30.-1
『……………』
早朝のロードワークを終えた名前は、ポストから朝刊を抜いて家に戻った。
居間のいた父親に朝刊を手渡すと、引き換えに二通の封筒を渡された。
宛名はハーマイオニーとロン。
待ちに待った返事だった。
ジムに向かった名前は、いつも通り練習をこなす。
ロードワークを終えた名前が、まさに今ドアを開けようとするタイミングで千堂が出てきた。
どうやら、これからロードワークに行くようだ。
「………」
『………』
「………」
『………』
だが、千堂は出入口に突っ立ったまま動かない。
じっと名前を見つめている。
三白眼のせいか、見つめる、というよりも、睨んでいるという表現の方がしっくりくる。
一方見つめられている(睨まれている?)名前はといえば、相変わらず涼しい顔だ。
汗だくではあるが。
『……あの、』
「頑張ってるみたいやな。」
への字に曲がった口からボソッとした声。
名前はカクンと首を傾げた。
『あの、…今、なんて…』
名前が確認する前に、千堂は走り出してしまった。
瞬く間に小さくなっていく逞しい背中を見送る。
名前はぱちくりと瞬きを繰り返し、往来が激しい道の真ん中で棒立ちになった。
呆れた様子の柳岡が声をかけるまで、名前は太陽と通行人に睨まれていた。
「イギリスに?」
『はい。』
部屋に調子外れな声が響いた。
眼鏡の奥にある目は見開かれている。
部屋には二人しかいない。
名前が初めてジムに来たとき、柳岡に案内された、トロフィーなどが置いてある部屋だ。
「それはまた、急な話やな。」
練習をこなした後、柳岡に相談を持ち掛けた。
イギリスへ行っている間、練習をどうするかの話だ。
既に多くの練習生が帰宅している時間だった。名前も例外ではない。
だが、すぐにでも話さなければならなかった。
近いうちにイギリスへ発つことになったからだ。
『…すみません。』
謝りながら頭を下げる。
柳岡は手を振って、何でもないかのような表情だった。
「いや、謝らんでもええんや。
ナマエくんがイギリスの学校に通っとることは、ミョウジから聞いてるわ。寮やったっけ?」
『はい。』
「なら、そこでできる練習を考えよか。」
穏やかな笑顔を向けられた。
目尻に烏の足跡ができている。
名前はこっくりと頷いた。
「遅い!」
『………ごめんなさい。』
シャワー室から出た途端響いた怒号。
指差し付きだったそれは、名前以外いないシャワー室から出てきた、名前に宛てたものだろう。
「二時間や!」
『………』
「時計見てみい。」
『…十一時です。』
「せや!十一時や!キサマがシャワー室に入ったのは九時!どんだけシャワー浴びれば気が済むんや!ふやけるわ!!」
『…すみません。…』
確かに、練習を終えてから柳岡と話をしていたので、いつもよりずっと遅い時間だ。
しかし、遅いだのなんだのいくら文句を言われようとも、千堂と何も約束した覚えのない名前は首を傾げてしまう。
「帰るで。」
『……』
くるりと背を向けて、千堂はスタスタ歩き始める。
だがすぐに歩みを止めた。
「…早く来んかい!」
振り返った顔は犬歯剥き出しの般若だった。
名前は訳もわからないまま、荷物をまとめると、急いで千堂の後を追った。
「まったく、トロいヤツやな。」
『………ごめんなさい。』
「ホンマにな。足は遅いし体力はないし覚えは悪いし。言い出したらキリがないわ。」
『…』
「…」
『……』
「……」
『……』
「…だあーっ!!なんやこの空気は!」
『…』
「名前っ!!」
『はい。…』
「面貸せや。」
返事をする前に、胸座を掴まれ、人気の全く無い公園の中へと引きずり込まれた。
名前はいよいよ焼きを入れられるのかと(思ったのかはわからないが)身を固くしたようだった。
だが、千堂は名前をベンチに座らせると、一人自販機に向かい、缶コーヒーを二本持って戻ってきた。
「ほれ。」
『…』
「飲め。」
片方を突き出され、名前はじっと目の前にある缶コーヒーを見つめる。
無理矢理手に押し込まれ、受け取るしかなかった。
千堂は、名前の隣にどっかりと腰を据える。
『いくらでしたか。』
「いらん。」
切られるように返されて、名前は小さく礼を言った後、黙り込んだ。
渡された缶コーヒーは開けないまま手の中だ。
千堂は構わず缶コーヒーを開けて飲んでいる。
「……」
『……』
夜も遅いためか、元々この公園が人気のない場所に作られているからか、車道を走る車はほとんど無い。
眠らない蝉の鳴き声と、街灯の電球に群がりぶつかる虫の羽音だけが夜気に響いている。
『千堂先輩。』
昼間の喧騒の中では聞こえないような、小さな声で千堂を呼ぶ。
幸い今は夜で静かだし、蝉の鳴き声も控え目なものだ。
隣に座っていれば、しっかりと耳に届く。
しかし千堂は、何故か慌てたような、驚いたような様子で、勢いよく名前の方を見た。
『…』
名前も千堂を見ていた。
いつもと何も変わらない表情を浮かべている。
千堂はこの表情以外の表情を見たことがない。
「なんやねん。」
なかなか切り出さない名前に、痺れを切らした千堂が苛々とした口調で聞いた。
『どうして今日は、帰ろうと言って下さったんですか。』
「ワイとは一緒に帰りたくないって言いたいんかい。」
『いいえ、そうではないです。
だけど今まで、あまり話したことがなかったので、理由がわからなくて。』
「イギリス行くらしいやんけ。」
『……』
不思議そうに凝視してくる名前をちらりと見て、千堂はぶっきらぼうに言った。
「あの部屋のドアは薄いんや。
だだ漏れやで。」
『…』
「…オイ」
『はい。』
「キサマは何で強くなりたいねん。」
低い声だった。
少なくとも名前にとっては、これまで聞いたことない声だった。
その上、至極真面目な顔をしている。
『………』
真っ直ぐ見詰めてくる三白眼は迫力があった。
名前はその目を、まるで観察するかのように見つめ返す。
熱をもち、呼吸をしているのかを疑いたくなるくらい、名前は無反応だった。
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