24.
ゆさゆさ、ゆさゆさと、執拗に名前の体を揺さぶる者がいた。
名前はゆっくり目を開ける。
「おはよう、名前。朝やで。」
にっこりと笑う父親の顔が目の前ある。
名前はくっつきそうな瞼を精一杯開いた。
腕を伸ばし、時計を見る。
『………4時。』
パタリと枕に顔を埋める。
すかさず父親が、無理矢理名前の体を起こした。
「顔洗っておいで。そしたらジャージに着替えて。」
ずるずると自室から洗面所まで引き摺られる。
タオルやジャージを渡しててきぱきと動く父親をぼんやりと眺め、名前は口を開いた。
『……どこに行くんだ。』
「走り込みや!」
父親はにっこりきっぱりはっきり答えた。
辺りは暗い。
まだスズメも鳴いていなかった。
「わらび餅と水まんじゅうくださいな。」
「はいはい。わらび餅に水まんじゅうですね。」
父親は注文された商品を手早く包み、袋に入れると、にっこり笑顔を浮かべて手渡した。
「おーきに。よく冷やして食べてください。」
自動扉が開き熱風が店内に入り込む。
父親は今しがた菓子を購入していった腰の曲がった老婆の姿を心配そうに見送った。
既に日は高く蝉が騒がしい午前、炎天下で店先に陽炎ができている。
「あなた、名前どこにいるか知らない?」
「名前?」
「うん。」
暖簾をくぐり、ひょっこりと母親が顔を覗かせる。
手や顔に上新粉がついていた。
本人は気付いていないようだが。
父親は吹き出しそうなるのを堪えつつ口を開いた。
「柳岡のとこ。」
「柳岡さん?言ってくれれば、何か持って行かせられたのに…。」
「名前は自分で選んで持っていったみたいやで。なんや、いっぱいお土産買ってきてたでしょ。あの中からな。」
「あら。偉いわ。あの子も大人になったのね。」
「名前はキミのやってることをよく見てるね。でも、そもそも柳岡は、手土産とか気にしないから大丈夫やろ。」
「もう。礼儀でしょ!」
「キミは気にしすぎなんやって。」
「あなたは気にしなさすぎ。」
「う〜ん…そうかなァ。」
腕を組んで考え始める父親に、母親は素早く訊ねる。
「ねえ、名前は何しに柳岡さんのところに行ったの?いつもあなたにくっついてて、自分一人で行くことなんてなかったじゃない。もしかして…」
「うん。"もしかして"やで。」
きっぱり答えると、母親の眉間に皺が寄った。
「何してるのよ。名前は昨日帰ってきたばっかりなのに!今朝だって走り込みなんかさせて!」
詰め寄られ、後退りながら口を開く。
「だ、だって、名前が鍛えてくれ言うから。」
「何のために。」
「強くなりたいからって。」
「…。男の子って、…もう。どうして、そう…。」
母親は詰め寄るのをやめた。
代わりに呆れたような、疲れたような表情で、ぐったりとする。
「学校での件、気にしてるみたいでなあ。」
「ヴォルデモートね。」
「うん…。」
自動扉の開く音がした。
母親は眉間に皺を寄せたまま、小さな声で父親に聞いた。
「ねえ、それは必要なことなの?」
「体力つけられるし、体も、精神的にも強くなるし、いいと思う。戦う手段は魔法だけじゃない。
いらっしゃいませー。」
客に笑顔を向ける父親を見ると、母親は暖簾をくぐって厨房に戻っていった。
『………』
名前はドアノブに手を伸ばしかけてから、ゆっくり引っ込めた。
そして、「なんば拳闘会」と記された看板を見上げる。
名前はこの建物の前にやって来てから、この行為を何度も繰り返していた。
そろそろ不審者として警察に連行される頃合いだ。
「なんや、アンタ、見学者かい。」
背後からの突然の声に、名前は驚いたのか、大袈裟なくらい肩を揺らした。
一瞬だったので気付くことは難しいだろう。
名前はゆっくり振り返る。
『……』
「黙っとらんと答えんか。どうなんや。え?」
『……』
三白眼が名前を射貫く。
振り向いた先にいたのは、目付きの鋭い青年だった。
名前が黙ったままでいると、青年の眉間にグッと皺が寄った。
互いに睨み合い(名前は見つめているだけだが)、一触即発という空気が漂い始める。
その空気を壊すかのように、タイミングよく「なんば拳闘会」の扉が開かれた。
「お、名前くん。来たか。」
中から現れたのは、眼鏡をかけた中年風の男性だった。
名前を見ると笑顔を浮かべる。
人の良さそうな雰囲気がある。
名前はペコリとお辞儀をした。
「柳岡はん。知り合いでっか、このデカブツ。」
「デカブツいうなや。ワイの知り合いの息子さんや。これからジムに入るんやから、仲良くしてくれ。
さ、中入り。早いとこ説明せな時間なくなるわ。」
「はーん、柳岡はんの知り合いねえ…。」
眼鏡をかけた男性―――柳岡に連れられて、名前は建物の中に入る。
『………』
名前は器用にも、目だけでキョロキョロと辺りを見回した。
たくさんの器具や道具があり、人は各々自分たちのやるべきことを行っていた。
奥に連れられ、それもすぐ見えなくなる。
「千堂、何でお前まで着いてくんねん。」
「別にええやろ。練習まで時間あるし。」
「…静かにしてるんやで。」
「ワイはガキとちゃうわ!」
「言ったそばからワメいてどないすんねん。」
「あ!………」
「名前くん、座って。説明始めようか。」
ソファーを勧められ、名前は静かに座る。
向かい側に柳岡が座り、千堂は少し離れたところでパイプイスを広げて座った。
「先に聞いておくけど、名前くんはプロボクサーになりたいんか?」
『………今のところ、その考えはありません。』
ガタッと音がした。
名前と柳岡は揃って音がした方を見る。
千堂が唖然とした表情で名前を見ていた。
「なんやねん…喋れるやんけ。標準語やし。ちゅーか、…ボクサーになる気がないなら、何でここに来たんや!」
「千堂、静かにしろ言うたやんけ…。」
溜め息を吐きつつ鎮める柳岡に対し、千堂は口を閉じるも眉間の皺は濃い深いものになった。
黙って座り直す千堂を見届けてから、柳岡は名前に視線を戻す。
「すまんな。」
『いえ。』
「で、続きやけど。」
『はい。』
「一応、苗字から電話で一通りの話は聞いたわ。名前くん、強くなりたいとか言ったらしいな。」
『……』
「でも苗字は昼間のうちは仕事があるから、名前くんの面倒がみれん。だから、ワイに頼む。そう聞いたんやけど、合ってるか?」
『はい。』
「それならええわ。で、名前くん、ボクシングの経験とか、知識はあるか?」
『ありません。』
「なるほど。ホンマに初心者ってわけやな。」
『…』
「そんな心配せんでも大丈夫や。ワイが名前くんを強くしたるわ。」
『………』
「で、スケジュールなんやけどな…」
ペラリ。
柳岡は封筒を取り出し、中を探る。
だがなかなか目当ての物が見つからないのか、封筒を覗き込んだ後、中身をテーブルに出した。
入っていた紙は枚数こそ少ないようだが、名前の個人情報がびっしり詰まった重要そうなものだった。
「あれ?おかしいな。…」
柳岡は首を傾げる。
名前はその様子をじっと見つめていた。
『……』
「あー…すまんな、名前くん。紙、置いてきてしもたみたいや。持ってくるから、ちょお待っててくれるか。」
『…はい。』
「すまんな。すぐやから。じゃ、ちょお行ってくるわな。」
少し申し訳なさそうな表情を浮かべて、柳岡は部屋を出ていった。
途端に室内は静まり返る。
時計の音がやけに響いている。
「………」
『………』
「………」
『………』
「………」
残された者の反応は、それぞれ異なるものだった。
名前は部屋の中をぐるりと見渡し、優勝杯や記念章に目を止めている。
かと思うと、窓の外を眺めている。
一方千堂には落ち着きがなかった。
名前を観察か監視でもするかのように一心不乱に見つめている。
(一度も視線が交わることはないが)
時計の秒針が進むごとに、千堂の眉間の皺は一本、また一本と増えていった。
「アンタ、なんぼや。」
静まり返っていた空間に、千堂の声はよく通った。
名前はおもむろに千堂を見る。
『………』
首を傾げた。
限界とでも言いたげに、千堂は勢いよく立ち上がった。
椅子が大きな音を立てて倒れる。
「年!年齢を聞いてるんや!」
キレのある動きで指を差される。
ビシッとでも効果音が付きそうだ。
名前は自分に向く人差し指を見つつ、ゆっくりと答えた。
『…今年で12になります。』
「なにィ!?嘘やろ!」
『嘘じゃないです。』
「真面目に答えんなや!!」
『……』
「なんやねん12であの身長とか…ワイより高いやんけ。いくら成長期やからって高すぎやろ。なんぼあるっちゅーねん。」
『…。』
千堂がぶつぶつと小声で呟いているが、部屋が静かなので内容は丸聞こえである。
言っている本人は気付いていないようだが。
名前は首をかくんと傾けて、頭を抱える千堂を見つめる。
「しかし名前!」
頭を上げたかと思うと、千堂はまた名前を指差す。
「ワイは18やで。お前は年下や!」
『……………
…はい。』
ぱちくりと瞬きを繰り返し、若干遅れ気味で返事をする。
「しかもジムの新入りってことは、一番下端や!この意味、わかるか?わかるな?わかるよな?ワイは先輩やで。千堂先輩と呼びぃ!」
そう言うと千堂は、名前の目の前に立って腕組みをした。
そして、ソファーに座る名前をじっと見下ろす。
名前は首を傾げつつ、じっと見上げた。
そのまま数分が過ぎる。
「…いつになったら呼ぶ気や!!早く呼ばんかい!!」
『……千堂さん』
「ちゃう。"千堂先輩"や。」
『…千堂先輩。』
「声が小さい!」
『千堂先輩。』
「小さいわ!どつくぞコラ!」
『千堂先輩、痛いです。』
「…少しは痛そうな顔せんかい!!なんやねんその無表情!!かつ棒読み!!腹立つわ!!」
「何やってんねんお前らは…。」
スケジュール表片手に戻ってきた柳岡は、取っ組み合い(一方的)をする二人見つけて、溜め息交じりにそう呟いた。
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