30.
夏の日の出は早い。
雲の合間に日の光が差し込んで、空が白み始めている。
今日も暑くなりそうだ。
自宅から道路に出ると、足元のアスファルトから熱気を感じた。
まだ昨日の熱が残っているのだ。
熱の残るアスファルトを蹴り、名前は日課のロードワークを行う。
『(…届いたかな)』
新聞配達のバイクを横目に、首筋を伝う汗を拭った。
先日の買い物で、ハリーに誕生日カードとプレゼントを買った。
それを送ったばかりだが、彼は果たして喜んでくれただろうか。
休憩を挟みながら、ロードワークを続けた。
帰宅する時には朝日が鋭く射し込み、蝉と小鳥が鳴き出していた。
『…』
ポストの中に、配達物は無い。
朝刊は抜き取られた後のようだ。
「おかえりぃ、名前。」
『ただいま。』
父親が鏡の前でにらめっこしている。
髭を剃っているらしい。
名前は気にせず服を脱いで、風呂場の扉を閉じた。
「おかえり、名前。
シャワーは浴びた?」
『うん。』
「それじゃ、朝御飯にしようか。」
母親はにこりと微笑む。
味噌汁を温め、茶碗にご飯をよそう。
それぞれ席に座り、手を合わせた。
「昨日の夜も暑かったなぁ。
名前、眠れた?お父ちゃん寝不足やで。」
『眠れたよ。』
「仕事中に居眠りしないでよ。」
「はぁい。気を付けます。」
間延びした声に、母親は片方の眉を上げる。
父親は気が付いていないのか、気が付いていないふりをしているのか、納豆をかき混ぜるのに夢中である。
「…そうだ、名前。学校から手紙が届いていたよ。」
『…』
「もうそんな時期なんやなぁ。」
父親はまだ納豆をかき混ぜている。
母親は新聞とたくさんの広告に紛れた白い封筒を抜き出し、名前に手渡した。
名前は湯気の立つ朝食を眺め、封筒を傍らに置く。
とりあえず、温かな食事を優先させた。
『…』
ジムに行くには、まだ時間に余裕があった。
食事を終えた名前は、ペーパナイフを使い、封筒を切り開く。
『………お父さん。』
「ん?なに、名前。」
『これ。…』
「どうした。」
羊皮紙に目を通した名前は、新聞を読む父親に、封筒の中身を全て渡した。
「ホグズミードか。」
『…』
父親の顔付きが柔らかなものになる。
声音は懐かしさに満ちていた。
『行った事があるの。』
「あるよ。お母ちゃんとね。」
『…どんなところ。』
「『三本の箒』の『バタービール』は美味しい。寒い時期やったから、よーく覚えてるんや。お母ちゃんと隅っこの席に座ってな…」
『…』
「面白いお店がたくさんある。お金は余分に持っていきなさい。
許可証にはサインしておくから、名前はジムに行かないとな。」
父親の視線が、名前の背後にある時計へ向けられた。
つられて名前も見る。
気が付けば、ジムまで走らなければ間に合わなくなっていた。
日が落ちる頃に帰宅して、名前はポストから夕刊を抜き取る。
店も閉じる時間だ。
帰宅した名前が居間に向かうと、両親はのんびりしていた。
「名前、おかえりなさい。」
『ただいま。』
「ご飯にしようか。あなた、机の上。綺麗にしてね。」
「はぁい。」
返事はするが、父親はパソコンとにらめっこしている。
母親は溜め息を吐いてから台所へ向かった。
代わりに名前が机の上の物を片付けたり、布巾で拭いたりする。
「脱獄やって。」
『…』
独り言のようだったが、どうやら名前に話し掛けているようだ。
「脱獄?誰が?」
お盆を手にした母親が戻って来る。
父親の独り言は母親にも聞こえていたらしい。
「シリウス・ブラック。」
「そう…。それじゃあ、役所は大変だろうね。」
「せやなあ。ホグワーツも看守が必要になるやろうし、うーん。
なんや初っぱなから大変な事になってしまったな。」
「看守ね。…アズカバンの看守となると、あんまり穏やかな人はいなさそうね。」
『…』
名前は目をパチパチさせて、両親を交互に見つめる。
「名前、シリウス・ブラックは知ってる?」
『…少しだけ。十二年前、十三人殺された。』
「そうね。」
不意に会話は途切れ、両親は同時に名前を見た。
それから何事も無かったかのように、思い思いに行動を再開する。
眉を寄せたままの母親は、机の上に夕食の準備を始めた。
父親はパソコンとにらめっこしたままだ。
名前は静かに首を傾げる。
意味ありげな視線と沈黙が、名前に言い知れぬ違和感を覚えさせた。
『…』
パソコンの電源を落とした父親は、ゆっくりした動作で食卓にやって来た。
机の上には夕食が並べられている。
手を合わせて、夕食に手をつけた。
『……
あの。…』
「ん?」
『さっき、…』
「さっき?」
『どうして、俺を見たの。』
両親はきょとんとした顔で、互いに顔を見合わせた。
そして、納得したように頷き合う。
「名前の事がね、心配なのよね。」
『…』
「そう。無防備やから。」
『…』
両親はウンウンと頷いている。
しかし名前を言い表すのに無防備という言葉は、あまり当てはまる要素はない。
少なくとも、その様子や纏う雰囲気からは感じられない。
大きな手は骨張っているが、物を扱う手付きは神経質なほど丁寧である。
涼しげな目元は、対象物を観察するかの如くじっと見つめる。
その姿は、睨んでいるふうにも映るかもしれない。
むしろ隙がないように見える。
「アズカバンの看守はね、…
名前、近付いちゃ駄目よ。」
『…どうして。』
「今回の事で、気が立っているだろうし……
あんまり、穏やかな人は、いないと思う。」
「もちろん、そんな人ばっかりではないやろうけどね。」
「名前は危機感が無いというか、怖いもの知らずというか、無防備なところがあるから。
そこが心配なのよね。とっても。」
『…』
「とっても」の部分を強調されてしまった。
探す必要が無いくらい、心当たりがある。
「吸魂鬼じゃなければいいけれど。」
「アレは誰彼無しに襲いかかるからなあ。」
嘆息を吐きながら、母親は呟く。
あまり食が進んでいない。
反対に父親は口いっぱいにご飯を頬張り、その事についてはあまり気にしていないようだった。
「名前。
お父さんが教えた魔法、ちゃんと使うのよ。」
『…』
曖昧に頷くと、母親はますます眉を寄せた。
父親はご飯のお代わりをしている。
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