29.
夜。
父親の自室のドアがノックされた。
相手は名前らしい。
入っていいぞ、と返事があると、すぐにドアは開かれた。
『今日は何をするんだ。』
開口一番、そう言われて、父親は黙って机の上に置いてある時計を見た。
いつもの勉強会を始める時間より、ずっと早い。
「(なんだか今日は元気やな)」
じっと見詰めて、視線で急かしてくる名前から目を逸らす。
生返事をしながら理由を探すが、特に思い当たることはない。
「(まあ、ええか)」
ジムでは練習をして、家では課題と店の手伝い、魔法の練習。
最近では菓子作りの方も本格的に練習し始めているらしい。
やらなければいけないことだらけで、目を回すような夏休みになってしまった。
近頃はその疲れか、友人から手紙の返事がこないせいか、(おそらく後者が大部分だろう、と父親は思っている)元気がなかったように見えた。
「そうやなあ…」
それがどうしたことか。
今日はやけにじっと見詰めてくる。
まるで餌の前で待てを命じられた犬のようだ。
「(この状態ならいけるかな)」
父親はとりあえず、座布団を取り出して向かい側に置いた。
座るように促す。
「名前は、許されざる呪文って知ってる?」
名前が行儀正しく正座するのを見届けてから、父親は切り出した。
少し間を置いて、コクリと頷く。
『三つ。』
「そう、三つある。
服従の呪いと、磔の呪いと、死の呪い。許されざる、なんて言われてるけど、奴らは使う。
だから少し、話しておくけど…」
『…』
「服従の呪いはな、名前。ヴォルデモートはもちろん、死喰い人はよく使ったよ。
たくさん優秀な魔法使いはいたけども、たくさんの優秀な魔法使いの心が操られた。」
『…お父さんも。』
「うん…まあね。」
父親は居心地が悪そうだった。
「それはそれは、たくさんの魔法使いが捕えられたよ。」
『…お父さんも捕まったのか。』
「いや…そうなる前に、逃げたから…」
父親はまた居心地が悪そうだった。
「服従の呪いは、かけた人に従順になってしまう。記憶を見られるようが人を傷付けようが、何も抵抗感はない。
だけど魔法省は、誰が従い、誰が操られているのかを見抜くことは、ほとんどできなかった。結局、罪科から逃れた者もいる。」
『防ぐことはできないのか。』
「おっ、いい質問。服従の呪いと磔の呪いは、頑張れば防げます。
厄介なのは死の呪いやね。対処のしようがない。
ただ、とても強力なものやから、未熟者には扱えない。
それで、本題やけど…」
父親は上着の内側に手を突っ込むと、杖を取り出して名前に向けた。
「お父ちゃんが、服従の呪いをかけます。
名前はそれに抵抗して、呪いをとく。わかった?」
穏やかに笑いながら、容易い事であるかのように言う。
杖の先をじっと見つめていた名前は、視線だけを父親に向けた。
『禁止されている。』
「ああ、学校の規則やな?大丈夫大丈夫。
この部屋で使うだけならバレないよ。」
『それが服従の呪いでもか。』
「もちろん。なあ、名前。
服従の呪いと磔の呪いは防げるんやで。
なら、防げるようになるべきや。
初めに言ったやろ?奴らは使う。手段は選ばない。
まあ、…僕も含めての話や。」
杖を向ける。
やがて名前はコクリと頷いたので、父親は服従の呪いをかけた。
杖を構えた体勢のまま様子を見守る。
呪いがかかった名前は微動だにしない。
「名前」
名前を呼ぶと、目が合った。
光の映らない、生気のない、暗い瞳。
こちらを見ているようで、見てはいない。
しばらくして、父親は名前の目の前に両手を持ってくると、その掌を打ち合わせて大きな音を立てた。
すると、名前はぱちくりと目を瞬かせ、次第に、初めて目にするものを見たかのように、父親を凝視した。
「今のが、服従の呪い。
とけること、できそう?」
『………』
相変わらずの無表情で、そろりと目を逸らす。
あまり自信はないのかもしれない。
父親は困った顔で頭を掻いた。
「まあ…何度でもやろうや。時間はあるし。」
『…お父さん。』
「うん?…何?」
『お父さんは、服従の呪いをかけられても、とくことができるのか。』
「…まあ……今はね。なんとか…」
ぼそぼそと話す父親。
『呪いをとくための、コツはあるのか。』
「コツぅ?」
一際大きく、素っ頓狂な声を上げた。
力が抜けてしまうような間の抜けた声だった。
「コツねえ…あんまり、そういうのは考えたことないけど…」
『………』
「とにかく、…自分の気持ちをしっかり持つ!…こと?…かなあ〜……。」
腕組みをしつつ首を傾げる。
しかし、見るからに自信なさげな表情を浮かべている。
自分でもよくわかっていないらしい。
名前は黙ったまま、話の行く末を待っている。
「…よし。じゃあ、こうしよう。羊を数えるんや。」
『…羊。』
「そう。次やるときは、羊が一匹、羊が二匹…って数えることに集中してみて。」
『…眠れないときにやるものじゃないのか。…』
「そうだけど…でも、何かやることを決めておいたら、やりやすいやろ?」
『………』
「まあ、何でもええよ。自分の意識に集中することができたら。
さあ、次いってみようか。」
再び杖が構えられた。
再び呪文が唱えられた。
日付が変わったばかりの深夜にも関わらず、テレビからは大きな笑い声が響いている。
「テレビ見てるの?」
「いや。なんや、騒がしくないと落ち着かなくてね。
うるさかった?」
「ううん。それは気にならないんだけど…」
風呂から上がったばかりなのか、石鹸の匂いが時折する。
寝間着姿の母親は、麦茶を入れたコップを二つ持って、父親の向かい側に座った。
「服従の呪いをとく練習、始めたのね。」
「ああ、うん。」
「名前、どう?」
「ん〜…まだまだやけど、腕を磨けばどうにでもなるよ。
というか、どうにかする。
名前が目を付けられてるのは僕のせいでもあるし。」
「名前ができるようになったら、それはすごいことだわ。」
「そう言うわりには、うかない顔やね。」
まるで名前がするかのように、父親は首を傾げた。
二十年ほど若返ったら見分けがつかないくらいそっくりだろう。
父親は小さな子どものように表情が豊かだが。
「戦うのが名前やあなたじゃなかったら、こんな顔しないわよ。」
「君は心配性やな。」
「あなたが楽観的なのよ。」
「そうかなあ。」
腕組みをして頭を捻る。
わざとらしい声の感じと仕草に、母親は睨むような目付きで父親の顔を見つめた。
「わたしたちが知っているヴォルデモートより、肉体を取り戻して、本当に蘇ったヴォルデモートが、強くなっている可能性だってあるのよ。」
「僕だって、昔より強くなっているよ。
名前だって優秀やし。」
「それが心配なのよ。
優秀になればなるほど、あっち側から見ても、こっち側から見ても優秀な魔法使いなんだから。」
「まあ、…狙われる確率は高くなるやろな。」
「狙われるのが能力か命かはわからないわ。」
「だけど、名前が強くなることを選んだんやで。」
「うん。…避けては通れないことよね。」
母親の表情は硬い。
「君は心配性や、不安になるのはわかる。」
「…わかっていながら、危険な状況を作ろうとしているの?」
「いざとなったら、君と名前を連れて逃げるつもりや。昔みたいにね。
簡単なことやないけど…」
「…けど?」
「名前はいざその時がきたら、僕らの手を振り切ってでも立ち向かっていくんじゃあないかな。」
否定はしなかった。
名前は既にヴォルデモートと対峙していた。
だから名前は強くなることを選んだ。
そのことを、二人は知っていたからだ。
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