18.-2
「あの…どうしたんですか?」
遠慮がちに声が掛けられた。
騒いでいる四人の誰の声でもない。
(もちろん、倒れている千堂のものでもない)
その声をきっかけに、四人は動きを止めた。
「おっ、来たか。」
鷹村はごくごく自然に、今までの追いかけっこなど無かったかのように振る舞った。
「えっと…」
『…』
新たに現れたのは、丸顔の優しげな青年だった。
彼は名前を見て目を止めて、首を傾げている。
やや戸惑った様子だ。
そんな彼の様子から考えを読み取ったのか、鷹村は名前の肩を抱いて口を開いた。
「こいつは苗字名前。
千堂と同じジムに通ってて、追ってここまで来たんだとよ。」
「千堂さんの…」
『…初めまして。』
「あっ、こちらこそ。
僕は幕之内一歩といいます。」
ぺこり、名前は幕之内に向かって深く頭を下げた。
つられて幕之内も深いお辞儀を返す。
ぺこり、ぺこり。
お辞儀を繰り返すばかりで終わらない。
鷹村が若干苛々している。
思った事がすぐ顔に出るタイプらしい。
眉間に一本、彫刻刀で彫ったかのように深い皺が出来ている。
「…千堂起こしてやったらどうだ?」
ただならぬ気配を感じ取ったらしい木村が、お辞儀をし合う名前と幕之内に言った。
二人は声を掛けた木村を見て、僅かにぽかんと口を開けた。
忘れていたらしい。
青木が無言で幕之内からバケツを受け取り、千堂に中身をかけた。
水が滝のように勢い良く、千堂の顔面目掛けて降り注ぐ。
「おっ、気が付いたな。」
千堂はすぐに目を覚ました。
上半身を起こして、少しぼーっとしている。
しかし今の状況を思い出したのか我に返り、悔しそうに唇を噛んだ。
それも一瞬で、勢い良く立ち上がると、鷹村に向かって深く頭を下げた。
「ホンマおおきに、鷹村さん。ごっつう勉強になりましたわ。
いや〜〜、しかし気持ちいいパンチもろてしもたわあ。」
「お互い様だ!
スマッシュたあ意表つかれたぜ。同じ階級のヤツのパンチなら、あそこで踏ん張れやしねえよ。」
目が覚めた直後だというのに、きびきびとした話し振りだ。
表情もくるくる変わって、普段通りの千堂に見える。
名前だったら同じようにはいかない。
目が覚めた直後は、何もしないでただぼんやりとしている。
まあ名前は、普段から大体ぼんやりとしているが。
「そうだ!
キサマ今度ミドル級に上げて俺様に挑戦しろ。そうすりゃおもしれえ試合になるぜ。」
「じゅ、15キロ以上も増量すんでっか?
ほんなら動きが鈍うなってパンチ全部よけられてしまうわ。」
「そりゃそうだわな。」
ワハハ、笑い声が上がる。
随分と打ち解けているようだ。
和気藹々とした雰囲気に包まれている。
その輪から少し離れて、四人を見つめる幕之内と名前。
この二人は見た目は全く違うが、お辞儀をし合う事といい、行動では似通った部分があるらしい。
「………」
千堂が名前を見た。
見た、というより気付いた、といった方が正しいだろう。
千堂は名前と目が合うと、三白眼を大きく見開いた。
口を開くが、なかなか言葉が出てこない。
「………名前っ!?」
今頃気付いたのかよ。
真横にいただろ。
小さな声で野次られるが、今の千堂の耳には届かない。
意識は、完全に、全て、名前に向けられている。
『…こんにちは。』
お辞儀をする。
「こんにちは…って、ちゃうわ!
何で名前がここにおんねん!」
「お前を追ってわざわざ来たんだとよ。」
「追って来た?…何でや。」
木村は肩を竦めた。そして名前を見る。
千堂も名前を見る。
この場にいる全員が名前を見ている。
『………』
「………」
『………』
「………」
『………』
「さっさと言わんかい!」
俯き気味に黙り込む名前。
千堂を除く四人は何事かと思うが、
千堂は名前が黙り込むことに慣れている。
いつも通り促した。
『す…すみません。何からお話すればいいのか、考えています。』
「そんな何個もあるんかい。ええから言えや。」
『………ご挨拶に伺いました。
もうすぐ学校に戻るので。…』
「わざわざそれだけのために?」
木村が驚いた顔をしている。
「なんや、ワイはてっきり、もうイギリスに行ったもんやと…」
『明後日です。』
「そうかい。…」
淡々と返す名前に対し、千堂は少しばつが悪いような表情を浮かべる。
千堂に非はないが。
名前は名前の都合でここまで来たのだから。
背後では四人が固まり、何かこそこそと話を始めた。
「なんか、すごい人ですね…」
「背が高くて容姿端麗、おまけに秀才。あいつがプロになったら女のファンクラブが出来上がるぜ。」
「あん?あんな貧弱なもやしっこのどこが良いんだ。背が高くて容姿端麗で秀才、おまけに逞しい俺様の方がカッコいいだろうが!」
「いや、あんたは性格に難有りだからな…」
「なんだと青木!?」
ウワーッと悲鳴が上がる。
千堂は何事かと背後に振り返った。
騒がしく暴れている四人がいた。
しかし名前は相変わらずの無表情で話を続ける。
『……、…
柳岡さんに、迎えに行ってほしいと頼まれました。電車賃も預かっています。』
「迎えて…ワイはガキやないぞ。」
「でもお前…帰りの電車賃無くて、鴨川会長にもらったじゃねえか…。」
鷹村にヘッドロックをかけられながらも、青木は苦し気にもがきながら言った。
名前は真意を問うように真っ直ぐ千堂を見詰める。
千堂はゆっくり目線を逸らした。
『…頂いたのですか。』
「おう。」
『…お返しします。』
「やったもんなんだから、もらっとけばいいんじゃねえか。
残ったのは土産代にでも使えよ。」
尚もヘッドロックをかけながら、鷹村が平然と言う。
『………』
「お前、固いヤツだなあ。」
黙り込む名前を見て、木村が呆れたように呟いた。
「すんませんなあ、車まで出してもろて。」
「いいってことよ。ボクサー同士助け合わなきゃな。」
名前が東京に着いてからそれほど経っているわけでもないのに、辺りは薄暗くなり始めていた。
沈む夕日が建物や路面を照り返し、鮮やかに輝いている。
木村は千堂と名前を駅まで送ろうと、有難い事に車を出してくれた。
ジムの前、車をガードレールに寄せて駐車して、別れの挨拶が終わるのを待っている。
「ほな失礼しますよって。迷惑かけましたわ。」
「俺も東京駅まで行っても良いんだがよ、木村の車はせめーから。」
挨拶を済ませた名前は他に話す事も無いので、早々に乗車している。
助手席の窓から、千堂の背中と鷹村の姿をただただぼんやりと眺めている。
「ホンマ世話になりましたわ。大阪来ることあったら声かけてください。道頓堀案内しますよって。」
「Hなトコか?」
「得意分野ですわ。」
『……』
窓越しに聞こえる会話は不鮮明だ。
聞こえなかった事にしておこう。
「それじゃ行ってくるぜ。」
千堂が後部座席、運転席の後ろに座る。
続いて幕之内も車内に入ってきて、助手席の後ろに座った。
幕之内が進んで座ったわけではない。
木村曰く、
「帰りの道中寂しいからお前も一緒な。」
という込み入った事情があるらしい。
「あ〜〜あ。混んじまったなあ。」
夕方のラッシュアワーにぶつかってしまったようだ。
車は長い列を作っている。
歩いた方が早いかもしれない。
『お時間をとらせてしまって、ごめんなさい。』
「気にするなよ。俺が送るって言ったんだから。
苗字、お前固いぜ。礼儀正しいのは良いけどよ。」
『…そうでしょうか。』
首を傾げている。
「そうだよ。さっきだってさ…。
苗字、鷹村さんがお前を追いかけ回したの、何でだか分かるか?」
『………』
「お前が緊張してんじゃねえかって、思ってだぜ。
…多分な。」
『…お気遣い、ありがとうございます。』
「いや、だからさ…」
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