25.
まだまだ朝早くだというのに、太陽が照りつけている。
道路に陽炎が揺らめいていた。
そこかしこでクマゼミが、シュワシュワと喧しく鳴いている。
走っているため、風を受けているから多少は涼しいが、止まったとたんに汗が吹き出る。
首にかけてあるタオルで汗を拭い、信号が青になるのと同時に駆け出した。
日にちは浅いが、ロードワークや走り込み、縄跳びなどの課題を、名前は淡々とこなしていた。
ただしそれはあくまでも第三者の視点であって、名前本人の心境は不明だが。
チリーン。
扇風機の風が、風鈴を鳴らしたようだ。
開け放った窓から入ってくる風と、扇風機の風だけで涼をとっている。
室内の温度は屋外と大差ないが、日射しが無い分ましなようだ。
タラリ。
それでも汗が首筋を伝っていく。
名前はタオルで流れた汗を拭う。
汗は流れるが、表情だけは相変わらず涼しげだった。
「名前、まだやっていたの?」
母親が廊下から、ひょっこりと顔だけを出して尋ねた。
どうやら、様子を見に店先から戻ってきたらしい。
眉を八の字に寄せて、心配そうに名前を見ている。
『……』
名前は顔を上げて、ぼんやりと母親の方を見ると、こっくりと頷いた。
「そんなに急ぐこと、ないんじゃない。課題、そんなにあるの?」
机の上を目一杯使って広げられた教科書や羊皮紙や参考書やらは、その場所だけに留まらず畳の上にも侵食している。
名前はそれらをチラリとだけ見ると、また母親に見つめた。
『うん。』
「…そう。」
母親は寄せた眉を更に寄せた。
その眉間の皺を、じっと名前は見つめる。
「朝は練習。昼は勉強に家事手伝い。夜は特訓。
学校にいるときよりハードスケジュールじゃない。
今は大丈夫かもしれないけれど、いつか体を壊すんじゃないかって…。」
『…体調が悪いときは、言うよ。』
「名前、そう言うけどね。
小学校のとき体調悪いの我慢して、倒れたのはどなたかな。」
『…』
「一度や二度のことじゃない。あなた前科があるからね。」
怒り始める前のような低い母親の声に、名前はキョロキョロと視線を忙しなくさ迷わせる。
次第に俯きつつあった名前に、母親は慌てた様子だった。
「違うの。怒っているんじゃないのよ。夏休みだっていうのに、全然満喫してないじゃない。
元々、お店も家事もお父さんと二人でやってきてたんだから、気にしなくてもいいのよ。」
柳眉を寄せて、母親は溜め息を吐きつつ言った。
駄々をこねる子どもを諭すような、優しい声だった。
『俺がやりたいだけだ。』
そう素早く切り返す名前の目は、教科書の文字の羅列を追っている。
「…やりたいの?名前。」
『楽しい。』
フッと顔を上げて、真っ直ぐ見つめる。
「本当?」
『本当。』
「あのね、名前。」
母親は依然として不信げだった。
深く息を吐きつつ、言葉を続ける。
「うちはお店をやっているから、年中仕事で、家族団欒なんてお正月くらいよね。なかなかどこかに連れて行ってあげられないけれど、本当に我慢してない?小学校のお友達とかいるんじゃない?遊びに行くことは悪いことじゃないのよ。」
『…平気。』
「…」
母親は目をぱちぱちさせた。
「名前、ホント、学生時代のお父さんにそっくりだわ…。」
次いで、頬に手をあてると、悩ましげに息を吐く。
「わかったわ。でも、息抜きも大切よ。」
さっと歩み寄ってきたかと思うと、その手にはお盆を持っていた。
お盆に乗せられていたのは、きな粉と黒蜜がかかったワラビ餅と、氷の浮いた麦茶だった。
「甘いオヤツでも食べて一段落したら?」
にっこりと笑顔を浮かべる。
名前はしばらく眺めた後、ようやくゆっくり頷いた。
「名前、ちょっとは筋肉ついた?」
『……』
母親は名前がワラビ餅を摘んでいる隙に、ぺたぺたと二の腕やお腹やらを好き勝手触っている。
「うーん、相変わらず細いわねえ。やだ、あたしより痩せてるんじゃない?」
『…お母さん、くすぐったい。』
「あら、ごめんなさいね。」
パッと手を引っ込めると、母親もワラビ餅を摘んだ。
ワラビ餅をパクパク摘みながら、名前の課題や教科書をパラパラとめくって見ては、「懐かしい」と一人はしゃいでいる。
顔にはニコニコと笑顔が浮かんでいた。
無表情な名前とは対照的だ。
「名前、お母さんはね、学生時代は薬草学と変身術が得意だったの。先生に誉められたことだって、試験で満点とったことだってあるのよ。」
母親は口元にきな粉をつけながら言った。
胸を張って、誇らしげだ。
名前は無言でティッシュペーパーを差し出した。
「わからないところがあったら教えてあげるわ。忘れてるかもしれないけどね。」
一人ハハハと笑って、受け取ったティッシュペーパーで口元を拭う。
少し恥ずかしそうだ。
「さて!お母さんはそろそろお店に戻るね。」
『……』
コクリ。
頷いて応える。
「水分補給をしてね。暑かったら冷房いれるのよ。」
『……』
コクリ。
また、頷いて応える。
空いたお皿とコップをお盆に乗せて、母親は部屋から出ていった。
その背中を見送って、名前は課題を再開する。
「奪わせない。二度と。あたしの子ども。今度こそ守らなきゃ…」
小さな呟きは、母親の口の中で消えていく。
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