15.


トンネルの中を這って進んで、スネイプのいる部屋から射し込む光が届かなくなると、名前は杖で灯りを点した。
一本道で間違えようも無いし、危険物が無いのは行きに確認済みではある。
しかし音も光も吸収する土壁に一人で囲まれると、静まっていたはずの恐怖が蘇り、鳥肌が立つような感覚がして、皮膚をざわめかせるのだ。

土埃の匂いが充満するトンネル内には、道を這い進む自身の衣擦れの音と呼吸音、それと耳鳴りが聞こえる。
外部からの音は遮断される空間なので有り得ないと頭では理解はしているのだが、風が吹き込んでいるのか、スネイプの声なのか、戦闘の音なのか、低い音が微かに聞こえてくるような気がした。





『(そんなはずはない。)』





この先の展開を名前は予知している。
戦闘はまだ起こらない。
頭を振って考えを消す。
だが名前がいるこの現実は、予知していた未来とは別の未来だ。
スネイプは生きているし、クィレルもシリウスもいる。

展開の大きな流れが変わらずとも、名前が予知していない変化が起きてもおかしくない。
例えばもしもスネイプが、体の不調を無視して戦闘に向かおうとしても、名前には知りようも無いのだ。





『……』





一抹の不安が頭を過り、名前は歩みを止めた。
見たところスネイプは身動きを取れるような体の状態ではない。
しかしあの異様なほどに必死な───平時のスネイプならば絶対にしないであろう取り乱し方を思い出すと、精神力のみで動いてしまえそうな気がした。

道を引き返すには、一度トンネルを出る必要がある。
トンネルを出て、またトンネルを這って進んで、スネイプに身動きを取らないよう何とか考えて、またトンネルを這って進んで………………。
とてもそんな時間は無い。

未来に名前が居ようと居まいが、展開に滞りは無い。
それでも不安が消滅するわけではない。
少しでも犠牲や傷を減らしたい。
自分の目で見届けたい。





「ハリー・ポッターは死んだ。」





耳元で冷たい掠れた声が聞こえた。
耳朶を震わすその声は、脳にスルリと潜り込み、体中の血液を一瞬にして冷やした。
「こうなる」事が分かっていても、此処にはいないと分かっていても、一瞬で湧いた恐怖は湯水のように溢れ出て、塞き止める事が出来なかった。





「お前達が、奴の為に命を投げ出している時に、奴は、自分だけ助かろうとして、逃げ出すところを殺された。
お前達の英雄が死んだ事の証に、死骸を持って来てやったぞ。」





溢れ出てきた恐怖は徐々に干上がっていった。
未来は予知された内容のままで進んでいる。
この未来のハリーの生死は不明だけれど、予知のままなら生きている。
そして名前の気持ちは、ハリーが生きている方に傾いている。
それはどこか確信めいた自信だった。





「勝負はついた。お前達は戦士の半分を失った。
俺様の死喰い人達の前に、お前達は多勢に無勢だ。
『生き残った男の子』は完全に敗北した。もはや、戦いはやめなければならぬ。抵抗を続ける者は、男も、女も、子どもも虐殺されよう。その家族も同様だ。
城を棄てよ。
俺様の前に跪け。
さすれば命だけは助けてやろう。お前達の親も、子どもも、兄弟姉妹も生きる事が出来、許されるのだ。
そしてお前達は、我々が共に作り上げる、新しい世界に参加するのだ。」





そこでヴォルデモートの声は途切れた。
これからヴォルデモートの陣営は、森から城へと移動するはずだ。
そして、本当に最後の戦いが始まる。

名前は歩みを再開した。
不思議な事に、焦りも恐怖も大して無くて、気持ちは落ち着いていた。
ヴォルデモートの今の言葉を聞いて、城にいる皆や、部屋に残してきたスネイプは、とてもショックを受けているだろう。
悲しみと絶望で体中の力を無くしてしまっているかもしれない。
反対に怒りで力が湧き上がって、迎え撃とうと戦いを待ち受けているかもしれない。

城にいる皆は戦いを選択する。
名前は攻守どちらとも、後方からの支援をするつもりだ。
スネイプはどんな選択をするだろう。





『……』





トンネルから這い出て、急いで暴れ柳から身を遠ざける。
離れてから少しだけ様子を見ていたが、暴れ柳はただの樹木のように、静かに佇んで風に吹かれていた。
安堵の息を吐いて、改めて周囲に目を向ける。

三日月を少し過ぎただけの月の光は頼りなく、辺りは墨で染めたように暗い。
視界が不明瞭な事に僅かな不安を抱いたが、自分の聴覚を信じて耳を澄ませた。
とても静かだ。不気味なほどに静まり返っている。
大きな声も音も聞こえない。
戦いはまだ始まっていないようだ。

名前は足を踏み出した。
冷えた夜気が髪を撫で、肌の上を滑っていく。





『……』





五月に入ったばかりのイギリスの夜は冷えて寒い。
慎重に歩を進めながら、名前は自分の腕を擦った。
手に触れる感触は滑らかなローブではなく、ザラザラとした綿の衣服だ。
先程までの時間が幻ではない証拠のように感じて、名前は少しだけ安心出来た。

自分は確かにスネイプを助けられた。
この手で自分のローブを掛けたのだ。
これは自分が作り出した幻ではない。
生き存える事をスネイプ本人が望んだかどうかは分からないけれど。
でも、少なくとも、あの時に名前を罵る事はしなかった。

息を吐き、吸う。
肺を満たす冷えた夜気は、氷を飲んだように体の中で溶けて染み渡る。
不安と緊張で朧げだった意識がハッキリとして冴えていく。
コテージを出発した時より、気持ちはずっと落ち着いていた。
これから戦いの場へ赴くというのにだ。





『……』





ふと名前は足を止めた。
地面が微かに震えている事に気が付いたからだ。
耳を澄ませば低い振動音も聞こえてくる。
闇夜に目を凝らせば、遠い校庭の境界から、大小様々な影が城に向かって行く様子が見えた。
名前は足を速め、すぐに駆け出した。
戦いが始まるのだ。















城へ近付くに連れて戦いの様子を目視が出来るようになると、そのあまりにも混沌とした有様に、戦争の恐ろしさをまざまざと見せ付けられた。
種族も敵も味方も入り乱れ、中には同士撃ちも起こっているようだ。
これだけ混沌としていれば、すぐには誰が呪文を放ったか識別が出来ないだろうし、その誰かが混乱に乗じて身を隠せば、ターゲットを見付け出す事は困難を極めるだろう。
余程特徴的な容姿をしていなければの話だが。

大勢の人々が乱闘する空間に、名前はスルリと入り込んだ。
人の波に流されながら身を屈めて、頭上で飛び交う呪文と閃光、ケンタウルスの放つ矢、巨人の大きな手足などを避けつつ、早足で進む。
周囲に目を走らせ、味方の応戦と防御を後方から支援しつつ、真っ白な包帯でぐるぐる巻きのクィレルを探した。

見える範囲にはいない。
此処にはいないのだろうか。
城の前は巨人やケンタウルス、セストラルやヒッポグリフが暴れており、敵も味方も城の中へ逃げ込んでいる。
名前が紛れ込んだこの人の波も城の中へ向かっている。
既にクィレルは城の中にいるのだろうか?





『……』





玄関ホールに入ると、そこは疾うに戦場と化していた。
城の中へ逃げ込んだ魔法使い達だけでなく、厨房で働く屋敷しもべ妖精達も、ケンタウルス達も戦っていた。
意識が無いのか生きていないのか、倒れている者もいれば、怪我をして動けないであろう者もいる。
その者に足を取られて転倒し、歩行者に踏みつけられる者もいる。
城の中は芋洗い状態だった。
名前はそのまま大広間へ流された。

既に大広間でも戦闘が繰り広げられていた。
怒号と呪文が大広間に反響していて、男か女の声なのかも聞き取れない。
応戦と防御を続けながら周囲を見回す。
クィレルはどこだ?





『───』





耳元で鈴の音が鳴り響いた。
思わず息を呑み、体が固まる。
名前の背筋で氷が滑る。

この喧騒の中、単なる鈴の音が、明確に聞こえるわけはない。
これは警告だ。
名前に悪意が向けられていると知らせている。

名前は咄嗟に、更に身を屈めた。
身体ごと左右どちらかに動かせば良かったのだろうが、体を縮こまらせてしまった。
起こりうる衝撃から耐える為に、体を丸めてしまったのだ。





『……』





頭部に僅かな衝撃を感じた。
予想よりも大した事が無い。
俯いた名前の視界に、ハラハラと黒い糸が落ちてくる。

髪の毛だ。
高く結われた名前の髪に呪文が当たったのだ。
だが今の衝撃の方向から、呪文を放った方向が分かった。
名前は視線を動かした。

人混みの中で、此方を真っ直ぐ見据える者がいた。





「すまない、ナマエ。手元が狂って、お前の綺麗な黒髪を切り落としてしまった。
だが動いたお前が悪いのだぞ。俺様は耳を狙ったつもりだったのだ。」





ヴォルデモートは冷たい笑みを浮かべてそう言った。
喧騒の中で不思議な事に、その声はハッキリと聞き取れた。

この混乱の最中、誰かに狙いを定める事は困難を極める。
しかし余程特徴的な容姿をしていれば話は別だ。
名前の長身と東洋人の容貌は、ヴォルデモートにとって良い目印になっていたのだ。
この騒ぎの中を無傷でいられたのも、もしかしたらヴォルデモートから死喰い人達に、名前に手を出すなと指示があったのからかもしれない。

名前は体を起こして向き直ると杖を構えた。
ヴォルデモートは益々笑みを深くして、戦おうとする名前をせせら笑った。





「落ち着け、ナマエ。俺様はお前を殺したいわけではない。
お前よりも俺様が強い事を、ただ分かって欲しいだけなのだ。
誰が君主として相応しいか、誰に付き従う事が正しいかを、聡いお前に理解して欲しいのだ。」



『……』



「俺様と初めて出会った時にも言ったはずだ。懐かしいな。覚えているか?」





手元の杖を弄びながら、ヴォルデモートは大袈裟な程に優しい声音で語った。
それでもヴォルデモートの赤い目は鋭く名前の動向を観察し、決して杖の照準は外されない。

名前とヴォルデモートが対面で向かい合っているのにも関わらず、周囲の戦闘は二人を除いて無関心に行われている。
まるでこの場にいるにはヴォルデモートと名前の二人だけで、周囲の人々は幻のようだった。





「残念な事にお前は純血ではないが、ただのマグルでもない。そして、お前ほど計り知れない魔力を持った魔法使いの存在は稀有だ。
それに飲み込みが早く頭も良い。この戦場へ飛び込み、俺様と向かい合っても震えない、勇気と胆力も持ち合わせている、実に優秀な人材だ。」



『……』



「お前が欲しいのだ、ナマエ。
俺様と共に未来を歩もうではないか。」





名前は首を左右に振った。
それが答えだった。
途端にヴォルデモートの口角と目尻が吊り上がった。





「変わらないな、ナマエ。昔と変わらぬ答えだ。よかろう。ならば俺様の答えも同じだ。今ここで殺してやる。」





ヴォルデモートは呪文を唱えようと杖を振り上げた。
名前も呪文を唱える為に息を吸い込んだ。
その瞬間、ヴォルデモートはハッと視線を横に背け、それと同時に名前の手が何者かに掴まれた。
その何者かを確認する間もなく、人混みの中へと引きずり込まれる。

視界は入り交じる人々で埋もれ、ヴォルデモートの姿は遠ざかっていく。
最後に確認出来たのは、ヴォルデモートが身を翻し、直後どこからか閃光が走り抜け、たった今ヴォルデモートがいた場所に直撃した場面だった。

名前は自分の手を引っ張る人物に向き直った。
色白の肌に、短い茶髪の男性の後ろ姿だ。
見覚えがある気がする。
誰だろう。





『セドリックさん───』





思い出す前に名前は口から溢れていた。
セドリックは名前を見ないまま、周囲を厳しい目で見回して、名前の手を掴む反対の手で、しっかりと杖を構えていた。





「話すのは此処から離れてからにしよう、ナマエ。」


『でも───待ってください───』



「駄目だ。こればかりは聞けないよ。」



『でも───それでも待ってください。』





玄関ホールの途中で名前はピタリと止まり、セドリックがいくら引っ張っても、梃子でも動かない。
その様子はまるで絵本の「大きなカブ」だ。
力任せは時間の無駄だと悟ったのか、そこでようやくセドリックは名前に向き直った。





「ナマエ、君は此処から離れなきゃいけないんだよ。」



『でも俺は、人を探しているのです。包帯を巻いた男性を見掛けませんでしたか。』



「クィレルさんの事かい?」



『はい、会ったのですか。』



「ああ。彼なら大丈夫だ。僕はクィレルさんに言われて此処に来た。君を此処から連れ出す為にね。」



『クィレルさんも此処にいますか。』



「ああ、いるよ。後で会う予定だ。
だから、さあ、此処から離れよう。僕に約束を守らせてくれ。」



『約束、ですか。』



「ナマエ、君は……」





セドリックは厳しい目付きで周囲を見回して、名前の方に身を寄せた。
顔を耳元に近付けて、小さな低い声で話を続けた。





「君は、もしかしたら予知能力のせいで、戦闘の最中に気を失う可能性があるんだろう。」



『……』



「シリウス達から聞いたよ。」



『……そうですか。』



「ナマエ。君は優秀だし、君がいれば皆を勇気づけられるだろう。でも君が死んでしまったら、それだけ深い悲しみを皆に与える事になる。それに予知能力のせいでそんな事になったら、君だって遣り切れないだろう。」





そう言って、セドリックは名前の手を引っ張った。
先程の抵抗が嘘のように、名前はあっさり従った。

戦いに敗れて倒れる者、今も戦い続ける者。
大勢の人々の間を掻い潜り、玄関ホールを抜けて、石の階段を降りて、芝生を下って森へ向かう。
暁に染まる空の下を無心で駆け抜ける。
戦場の喧騒も、城の存在も遠ざかり、森の湿った匂いが漂ってきた。

セドリックは森の中に生える一本の木の下の根本で立ち止まった。
肩で大きく息をして、呼吸を整えている。
名前は城の方をじっと見詰めた。





「ナマエ、君が最後に見た未来は明るいものだった?」





名前は振り返ってセドリックを見た。
セドリックも城の方を見ていた。
握られたままの手に、僅かに力が込められていた。
名前は頷き、それから『はい』と答えた。





「それなら、その未来を信じよう。僕も信じるよ。
だから此処で僕と一緒に、その時が来るのを待とう。
君と一緒なら、僕も待てるよ。」





セドリックは歯を食い縛り、顔を顰めて、城の方を見詰めた。
名前の手ごと拳を握った。
名前が肯定した明るい未来を信じて、この耐え難い時間を耐えているのだ。

地平線にオレンジ色が滲んでいる。
もうすぐ夜が明ける。

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