29.
『いただきます。』
手を合わせてから箸を取ると、名前はまず味噌汁に手を付けた。
朝から熊蝉が喧しく鳴いている。
年を追う毎に暑さを増しているような気がする。
「名前、また大きくなったなあ。」
『…』
「本当。もうすぐお父さんに追い付くわね。」
感慨深い面持ちで、両親は名前の顔を見つめた。
自宅へ帰ってきた名前はことさら優しく扱われた。
学校から出来事を聞いたのだろう。
強くなりたいと大口を叩いておきながら、この様である。
情けなさやら恥ずかしさから、名前は縮こまってしまった。
「なあ、今日、買い物行こうか。」
そんな名前を見つめながら、父親は言った。
何がどうしてそうなったのかは分からないが、突然の提案に名前は味噌汁を落としそうになる。
父親のこうした脈絡の無い話をするところは、しっかり名前に受け継がれているが、
おそらく名前は自覚していない。
「名前の服とか、靴。見に行こう。」
「いいわね。」
『足りてる。…いらない。』
「そう言わないで。」
「名前、私達、ダイアゴン横丁での買い物。教科書とか、ローブとかね。
付いていってあげられたらいいんだけど、いつもあなた一人でしょう。
たまには一緒にお買い物したいのよ。」
『…』
確かに、名前はホグワーツに入学する時の買い物でさえ、全て一人で行った。
けれどそれは店の仕事があるからで、名前はそれを理解している。
誕生日、お盆休み、クリスマス、お正月。休みなどほとんど無い。
両親はいつも忙しい。
『店がある。』
「今日は休業。決定!」
「だから一日、たっぷり時間はあるわ。
いいでしょ?名前。」
『…』
いつも忙しい両親が、こんなにも食い下がるのだ。
頷くしかなかった。
両親は大層喜んだ。
買い物するという事は、両親の間で既に決められていたのかもしれない。
それからの流れは実にスムーズだった。
準備してから目的地に着くまで、時間はそうかからなかったからだ。
駐車場に何とか空きを見つけて、父親は苦心して車を停めた。
名前の家付近で一番大きなデパートへやって来たわけだが、世間は夏休みである。
人がごった返している。
「さて、名前。どこから見ようか?」
「服と、靴も新しくしなくちゃね。
あと、髪の毛も伸びてるし、美容院も寄らなきゃ。」
何が楽しいのか、両親はやたらニコニコと笑っている。
名前はそれどころではなかった。
部活帰りの学生や、夏休みを満喫する子どもらが、じろじろと無遠慮な視線を投げ付けてくるのだ。
他に抜きん出る名前の身長。
更に長身の父親。
効果は倍だ。
「めっちゃ背高ーい。いくつあるんやろ。」
「足長い…細い…うらやましい…」
『…』
聞かないようにして、名前は両親の後をついていく。
デパートの広い売り場に、たくさんの小売り店が並んでいる。
その狭さに反して、商品はうずたかく積まれていた。
倒れてきそうで怖い。
「名前、どんなのがいい?」
『…分からない。』
「こんなのはどう?」
『…』
「何かお探しですか?」
店員がやって来た。
父親は手に取ったドクロ柄の服を棚に戻し、店員に向き合う。
余談だが名前が普段着ているのは無地無彩色のものばかりで、間違ってもドクロ柄は着ないだろう。
「ああ、この子の服をと思ったんですけど。」
「何がいいか分からないみたいなんです。」
「うーん、そうですねぇ。」
『…』
「細身でいらっしゃいますから、すっきり着こなせるものが映えると思います。
こちらはどうでしょう?」
「いいですね。色はどれがいいかなあ。いつも黒が多いんやけど。
明るい色も、淡い色も、合うと思うなあ。」
「それじゃあ名前、着てみて。」
『…』
試着室に押し込まれた。
着替えるしかないようだ。
『…』
膝を曲げたり、腕を伸ばしたり。
サイズは合っているようだ。
「名前、どんな感じ?」
試着室の外から、父親の声がした。
鏡に映った自分の姿を見てから、名前はカーテンを引く。
父親と母親、店員が名前を見て、満足そうに頷いた。
「ハンサムな息子さんですねぇ。
お顔立ちが整ってて上品やし、背も高いしねえ。
お洋服が映えますわ。ようお似合いです。」
「そうでしょう。無愛想なのが玉にキズなんですけどね。」
「そやけど、かわいいんですよねぇ。」
「そらそうでしょう。私も息子がいて、大きくなった今は生意気なもんやけど、それでもかわいいんですよ。
親の贔屓目なんでしょうねぇ。」
『…』
なんだかご満悦な様子の両親。
息子自慢をしたいだけかもしれない。
店員と両親の会話はヒートアップしていく。
長丁場になりそうだ。
とりあえず、
着替えたいのだが…。
買い物を終えた頃には、空に星が瞬いていた。
後部座席に座る名前は、買い物袋に埋もれている。
これからレストランに向かう。
荷物に押し潰されないよう、しばらく支えていなければならない。
「名前。」
『…』
父親に名前を呼ばれて、名前は顔を運転席に向けた。
父親の横顔をじっと見つめる。
けれど、父親は黙っている。
ルームミラーに目を移す。
そこから見える父親の顔も、名前を見てはいなかった。
『お父さん、どうしたの。』
「…」
先を促すように名前は尋ねてみたけれども、父親は珍しく口をつぐんでいる。
チラリ。助手席に座る母親が、父親の方を見た。
「あのね、名前。私達は心配なのよ。」
『…』
そして、母親が口を開いた。
父親が言えずにいる事を、母親が代弁しようとしているらしい。
『何が心配なの。』
「去年も、今年も。
名前は学校で酷い目にあったでしょ。」
『…』
「来年もまたそうなるんじゃないかって、心配なのよ。」
『学校…行かないわけには、いかないよ。』
「うん。そうね。名前は学校へ行くことを望んでいるし、私達も明るく送り出したい。
けど、二回も続くとね…」
「ごめんね、名前。お父ちゃん、不安にさせたくないんやけど。」
『…』
「なんというか、これからどんどんエスカレートしそうでなあ。怖いねん。」
父親は叱られた子どものようにしょんぼりとしている。
今日の買い物は、名前の為だと言って、あれやこれやと名前の物を買ったけれど、
もしかしたら贖罪の思いも含まれているのかもしれない。
名前に対する純粋な愛情も、もちろんあるだろうけれど。
「学校に着いていけたらなあ。」
『…』
その呟きが思いの外現実味を帯びていて、名前は少しばかり動揺した。
この二人なら、やりかねない。
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