26.-2
『……』
赤茶けたトタン屋根の老舗は、絵本から出てきたようだった。
ところ狭しと積み上げられた駄菓子や、玩具、ラムネなどの飲み物などがあり、まるで玩具箱の中に入ったようだ。
『………』
少し離れたところからその老舗を眺めていた名前は、やがてやるべきことを思い出したのか、のっそりと動き出した。
老舗の入り口に立ち、ぐるりと辺りを見渡す。
三和土の上に座布団を敷いて座る人物を見つけた。
『こんにちは。』
「ン…?」
名前が声を掛けた人物は、背中の丸まった、着物姿の老婦だった。
虎斑の毛色の猫の背を、慣れた手付きで撫でている。
老婦はしばらく名前の姿を見つめた。
そしてしばらくすると、糸のように細い目を見開いた。
「苗字の坊かいな。いつこっちに帰ってきたんや?」
『一週間くらい前です。』
皺だらけの顔をさらにしわくちゃにさせて、老婦はにっこりと笑った。
名前はゆっくりと老婦に歩み寄る。
そしてそっと、手に持っていた紙袋を渡した。
『どうぞ。』
「ン?なんやの、これ?」
『お土産です。お菓子で…お口に合うかどうかは、わかりませんが。』
「わざわざすまんなあ。おおきに。ありがたく頂きますわ。」
虎斑の毛色の猫が、老婦の受け取った紙袋に顔を近付け、鼻をひくひくさせている。
「一年ぶりくらいやろか。大きくなったなあ。子どもの成長は早いもんやな。」
座ったままの老婦は、しばらく名前を見上げていた。
それに対し、名前は首を傾げるだけだったが、やがて頭を元に戻した。
『そろそろ、失礼します。』
ちらりと背後の夕日に目をやる。だいぶ傾いていた。
まだ明るいが、時間帯としては夜に入っているだろう。
「もうこんな時間かいな…こう明るいとわからんわ。名前。また、ゆっくりできるときにおいで。」
時計に目をやった老婦は、名前に視線を戻して言った。
名前はコクリと頷く。
それから、店先に足を向けた。
「ロッキー!」
「なあ、ロッキーってば!」
「やかましいわ!!ついてくんなや!」
甲高い、小さな子どもの声がする。
もう一方はとっくに声変わりをしている男の声だ。
両者とも喧嘩でもしているかのような大きな声で話している。
名前は足元に向けていた目を店先に移す。
「ばあちゃん、こいつらに何か菓子くれてやっ…」
天井から吊り下げられた、網に入ったサッカーボールを手でよけて、暖簾のようにくぐり抜けた男は、言いながらビシリと固まった。
目の前に名前が立っていたからだろう。
それはまさに読んで字のごとく、鼻先が触れ合いそうなくらい間近だった。
『………こんばんは、千堂先輩』
男―――千堂から(言葉通り)間近に視線を受けた名前は、いつも通りカクリと頭を下げることもできずに言った。
千堂は夢から覚めたかのように目を見開き、上半身を仰け反らせつつ器用にも後退した。
対話するのに一般的な距離まで下がると、たちまち眉間に深い溝を作り上げる。
「何で名前がおんねん!!」
「武士!人様に指差したらアカンて言っとるやろ!」
「あっ…ご、ごめん、ばあちゃん。…名前、何やワイに用事か?」
ビシッと音が鳴りそうなくらい力強く向けられた人差し指に、素早く老婦が怒鳴る。
途端に眉を八の字にさせて千堂は身を縮めたが、名前が見ていることに気が付くと慌てたようにふんぞり返った。
少し赤くなった顔で、再度ぶっきらぼうに名前に問い掛けた。
『………』
カクンと首を傾げる。
そのまま視線を右上にさ迷わせて沈黙した。
辺りは静まる。
千堂の苛立ちが頂点に達しつつあった。
やがて名前が口を開く。
『無いです。』
「早く言えや!!」
―――いちいち考えんでもいいやろそんくらい!!―――
などとがなり立てる千堂に、すみません、と謝る名前。
だがいかんせん、第三者から見れば、名前は無表情だったので、千堂の苛立ちは増すばかりであった。
「ロッキー」
「おん?」
「誰やねん、こいつ。」
様子を窺っていたらしい子どもたちが、千堂のズボンの裾を引っ張りつつ問い掛けた。
「新人の名前や。」
「じゃ、こいつもボクサーなんか?」
「まあ、そやな…プロやないけど」
「はあ?何やねん?意味わからんで、ロッキー。」
「せやから、プロやないけどボクサーや。」
「せやから、わからん。プロやないボクサーってなんやねん。」
「試合はやらんボクサーや。」
「試合やらんボクサーってなんやねん。なんの意味があるんや。」
「そもそも年齢がな…」
「年齢?…」
子どもたちの質問に律儀に答えていた千堂だが、矢継ぎ早の質問に少々苛立っている。
―――本人に聞けや、本人に―――
と、千堂が思っているかどうかはわからないが、名前は完全に蚊帳の外だった。
「アンタなんぼや?」
子どもの一人が名前に聞く。
野球帽を被った男の子だ。
『12』
短く答える。
「まだ年齢を満たしてないわけや。だから試合は出られん、プロになれんってことやな。」
子どもは納得したようでウンウンと頷いた。
千堂が「ちゃうわ…」と呟いているが聞こえていないらしい。
しかし、ピタリと頷くのをやめる。
真剣な顔で名前を…というよりは、千堂と名前の二人を見比べた。
ぽつり、一言呟く。
「ロッキー、チビやな。」
「やかましいわっ!!」
一言怒鳴ると、まるで自身を鎮めるかのように深呼吸する千堂。
名前はじっとその様子を見ているが、気付いていないようだ。
千堂は一つ咳払いをして、にっこりと微笑む。
口元はひきつり、額には青筋が浮かんでいたが、声だけはやけに落ち着いていた。
「いいか?ワイが小さいんやない。名前がデカイだけや。わかったか?」
「……」
「なんやねん。その目は…。どつくぞ、おのれら。」
額の青筋が増えていく。
名前は視線でそれらを目で追っていたが、やがてやめた。
決して千堂の顔が恐かったわけでも、青筋の数を数えられなくなったわけでもない。
『…失礼します。』
空が群青色に染まりつつあった。
帰らなければならない。
夕飯が冷めてしまうからだ。
「………っは?」
唐突な退室の申し出に唖然とする面々。
それをよそに名前は老舗を出ていった。
慌てて千堂が店先から出て辺りを見渡すが、名前の背中は既に小さくなっていた。
「何しに来たんや…」
千堂が呆然と呟いた。
小さな子どもたちでさえも、名前のマイペースさに度胆を抜かれたようだ。
ただ、老婦だけはこっくり、こっくり、船を漕いでいた。
こちらも相当マイペースだろう。
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