16.


地平線から太陽が顔を出して、朝日が名前の目を刺した。
思わず目を逸らして、視線を地上の芝生に向ける。
柔らかなオレンジ色の日射しを浴びる芝生は、心地良さそうに青々と繁っている。
戦いで張り詰めた空気など知らん顔で、朝露がキラキラと輝いている。
いっそ無神経とも言える程にいつも通りの、見慣れた爽やかなホグワーツの朝だった。

セドリックと此処に立って、どれほどの時間が過ぎたのだろう。
名前の耳に微かな音が届いた。
それは蝉噪のような一瞬のさざめきだ。
顔を上げてホグワーツの方を見た。
するとホグワーツの方向から風が吹いてきて、名前とセドリックを一撫でし、背後の森へ吸い込まれていった。

背後で木の葉や枝が触れ合い、ざわざわと音を立てている。
戦地で場内が沸き立つ音と、この音を聞き間違えたのだろうか。





「今の音……」





セドリックから発せられた声は強張っていた。
名前はセドリックを見た。
セドリックはホグワーツの方を見ていた。

朝日に照らされたセドリックの顔は、睫毛の一本一本さえも濃い陰影を落としていて絵画のように端正だった。
けれど目元に滲んだ濃いクマもはっきりと朝日に照らし出されていて、端正さよりも疲労の方が目立っていた。





「戦いは終わったのかな。ナマエ、どう思う?」



『……
俺が見た予知夢では、日の出の頃に戦いが終わっていました。……』



「そうか。じゃあ、終わったのかな……。」





そう言ってもセドリックは、ちっとも嬉しそうではなかった。
戦いがハリーの勝利によって終わるのだと、予知夢ではそうなっていても、現実がその通りになるかは分からない。
自分自身の目で確認が出来るまでは無闇に喜べないのだろう。

名前も同じだ。
未来への道筋と結果が決まっていても、それが現実になるまでは安心なんて出来ない。
それに本来なら戦いに参加するはずではなかった名前とクィレルが混じっている。
名前は生きているが、クィレルが生きているかは分からない。





「でも、まだ、僕達は此処にいるべきだよね?此処で待つという約束だから。」



『そうですね。待ちましょう。』



「ああ、そうだね。」





セドリックは頷いて、じっとホグワーツを見据えた。
しかし本当にホグワーツを見ているようには見えなかった。
目が虚ろで心ここに在らずと言った様子だ。
きっと頭の中では別の事を考えているのだろう。
両親や、友人や、親しい仲間達の安否とか。
戦いの行く末を。

じろじろセドリックを見詰めるのは失礼だ。
名前もホグワーツの方へ向き直る。
だがセドリックと同じように、本当にホグワーツを見ているわけではない。
頭の中では別の事を考えていた。
親しい仲間達の安否は勿論、置いてけぼりにしたスネイプの事や、戦地にいるというクィレルの事だ。
そして戦いの結末。

二人は同じ不安を抱えていたけれど、言葉にはしなかった。
代わりに固く手を握り合った。





「……
ナマエ……」





不意に名前を呼ばれて、名前はセドリックを見た。
セドリックも名前を見ていて、それからチラリと視線を流し、そちらを見るように促した。
名前は促されるままにそちらを見た。

ホグワーツの方向から、一人の魔法使いが此方に向かって歩いてきている。
まだ遠くて性別や年齢は分からないが、本来なら肌が見える顔の部分が包帯で覆われている。





『……』



「……」





その特徴を見てすぐにクィレルだと思った。
近くに迎えに行こうとする名前を、セドリックは繋いだ手で引き留めた。
名前は振り返ってセドリックを見た。

セドリックは厳しい顔付きでクィレルであろう者を見据えている。
そもそもクィレルを信用していないのか。
それとも本物のクィレルかどうか警戒しているのか。
分からないが、名前は大人しく待つ事にした。

ホグワーツから此処までは下り坂だから、クィレル(?)が近くに来るのは早かった。
身に着けたローブは全体的に薄汚れており、裾の方は破れていていたが、出発する時と同じ服装だと分かる。
クィレル(?)が目の前まで来ると、セドリックは少しだけ名前の前に出た。
とはいえ名前の方が背が高いので、名前はセドリックの後ろからでもクィレル(?)の事が見える。
包帯が巻かれた顔は表情が読みにくいけれど、唯一覗く金泥色の瞳が、名前と目が合うと、ふっと緩んだ。





「戦いは終わったのですか?」



「はい。ハリー・ポッターが、ヴォルデモート卿に打ち勝ちました。」



「……
そうですか。」



「突然の約束にも関わらず、守っていただき有難うございます。ディゴリー。」



「いいえ。ナマエの事は僕も気になっていましたから。
これからどうするんです?」



「死傷者の安置と治療、ホグワーツの修復、それと勝利のお祝いに宴の準備を始めます。既に皆、行動を開始していますよ。」



「皆タフだな。僕達も参加しに行って大丈夫ですかね?」



「勿論です。人手は一人でも多い方が良いでしょう。
でもその前に、ナマエと二人で話をさせてもらっても構いませんか?」



「……
分かりました。ナマエ、ホグワーツで会おう。またね。」



『また後で、セドリックさん。』





ゆるりと手を振る名前を心配そうに見ながら、セドリックは芝生の坂道を登り始めた。
おそらくクィレルが本人であっても心配である事は変わりないのだろう。
ゆっくりとした足取りで芝生を登りながら、時折チラリと此方ヘ振り返っている。





「ミョウジ。」





名前を呼ばれて、名前はクィレルに向き直った。
近くで見てみると、顔に巻かれた包帯が、埃と砂にまみれている事に気が付いた。
その包帯の隙間から覗く金泥色の瞳は、緊張したように揺れている。
何か言いたそうにしているのに、何と言えば良いか迷っている感じだ。
そのまま沈黙が続きそうだったので、名前が先に口を開いた。





『クィレルさん。お手を煩わせてしまい、申し訳ありませんでした。』





そう言って、名前は深く頭を下げた。
クィレルに生きて会えたら、一番に伝えたい事だった。





「あ、あの、ミョウジ?頭を上げてください。何故君が謝るのですか?」





頭上からとても戸惑った声が聞こえてきて、名前はそろそろと頭を元に戻した。
クィレルの顔は殆ど包帯で隠れているのに、何故かとても困っているように見える。





『セドリックさんと協力して、俺を戦いの場所から離してくれた事です。セドリックさんに言われるまで、俺は自分の能力の欠点を忘れていました。』



「ああ、その事ですか……。これくらいの事、煩わしいとは思っていませんよ。」



『本当にごめんなさい。』



「そんなに謝らないでください。此処へ来る前に伝えたはずです。君の選択が上手くいくように支えると。私はそうしたまでです。
結果的に、上手く事は運んだ。そうでしょう?その……君の……、
……望みは、叶えられたのですよね?」





次第に小さく不安そうな声音に変わり、名前はそこでピンときた。
クィレルはスネイプの件を気にしていたのだ。
再開出来たのに不安そうだったのは、名前の表情から結果を知る事が困難だったから。
そして言葉にして尋ねるにしても、デリケートで気が引ける内容だったからだろう。





『スネイプ先生は、『暴れ柳』の下にある部屋で、休んでいらっしゃると思います。』



「休む……というと……。」



『生きています。衰弱しているので、置いてけぼりにしてしまって……。』



「……」





───生きています。───
その一言で、クィレルはふーっと、長い安堵の息を漏らした。
それから再び名前を見た。
先程よりも落ち着いた様子だ。





「どうして一緒にいなかったのです?」



『ク、……
……
その……、』



「……」



『城で戦う皆の、何か力になりたくて。それに……、
……クィレルさんを探しに行きたくて。』



「……」



『あの、俺が見た予知夢の中では、俺もクィレルさんもいなかったのです。でも現実では、此処には、俺もクィレルさんもいる。だから戦いの結果が勝利で終わると知っていても、自分の目で見届けたくて。俺とクィレルさんの未来は分からないから、それがすごく不安だったのです。』





クィレルが黙り込むものだから、名前は焦った様子で纏まりの無い思考を、継ぎ接ぎに紡いだ。
言い終えてから自身が口走った言葉を反芻し、何を言っているのだろうかと名前自身も良く分からなかった。

結局、名前の考えの至らなさの、長い言い訳をしただけではないか?
クィレルは気にするなと言うが、手を煩わせた事には違いないのだ。
名前は自分の不安を掻き消す為だけに動き回り、周囲の人々の気持ちは何も考えていなかったのではないだろうか。
クィレルの気持ちも。
スネイプの気持ちも。





「私の事を心配してくれたのですか?」





思いの外、優しい声でそう尋ねられ、名前は頷きながら『はい』と返事をした。
それは本当の事だ。
するとクィレルは、吸い付くように身を寄せて、両腕で名前を抱き締めた。
驚いて強張らせる名前の身体を、それ以上緊張させないようにか、毛布で包むように優しい力加減だ。





「有難うございます。すみません、心配させてしまって。
君を一人にしたのは、私の意思だったのです。」



『どうしてですか。』



「私が一緒にいたら、君の友人達やセブルスが、君の事を疑うのではないかと思ったのです。
君が友人達と一緒ならば危険は少ないだろうし、その間、私は私に出来る事をやろうと思って、私は戦場に向かいました。」



『戦う為にですか。』



「戦い、守る為にです。」



『でも、クィレルさんは、昔……
すみません、思い出したくはないかもしれませんが……』



「ヴォルデモート卿の配下、ですか?」



『……はい。
裏切り者は真っ先に狙われるはずです。俺が言えた事では無いでしょうが、とても危険な行為です。』



「そうですね、仰る通りです。
それでも何か、君の力になりたかった。信頼を確かなものにしたかったのです。」



『俺はクィレルさんを信じています。』



「はい。私自身、君の信頼をとても感じます。そして周りの人々、ブラックやマッド-アイもそう思っているでしょうね。ミョウジはクィレルを信用していると。
ですが逆はどうでしょう。」



『……』



「ミョウジ、君は私の信頼を感じているかもしれない。しかし周囲の人々はそうは思わない。
どんなに忠実に、惜しみなく力を尽くし、言葉と態度に細心の注意を払っていても、私は信頼されない。
いつか裏切る。その思いが根付いているのです。」



『……』



「身から出た錆です。仕方がありません。」





その声は後悔に満ちていた。
名前は何と声を掛ければ良いか分からず、黙ってしまった。





「だからこそ力を尽くそうと、私に出来る事をやろうと思って戦いに向かいました。私に他の選択肢はありません。二度と皆の信頼を得られずとも、私は続けるしかないのです。
しかし戦っている内に、私の頭に、一つの閃きとも呼べる考えが思い浮かんでしまったのです。
『ここで死んでしまえば……』と。」



『……』



「死をもって、私から君への忠誠と信頼は確かなものだったと、周囲の人々へ知らしめる事が出来るのではと思ったのです。
私の忠誠と信頼は本物だと証明する、うってつけの舞台だと思ったのです。
でも、私が死んでしまえば、きっと君はとても傷付いて、自分の事を追い込んで責めるんじゃないか。
ふとそう思って、私は戦いながら身を守る事に徹しました。」



『……』



「君を傷付ける事は君への裏切りだ。私は君を傷付けたくは無い。裏切りたくない。
それなのに、すまない。私は君を裏切ろうとしたのだ。
この期に及んで、私は懲りずに、悪い事をしようとしてしまった。」





名前を抱き締めながら、クィレルは背を丸め、さめざめと泣いていた。
声を詰まらせ、吐息を震わせ、引き攣る喉を無理矢理に抑え込みながら。

涙を拭おうとしたのか、背中に回された手が離れて、クィレルは自身の顔を覆い隠した。
代わりに今度は名前から手を伸ばし、クィレルの背中に手を回した。
苦しそうに呼吸をする背中を優しく撫でる。





『それでもクィレルさんは、思い直してくれたのですね。』





クィレルが難しい立場にいる事は、名前自身よく分かっている。
ヴォルデモートに傾倒して、あらゆるものを傷付けて、ほんの十歳程の少年であったハリーと名前を殺害しかけた。

改心したクィレルに出来る事は、身を尽くした仲間達への貢献しかない。
たとえ自身の人としての生活がないがしろにされようとも、身の丈以上の事を要求されても、受け入れるしかないのだ。
そういう事をしたのだ。
そうする事でしか、改心した事を証明が出来ない。
いくら身を尽くしてたところで信頼の回復に見込みが無くても、やるしかないのだ。

どんなに真心で接しても疑われ続ける状況は、とても精神が摩耗するだろう。
その状況が長くなれば長くなるほど。
自分が選んだ道だとしても、嫌気が差して当然だ。





『クィレルさん、生きてまた会える事が出来て、嬉しいです。』





名前は心からそう思ってそう言った。
声音には相変わらず全く抑揚が無かったけれど。
それでもクィレルは肩を震わせて嗚咽を漏らし、顔を覆っていた手を離して再び名前の背中に回した。
初めの包み込むような優しい力加減ではなく、小さな子どもが母親にしがみつくように力強かった。

そのままどれくらいそうしていただろう。
地平線から顔を覗かせていた太陽は、すっかり上って大地を照らしている。
冷えた夜気は息を潜め、代わりに暖かな朝日の日差しが頬を包んだ。
不意にもぞりとクィレルの頭が動いて、ゆっくりと顔を上げた。





「すみません、ミョウジ。子どものように泣いてしまって。」



『いいえ、気にしないでください。誰だって泣きたい時は泣いていいと思います。男性でも女性でも、年齢も種族も関係ありません。
気持ちを抑え込む事は、身体に悪いと思います。』



「有難うございます。あの、今度の事ですけれど……」





クィレルは泣き腫らした目元を隠すように少しだけ顔を伏せながら、照れ臭そうに鼻声でモゴモゴと続けた。





「私はセブルスの様子を見に行って、必要ならば医務室へ連れて行きます。
ミョウジ。君はコテージへ戻って、マッド-アイとバーベッジに戦いが終わった事を伝えてもらえませんか?」



『分かりました。』



「おそらく今後の流れについて話をされると思いますので、そうしたらブラックに伝えてください。彼は城の方で復興作業をしています。」



『分かりました。』



「それでは……また後で。」



『はい、また後で……。』





どちらともなく体を離して、二人は数歩後ろに下がると身を翻した。
クィレルは森伝いに「暴れ柳」へ向かい、名前は森の中へ身を隠す。

懐から提灯を取り出して、杖で明かりを点した。
コテージへ向けて、提灯はくるくると回転を始めた。

- 311 -


[*前] | [次#]
ページ:




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -