14.


薄く開かれた瞼から覗く、真っ黒な瞳が、確かに此方を見詰めている。

トンネルを覗いた時のような。
闇夜に佇む樹木の影のような。
どこまでも暗く、光を飲み込んでしまいそうな程に、真っ黒な瞳。

自分が望んだ未来だ。
自分が自らした事だ。
しかし、胸中に広がったのは疑念だった。
これは本当に現実なのだろうか?
そう望むあまり、自分が作り出した夢や、幻覚の類を見ているのではないだろうか?

以前に似たような体験をしている。
三年生の頃、「暴れ柳」の付近で、気を失ったスネイプに付き添っていた。
その時に目を覚ましたスネイプは、まだ意識がぼんやりとしたまま、名前を見詰めながら唇を動かした。
それは小さく、掠れていて、ほとんど吐息で、声にはならなかった。
けれども唇が紡いだ言葉は、名前にははっきりと分かった。
名前の父親の名前だった。

今は、名前の名前を紡いだ。
あの頃の体験を、状況を書き換えて、都合の良い夢を見ている気がしてならない。
望んでいたくせに、自らが起こした行動のくせに、心はちっとも落ち着かない。
これは現実だ。
誰も名前におかしな魔法など掛けていない。
受け入れて大丈夫だ。
それなのに、どうして恐怖に蝕まれている?















何かが手に触れた。
驚くほど冷たくて、しっとりと湿っていて、名前の手首に巻き付いてくる。

───まるで蛇のように。

そう連想してしまった直後、反射的に名前は自身の手を見た。
スネイプの手だ。
スネイプの首元を押さえる名前の手に、スネイプの手が重ねられている。

重ねられたスネイプの手は、名前の手を触診するかのように隈無く、ゆっくりと慎重に触れてきた。
触れるその手の冷たさに、名前の意識が現実に引き戻されていく。

名前は男性の肉体を持ち、平均よりは筋肉量が多い方だ。
けれども東洋人だから、ホグワーツにいる殆どの人々よりも体温は低い。
それなのにスネイプの手は驚くほど冷たい。
あれ程の出血をすれば当然の事だろうけど。





『……』





けれども眼下で横たわるスネイプは、ゆっくりと静かに、だが確かに、呼吸を繰り返している。
薄く開かれた瞼は、時折瞬きをしている。
生きている。これは現実だ。
とはいえ、すぐに飲み込めるものではない。
スネイプが触れていない方の手を、そろりと持ち上げ、名前は自分の頬に触れた。
頬を摘み、徐々に力を込めていく。
しっかりと痛みを感じる。





「現実か。」





掠れた声が耳に届き、名前は心を読まれたかとドキリとした。
今まさに名前は、これが現実か疑っていたところだったからだ。
見ると、スネイプと目が合った。
普段の鋭い眼差しではなく眠たげで、瞼が重たそうな様子だ。
多分出血のせいで意識がぼんやりとしているのだろう。

スネイプの言葉に何か返事をするべきか。
それとも無意識に漏れた心の声か。
少しだけ名前は思考を巡らせた。
そして、自分はここにいるのだから、何か返事をした方が良いだろうと結論を出した。
しかし、「現実か。」?
名前自身も疑っているというのに。





『……
多分、……』



「……」



『そうだと思い……ます。……』





咄嗟に出て来た言葉は何とも説得力に欠けるものだった。
言ってから名前は思わず唇を真一文字に結ぶ。
これならば何も言わない方が良かったのでは、と感じてしまう程の言葉と声の弱さ。
名前の返事にスネイプが黙っている事も、きまりの悪さに拍車を掛けている。





「居るのは、君一人か。」





沈黙は一瞬だったようだ。
スネイプは普段よりも殊更にゆっくりと、一言一言噛み締めるように、そう言った。
名前の返事に納得したのか、ただ単に情報を引き出したいだけなのかは、真意は分からない。
けれど会話が続いた事に、名前は少し安堵したようだった。





『はい、そうです。』



「君の友人達はどうした。」



『城に戻りました。『例のあの人』が、一時撤退をしたのです。』





話しながら名前は段々と混乱が落ち着いていくのを感じた。
単純なもので、スネイプの声や呼吸といった生きた姿を確認出来ると、少しずつだが現実的な考えに思考を巡らせる余裕が出てきたのだ。

眠たそうに見えるが、おそらくスネイプは気分が悪いのだろう。
声は掠れて、言葉は短く、ゆっくりと呼吸を繰り返し、時折耐えるように固く目を瞑っている。
出血が原因だとしたら早く手当てをすべきだろう。

未だ名前の片手はスネイプの首筋を押さえている。
その自身の手の上に、スネイプの冷たい手が置かれている。
見たところもう出血は無いようだ。
では傷口を押さえる名前の手はもう必要無いだろう。
煩わしいだろうし退けるべきだろうが、思いの外スネイプの手がしっかり名前の手を押さえ込んでいて動かせない。
諦めて押さえ込まれた手はそのままに、頬を抓った方の手で、名前は自身の懐を探った。





『あの……これ。』



「……」



『血液補充薬です。飲めますか。』



「……」





スネイプの視線が動き、名前の持つ血液補充薬に移る。
じっと薬を見ていたかと思うと、また視線が動き、再び名前に向けられた。
そのまま黙って名前を見据えている。
何を思っているのか分からず、名前もスネイプを見詰めた。

仄暗い黒い瞳を覗き込む。
怒りは感じられない。
疑いも感じられない。
抵抗しているようにも見えない。
拒絶しているようにも見えない。

気分が悪くて薬も飲めないのだろうか?
頭痛があるとか?吐き気があるとか?
出血は無いようだが、蛇の毒が他にも症状を引き起こしているのだろうか?
見えない場所───脳や臓器で出血があるとか?
そんな事があるのだろうか?
分からない。
でも、もしあったら?
やはり解毒剤を使った方が良いのだろうか?





『あの、……吐き気や痛みがあるようでしたら、そちらの薬も持っています。解毒剤もあります。使いますか。』





それでもスネイプは黙って、ただ名前を見ている。
もしかしてものすごく気分が悪いのだろうか?
名前はスネイプの顔を覗き込んだ。





『少し顔に触りますね、失礼します。……』





手に持った薬を慎重に床に置く。
そして一言断りを入れてから、名前は空いている方の手で、スネイプの頬に触れた。
なるべく刺激を与えないように下の瞼をめくる。
裏側が真っ白だ。貧血だという事は確かなようだ。

急な貧血症状に対する応急処置は……。
安静にする。衣服をゆるめる。温める。
の、三つ。
……だったはずだ。
スネイプの場合は出血による貧血だが、この応急処置は効果があるのだろうか?
身体は冷えているから温めるのは良いのだろう。
……多分。
だが温めたら、出血が復活したりしないだろうか。
自問自答を繰り広げてしまう。

その姿勢を保ったまま黙り込み、優に一分は経過しただろう。
ふと気が付く。
スネイプは何も言わず、ただじっと名前を見据えている。
此方を覗き返す黒い瞳に、真意を探られているような感覚を覚える。

いくら体調確認とはいえ、このようにずっと触れているのは不自然だろう。
取り敢えず、名前は手を離した。





『……』





スネイプの体が僅かに動いた。
どうやら体を起こそうと試みているらしい。
名前の手を掴んでいる手とは反対の手で床を押している。
しかし上手く力が入らないのか持ち上がる気配が無い。

反射的に溢れた『手伝います』の一言と殆ど同時に、名前はスネイプの肩に手を滑り込ませた。
自身の胸元にスネイプの頭を寄り掛からせて肩を抱き、ゆっくりと上半身を起こす。
そこまでやってから名前は、いくら体調が悪くても、こんなにベタベタ体に触って不快ではなかろうかと思ったらしく、恐る恐るスネイプの顔をチラと見た。
すると上半身を起こしたスネイプと、ちょうどバッチリ目が合ってしまった。

タイミングの良さ(むしろ悪さ?)に、名前は一瞬にして石像のように固まる。
しかし名前の不安とは裏腹に、スネイプに気にした様子は無い。





「薬を。」





名前の瞳を見据えて、スネイプは一言そう言い放った。
言葉を理解して石像化が解けた名前は、慌てて床に置いていた薬を手に取った。
ハッと息を呑む。
薬を掴んだ自分の手は血塗れだ。
名前は気付いた。
急いだあまり、スネイプの首元を押さえていた手を動かした事に。
片方の手はスネイプの背中を支えていたから離すわけにはいかず、咄嗟に動いたのがスネイプの首元を押さえていた手だったのだ。

薬を握り締めて名前はスネイプを見た。
スネイプは此方を見ていた。
多分、ずっと見ていた。





「……」



『……』





視界の端で何かが動いた。
反射的にそちらを見る。
スネイプの手だ。
スネイプが腹の上に置いた手を動かしたのだ。
掌を上に向けて、その手に薬を持たせるよう、名前に促しているらしい。

名前は片手で薬を開封してから、その薬をスネイプに持たせた。
スネイプは薬の入った小瓶を握って、ゆっくりと口元に運ぶ。
握る指のぎこちなさと、持ち上げる腕の不安定さに、名前はまたもや手を出してしまった。
何も言わず薬を握るスネイプの手を支えたのだ。





『あ……ごめんなさい。少しだけ手伝います。
……失礼します。』





支えた後で、一言声を掛けるべきだったと後悔して、名前はしどろもどろでそう言った。
スネイプはチラリと横目で此方を見たが、何も言わずにされるがままだった。

口元まで近付いた薬の小瓶を、スネイプはじっと見た。
本当に血液補充薬か、匂いを確かめているのかもしれない。
少しして口を付け、ゆっくりと飲む。

名前はスネイプの首筋を見詰める。
個人差もあるだろうし、まだ薬を飲み切っていないし、どれくらいで効果が現れるかは分からない。
でももし瞬時に効果が現れて、出血が復活したらと思うと不安だったのだ。
今のところ首元から血は流れていないようだけれど。





「我輩が意識を無くしてから、どれほど経つ。」



『すみません、はっきりとは分かりません。多分、二十分か……三十分くらいだと思います。』



「……」





薬の小瓶を持ったままスネイプは黙り込み、自身の投げ出された靴の先を見ていた。
そこに何かがあるわけではない。
そこに意識は無い。
意識は別にある。
ただ視線を向けているだけだ。
多分何か、思ったり考えたりしているのだろう。

意識を無くしたと、スネイプは言ったが。
だが分かっているはずだ。
自分が死の淵に立っていた事を。

自らがハリーに渡したものを、夢だとは思えないだろう。
そのような事は夢でも見たくないはずだ。
最後の手段なのだろうから。

スネイプは現状をどう捉えているのだろう。
スネイプから見れば一人此処にいる名前が、どうしたって現状を作り出した張本人である可能性が高い。
名前がスネイプを生かした。
客観的に見ればそうだ。
名前がそれを望んだ。
しかしスネイプは、生きる事を望んでいたのだろうか。





「「闇の帝王」は一時撤退をしたようだが、」



『……』



「戦いは続いており、直に再開される。」



『はい。』



「君が他に知っている事はあるかね。」



『……少しだけなら、あります。』





情報を引き出して何をしようと考えているのか、名前には分からない。
しかし深くは考えず、名前は素直に答えた。

ヴォルデモートが「禁じられた森」に一時撤退しており、そこでハリーを待っている事。
もしハリーが現れないまま一時間経過したら、戦いを再開するという事。
城に戻ったハリー達が、仲間の手当てや、今後の作戦を立て直しているという事。

少ない情報だが、スネイプは黙って話に耳を傾け、話が終わった後も、少ない情報を元に考え込んでいるようだった。
スネイプの手当てを始めてから、かれこれ三十分以上は経過しているはずだ。
もうすぐ戦いが再開される時間である。





『……』





何とも器用な事だが、名前はローブから片手を抜き取って、ローブを半分脱いだ状態になった。
それから脱いだローブの肩辺りを持って、それをスネイプの肩に掛けた。
生地が裏表逆になってしまったが、何も無いより暖かいはずだ。
一連の動作を観察していたスネイプが怪訝そうに名前を見た。





「これは一体何のつもりかね。」



『スネイプ先生の体温が低いので、温めた方が良いと思って……。』



「……。」





眉間の皺を深くさせて、スネイプはジロリと名前を見た。
その視線に射抜かれて、名前は奇妙な感情を抱いた。
不安と安堵だ。
不快にさせただろうかという不安と、普段スネイプがよく見せる表情を見る事が出来て安堵したのだ。
兎に角、思っていたよりスネイプは回復しているのかもしれない。
それともただ単に気丈なだけか。

名前は杖で近くにあった木箱を呼び寄せた。
それをスネイプの背中に設置して、そこへ凭れ掛かってもらい、自分の腕は抜き去った。
スネイプは益々怪訝そうに名前を見た。





『スネイプ先生は此処にいてください。俺は城に戻ります。』



「行くな!」





叫び声か。
掴まれた手首か。
名前の動きを制止したのは、果たしてどちらが先だったか。

立ち上がりかけた姿勢のまま、名前はまじまじとスネイプを見た。
今何が起きたのか、今起きた事は何なのか、信じられないと言った様子だ。
悲痛な大きな声も、懸命に手首を掴まれた事も、名前を留めようとする言葉も、どれもスネイプのイメージとはかけ離れていたからだ。





「君が戦いに参加したところで、大した影響は与えない。むしろ死体を増やすだけだ。行く必要は無い。」



『……
俺は戦うつもりはありません。その場を動けない人を助けたり……』



「同じ事だ。」



『……友人を助けに行くだけです。』



「ポッターの友人は君だけではない。」



『俺の友人はハリーだけではありません。』



「その友人も君だけが友人ではない。」



『いくら友人がいてもいいのです。皆一人一人、その時に出来る事をするのですから。だから俺も行くのです。』



「君が今出来る事は此処から逃げ出す事だ。
君の両親がそうしたように。」





言い放ってからスネイプは、見間違いでなければ、一瞬「しくじった」という表情を浮かべた。
スネイプは名前の両親がヴォルデモートから逃げた事を知っているのだ。
ヴォルデモートへの裏切りは罪深く、本人だけでなく家族や親戚に渡って鉄槌が下される。
逃げ出した名前の両親は勿論、実子である名前にも未だ矛先は向けられている。

予知能力や蘇生能力に目を付けられているかは分からないが、スネイプもヴォルデモートも感付いてはいるだろう。
それも踏まえた上で遁走を指示しているのかもしれない。

しかし、スネイプは「逃げろ」と言った。
ヴォルデモートの部下であるスネイプが、冷徹なスネイプが、そう言ったのだ。





『有難うございます。でも、俺は城に行きます。』



「よせ。結果は分かっているのだ。戦場から遠ざかり、どこへなりと行けば良いだろう。」



『どこに行っても必ず追い詰められます。両親のように。よくご存知でしょう。』



「……」



『今ここで立ち向かうしかないのです。
俺はハリーを信じています。』





掴まれた手首の指を解くのは容易かった。
スネイプは藻掻くように名前の手首を掴んでいたけれど、その力はあまりにも弱々しかったからだ。
それでも諦めずに手を伸ばして、スネイプは何とか名前を捕まえようとした。
しかし力が入らず動きもままならない体で、名前を捕える事が出来るはずもない。
赤ん坊が蝶を捕まえるようなものだ。
触れられる距離からいとも簡単に、名前はするりと抜け出した。

スネイプはなりふり構わなかった。
遠ざかる名前の背中に向かって声を張り上げていた。
「やめろ」。「行くな」。「逃げろ」。
おそらくスネイプの視界には、既に名前の姿は見えないだろう。
けれど名前の耳には、今もスネイプの声が届いている。

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