25.
『禁じられた森』から帰ってきたハリーとロンは、熟睡中の名前を文字通り叩き起こして、森での出来事を話して聞かせた。
たくさん蜘蛛がいた事。
その中の一際大きな蜘蛛が、ハグリッドに育てられた―――
五十年前、『秘密の部屋』の怪物だと思われていた―――
巨大な蜘蛛だという事。
その蜘蛛―――
アラゴグは、ハリーとロンに話したという。
ハグリッドは『秘密の部屋』を開けていない。
アラゴグは人間を襲わなかった。
五十年前、怪物に殺された生徒―――
女の子の死体は、トイレで見付かった。
その話が終わった後。
トラブル続きだったらしいが。
とにかく、生きて帰ってこれたのだ。
返ってきた懐中電灯は、激闘の末死んでしまったが。
まあ、良しとしよう。
彼らは無事だったのだから。
名前は懐中電灯を手厚く葬った。
日射しが強く感じられるようになり、草木の葉も色濃くなり始めた。
もうすぐ六月になる。
『………』
校内は日射しの強さなど感じさせないくらい涼しい。
肌寒いと言った方が正しいかもしれない。
窓から差し込む日の光を浴びながら、名前は勉学に勤しんでいる。
期末試験があるのだ。
『…』
時折目を休めるためか顔を上げては、窓の外の景色を眺めた。
良い天気だ。
森の葉は茂り、小鳥のさえずりも聞こえてくる。
春から夏に移り変わる光景だ。
校内に怪物がいて、皆恐怖や疑心に満ちているなんて思えないぐらい、ありふれた光景だ。
『…』
襲撃事件のせいで、校内は様変わりした。
職員は常にピリピリとしていたし、生徒達は怯えていた。
けれども、それももうすぐ終わるはずだ。
今朝。
朝食の席で、マクゴナガルが発表した。
マンドレイクが収穫出来るという知らせがあった。
今夜、石にされた者達を蘇生するらしい。
すなわち、ハーマイオニーが帰ってくるのだ。
それなのに、名前は無表情だ。
いつもの事だけれども。
『…』
誰もいない隣の椅子。
じっと見詰める。
図書館に来る頻度は減った。
それが理由だろうか。
トムに会えていない。
この事件が解決すれば。
彼も、帰ってくるのだろうか。
『…』
一人。また一人。
図書館を出ていく。
生徒は移動を始めたらしい。
始業時間が近い。
そろそろ授業に行かなければならない。
一人で行動は出来ない。
誰かに付いていかなければ。
午前の授業がほとんど終わった。
次は「魔法史」だ。
引率者はロックハートである。
相変わらずよく喋る。
けれども名前は、長い長い生徒の列の最後尾をゆっくりと歩く。
先頭にいるロックハートが、何を言っているのかは分からない。
『…』
ふわり。
名前のローブが、緩やかに翻った。
誰かが背後を通り過ぎていったような気配だ。
『…』
名前は顔だけ振り向く。
遠ざかっていく、女の子の後ろ姿が見えた。
どこかへ急いでいるらしく、駆け足だ。
名前はピタリと足を止める。
『…』
女の子は一人だった。
誰もが誰かと行動を共にしなければならないのに。
『…』
チラリ。
少しずつ遠ざかっていくロックハート、グリフィンドール生。
それらを見てから、名前は女の子の方を見る。
『…』
女の子が角を曲がった。
名前はそっと、駆け出した。
『…』
近付くにつれ、名前は気付く。
女の子は泣いているようだった。
鼻を啜る音。
しゃくりあげる声。
角を曲がった先に、女の子はいた。
しゃがみこんで、顔を膝に埋めている。
『…』
何と声を掛ければいいのか。
名前は考えあぐねいているようだった。
丸まった女の子の背中。
床に広がったローブ。
見詰めながら、口を開けたり閉じたりする。
『…君。』
「!」
女の子は肩を跳ねさせた。
そして勢い良く振り向いた。
涙に濡れた顔。
その顔を、名前は知っていた。
『ジニー。』
「ナマエ…」
『……何か、あったのか。』
名前を見つめるジニーの目は、零れ落ちそうなほど見開かれている。
それが徐々に閉じられていく。
気付いた時には、涙が溢れ出していた。
『…、』
名前は固まる。
それから両手を、宙にさ迷わせた。
『…ジニー。…』
ジニーは頬を伝う涙を、手の甲で何度も何度も拭っている。
こちらを見ようとしない。
名前はゆっくりと、ジニーの前にしゃがみ込む。
それからポケットに手を突っ込み、ハンカチを引っ張り出した。
『…』
迷った挙げ句、何も言わずに頬に宛がう。
触れた物に、またジニーは肩を跳ねさせた。
恐る恐る、といった様子で、ジニーは名前を見た。
『…目、あんまり……』
「…」
『擦ると、よくない。…
ジニー、何かあったのか。どうして…』
「…」
『そんなに、泣いているんだ。…』
名前がゆっくり話している間も、ジニーの瞳からは涙が溢れていた。
ハンカチは瞬く間に濡れ色に変わる。
「ナマエ、逃げて。
私に近寄っちゃダメ…!」
『…』
「私、私っ…何も覚えてないのに。でも私なんだわ。おかしいのは私なの。どうしよう?きっと誰も許してくれないわ。私が悪いの。全部、私のせいなの。だけど覚えてないのよ。本当に…何も……」
『…ジニー、落ち着いて。』
倒れそうになる体を支える。
掴んだ肩は、小さく、細い。
名前の胸に額を付けて、もたれ掛かる体勢で、ジニーは縮こまった。
震えている。
「お願い、ナマエ…
近寄らないで…
私、きっと、あなたを傷付けてしまうのよ。」
『…一人は、ダメ。危ない。
……』
「ナマエ、お願いだから…」
『……ダメ。』
「…」
『………ジニー。』
突然、泣き声が止んだ。
依然として名前の胸に額をくっ付け、俯いたまま。
「『秘密の部屋』を見つけてしまったかもしれないの。」
静かな声で言った。
側にいる名前にしか聞こえないような声量だ。
「信じてくれる?」
『…『秘密の部屋』だと、どうして思う。』
「行かなきゃいけないから…」
『…』
「ナマエも、」
『…』
「一緒に。ついてきて。」
ジニーは顔を上げた。
泣き腫らした瞳。
名前をじっと見詰めている。
『…先生を呼ぼう。』
「ダメ…。ナマエだけじゃないとダメ。」
『危ない。』
「わかってる。」
とても分かっているようには見えない。
表情を変えず、瞬きもせずに、じっと名前を見詰めている。
見るからに異様である。
「ナマエ、」
『授業が』
「今じゃなきゃいけないのよ。」
『…』
「お願い、ナマエ。」
『………分かった。』
「ありがとう。ナマエ…
こっちよ。」
『…』
ジニーはサッと立ち上がった。
ゆっくり立ち上がる名前の手を掴む。
歩き始めた。
迷いない足取りだ。
ジニーの手が、異様なほどに力強く、冷たい。
『…』
ジニーに引かれる手。
その反対の手で、名前は杖の存在を確認した。
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