26.






『…』





パチリ。
目を開く。

同時に、気を失っていた事に気付く。





『…』





どうやら、自身の体は、地面に横たわっているらしい。

後頭部から踵にかけて、冷たく硬い感触が伝わってくる。





『…』





パチリ。
パチリ。

瞬く瞬間、暗くなる視界。

それと大差ないほどに、今名前がいるこの場所も、明かりはあるらしいが、暗かった。

天井はドーム型で、案外と高いらしい。
闇が広がっている。
明かりが届かないほどで、星のない夜空のようだ。





『…』





ぼんやりと天井を見つめる。

瞬きと呼吸を繰り返しながら、考える。

ジニーに連れられて、女子トイレに来た。
蛇口が回り、手洗い台が沈み、人が滑り込めるような太いパイプが現れた。
そこが『秘密の部屋』の扉になっていたのだ。

パイプの中に滑り込んで、
小さな骨が埋まる道を歩いて、
蛇の模様がある壁をくぐって―――
そこから、記憶が途切れている。

気付いたら、寝そべっていた。





『…』





加えて、体が異様にだるい。

指先をほんの少し動かす、それさえ億劫なほどに。





「目を覚ましたようだね。」





声がした。

仰向けに横たわっている名前の、頭上からだ。






「目を覚ますなんて思わなかったのに。」





近寄る気配は無いのに、声は近付いてくる。

もう、すぐそこにいる。

声の主は、名前の視界に入り込んだ。





『…トム。』



「やあ、ナマエ。」





にっこりと微笑む。
この場に相応しくない、穏やかな笑顔だ。
暗闇の中なのに、彼ははっきり見える。
ぼんやりと発光しているのだ。





『…』



「驚いたかい?僕は驚いたよ。
君は衰弱していたからね。」



『…』



「意識を失った君から、力をいただくつもりだったのに。
出来なかった。その為にジニーを使ったのにな。」



『…ジニー、は……』



「彼女が気になるのかい?あそこに寝ているよ。」





トムは指差した。
そちらを見ると、遠く離れた場所に、ジニーらしき姿があった。
仰向けに横たわり、動かない。





「もう目を覚ます事はないけどね。」





冷たい声だった。
ジニーからトムへ目を移す。
彼は名前を見下ろし、片方の口角を上げて見せた。





「君もそうなるはずだったんだ。
そうすれば、君はずっと幸せな夢を見ていられた。」



『…』



「だけど、君の強い力がそうさせなかった。
体が動かないだろう?意識を失いながらも、君は僕を拒み続けた。その為に力を使い続けたのだから。」



『…』



「ナマエ。僕が言っている事、何一つ分からない?」





トムは片手を上げた。

何か持っている。
大きくはない。

名前はじっとそれを見詰める。

黒い表紙。
日記だ。

ハリーが拾った、五十年前の日記だ。





「僕の日記だ。」





見せ付けるように、名前の目の前に持ってくる。





「僕が記した。」





言って、トムは日記をしまった。
口元に笑みを浮かべながら、名前を見下ろす。





『トム、は…』



「トム・マールヴォロ・リドル。僕の名だ。」



『…』



「いや、―――

ヴォルデモート。
それが僕の名だ。」



『…』



「杖は預かっているよ。」





名前を聞いた途端、名前の指先はピクリと反応した。

それから、今まで動かなかったのが嘘のように、ポケットに触れる事が出来た。

あったはずの杖は無くなっていたけれど。





「ありふれた名前だからかい?君は気が付かなかったね。
トムとトム・リドルを結び付けなかった。
僕にとって好都合だったよ。けれど、
頭のいい君が?鋭い君が?少し抜けているようだ。」





名前を見るトムの目付きは、明らかに「可哀想なもの」を見る目付きだ。
呆れ、蔑み、哀れみ…そんなものが含まれている。

その上名前を見下ろす立場にあるのだから、余計にそういう印象を強くさせた。

体が動かない名前は、目をそらす事でしか、
その視線から逃れる術は無い。





「この現実こそが夢だと思うかい?」





必死に目をそらす名前に、ますます呆れたらしい。

疲れたような声で、溜め息でも吐くように、トムは言った。





「残念ながら現実なんだ。思いたいだろうね。友人トムが裏切るなんて嘘だって。
結果的に、君は君自身を傷付ける事になった。力が強いというのも考えものだ。
本人が自覚していないのなら、尚更…」





そこでピタリと、話すのを止めた。
口を閉じたトムは、じっと名前を見詰める。

沈黙が続く。
緊張感が増していく。





「君を殺すには、その力はあまりに惜しい。」



『…』





チラリ。
名前はトムを見上げる。
トムは目をそらなさない。
瞬きもせずに、名前を見下ろしている。

じっくりと、舐めるように。
芸術作品を鑑賞するかのように。





「けれど生かしておけば、脅威になるだろう。」



『…』



「殺さず、生かしておける方法は何だと思う?」



『…』





雲行きが怪しくなってきた。

話はどんどん進んでいる。

トムの声も、どことなく高揚してきたように感じる。





「操る。良い方法だ。お互いに傷つけずに済むんだ。
君の心も体も頭脳も、全て僕のものになる。
僕が君を導くんだ。

僕のためにね。
僕のためだけに。」





赤い瞳が、三日月状に弧を描いた。
それはじっと名前を見詰める。

名前も見つめ返した。
光を映さない、黒よりも暗い瞳だ。

手が伸びてきた。
トムの手だ。

ぼんやりと透けた。
ぼんやりと明るい。

名前に向かって伸ばされる。





『…………』





指先に力を込め、掌で床を押す。

肘を付き、ゆっくり、ゆっくり、上半身を起こす。





「逃げるのかい?ナマエ。」





ピタリと手を止めて、トムは尋ねた。
名前は答えない。

膝を曲げて、伸ばす。

ふらふらと立ち上がった。

倒れそうになり、壁に手をつく。





「その体で?」





トムを見つめたまま、名前は後ずさる。

いくつもあるパイプ。
その中の一つ。
名前のすぐ後ろにある。

トムは微笑んでいた。





「いいだろう。好きなようにすればいい。
すぐに君は気付く。
全て無駄だという事に。」





まだ話していたけれど、名前は地を蹴っていた。

足に感覚は無かった。
それでも足を動かす。

パイプ中のへ身を滑り込ませて、ひたすらに名前は走る。

パイプの中は更に暗い。
暗闇だ。
どこへ続いているのかは分からない。

ただ走り続けた。
冷たい、湿った空気がまとわりつく。

黴の匂い。
錆の匂い。
鼻につく。

バシャッ。
バシャッ。

足下に水溜まりがあるのだろう。
地に足が触れる度に、水が跳ねる音が反響する。

ローファーは水浸しだ。
靴下も。

見えないから分からない。けれど、
おそらくズボンの裾も、じわりじわりと濡れた範囲が広がっているだろう。
冷えた体が、濡れたせいで、じわりじわりと更に冷える。



けれどその匂いが、音が、冷たさが、確かに現実だと認識させる。



暗闇ばかりだ。
跳ねる水の音。
自身の呼吸。
衣擦れの音。



何も見えない。

何も分からない。

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