどんなものなのか、想像が出来ない。
ただ、名前を諭す母親の表情や声音から、気分がよいものではないことだけは分かった。
「とてもつらいと思うよ。…
それでもやりたいのなら、名前がもう少し大人になってからね…。」
『…』
「いいね?」
『………わかった。』
軽はずみな言動だったのかもしれない。
名前にそんなつもりはなかったとしても。
母親にとっては、軽率に聞こえたのかもしれない。
母親は頑なだった。
真っ直ぐした視線に、意志の固さを感じさせた。
曲げる様子はなかった。
顔は強張り、
目付きは鋭く、
声は厳しい。
名前が母親自身と同じ力を持つ。
それを恐れているようにすら感じさせた。
「ほんまにここでいいの?空港まで送るよ?」
『…いい。』
ゆるりと首を横に振る。
店先で、両親はほんの少し不安そうに名前を眺めた。
『何度も行ってるから、大丈夫。』
「そら、そうやけど…」
後頭部を掻きながら、父親は言葉を探しているようだった。
それをよそに、名前は身嗜みを整え、トランクの持ち手をしっかり握る。
いつまでも別れを惜しんではいられない。
飛行機に乗る時間は決まっているし、店はとっくに開く時間である。
「名前、これ…」
『…』
店のエプロンを身に付けた母親が、ポケットから何かを取り出した。
それを名前の掌に乗せる。
鈴だった。
綺麗な紐が丁寧に結われている。
揺らしてみるが音は鳴らない。
「その鈴。悪いものが近付いてきたときだけ鳴るのように、魔法がかけてあるのよ。」
『…悪いもの、』
「きっと役立つ。その音は、悪いものを取り除いたり、清める効果があるから。
名前、いつも身に付けていて。手放さないで。」
『…ありがとう。』
学校の出来事か、シリウス・ブラックの脱獄のせいか。
いつの間にそんなものを用意していたのか分からないが、母親の心配性に拍車をかけているようだ。
首にかけ、長さの調節をする。
出しておくと目立つので、服の下にしまった。
飼い猫にでもなったようだ。
「いってらっしゃい、名前。」
「気を付けて。」
『…いってきます。』
改めて、名前はトランクの持ち手を握り締める。
両親は寄り添いながら店先にて名前を見送った。
大きく、重たいトランクを引く。
そのトランクが小さく見えるほど、名前の背は伸びていた。
トランクを引く名前の後ろ姿は、相変わらず、ほんの少し猫背である。
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