13.


沈黙の中でシューシューと、何かが漏れ出す音が微かに聞こえる。
蛇の噴気音か、誰かの歯の隙間から出ている音か。
それともただの衣擦れの音が、そう聞こえてしまっているだけだろうか。
全ての音が攻撃の前兆に聞こえてしまう。
それ程までに空気が張り詰めている。















「わ───我が君?」





スネイプの低い声が、張り詰めた沈黙を破った。
痛い程に良く分かる敵意を向けられた状態で、スネイプの声は努めて平常通りだ。
焦りや恐怖を少しも見せず、忠実で優秀な部下であろうと立ち回っている。





「私めには理解しかねます。我が君は───我が君は、その杖で極めて優れた魔法を行っておいでです。」



「違う。
俺様は普通の魔法を行っている。確かに俺様は極めて優れているのだが、この杖は……違う。約束された威力を発揮しておらぬ。この杖も、昔オリバンダーから手に入れた杖も、何ら違いを感じない。
何ら違わぬ。」





ヴォルデモートの声は静かだったが、言葉の端々に怒りが込められていた。
話す度に怒りのボルテージが上がっている気さえした。
おそらくスネイプもそれを感じ取っているのだろう。
黙して何も語らない。
不用意にものを言えば寿命を縮めてしまう。





「俺様は時間を掛けてよく考えたのだ、セブルス……俺様が、何故お前を戦いから呼び戻したか分かるか?」



「いいえ、我が君。しかし、戦いの場に戻る事をお許しいただきたく存じます。どうかポッターめを探すお許しを。」



「お前もルシウスと同じ事を言う。二人とも、俺様ほどには彼奴を理解してはおらぬ。ポッターを探す必要など無い。彼奴の方から俺様のところへ来るだろう。彼奴の弱点を俺様は知っている。一つの大きな欠陥だ。周りで他の奴らがやられるのを、見ておれぬ奴なのだ。自分の所為でそうなっている事を知りながら、見てはおれぬのだ。どんな代償を払ってでも、止めようとするだろう。彼奴は来る。」



「しかし、我が君、あなた様以外の者に誤って殺されてしまうかもしれず───」



「死喰い人達には、明確な指示を与えておる。ポッターを捕らえよ。奴の友人達を殺せ───多く殺すほど良い───しかし、彼奴は殺すな、とな。
しかし、俺様が話したいのは、セブルス、お前の事だ。ハリー・ポッターの事ではない。お前は俺様にとって、非常に貴重だった。非常にな。」



「私めが、あなた様にお仕えする事のみを願っていると、我が君にはお分かりです。しかし───我が君、この場を下がり、ポッターめを探す事をお許しくださいますよう。あなた様の許に連れて参ります。私にはそれが出来ると───」



「言ったはずだ。許さぬ!」





静かな空間の中で発せられた、一際大きなヴォルデモートの怒声は、居合わせた者の動きを止めるには十分だった。
緊張の糸が張り巡らされ、身動ぎ一つ許されない。
前方にいるハリーの方向から、押し殺された呼吸が聞こえる。
ヴォルデモートの怒りを感じ取っているのだろう。





「俺様が目下気掛かりなのは、セブルス、あの小僧とついに顔を合わせた時に何が起こるかという事だ!」



「我が君、疑問の余地はありません。必ずや───」



「───いや、疑問があるのだ、セブルス。疑問が。
俺様の使った杖が二本とも、ハリー・ポッターを仕損じたのは何故だ?」



「わ───私めには、分かりません、我が君。」



「分からぬと?」





ハリーのいる方向から聞こえる押し殺された荒い呼吸が、更に酷くなっていく。
何かで口を押さえているのだろう、音は籠もっていたが、苦痛で大きく震えている。
ヴォルデモートの怒りがどんどん激しくなっている。





「俺様のイチイの杖は、セブルス、何でも俺様の言うがままに事を成した。ハリー・ポッターを亡き者にする以外はな。あの杖は二度もしくじりおった。オリバンダーを拷問したところ、双子の芯の事を吐き、別な杖を使うようにと言いおった。俺様はそのようにした。しかし、ルシウスめの杖は、ポッターの杖に出会って砕けた。」



「我輩───私めには、我が君、説明出来ません。」



「俺様は、三本目の杖を求めたのだ、セブルス。ニワトコの杖、宿命の杖、死の杖だ。前の持ち主から、俺様はそれを奪った。アルバス・ダンブルドアの墓からそれを奪ったのだ。」



「我が君───小僧を探しに行かせてください───」



「この長い夜、俺様が間もなく勝利しようという今夜、俺様はここに座り───
考えに考え抜いた。何故このニワトコの杖は、あるべき本来の杖になる事を拒むのか、何故伝説通りに、正当な所有者に対して行うべき技を行わないのか……そして、俺様はどうやら答えを得た。」





一瞬の沈黙が辺りに満ちた。
心臓が早鐘を打ち、耳元で鳴り響いてやかましい。
前方の一筋の光を見据えているのに、視界の周囲が黒いモヤに覆われ、視界が狭くなっていく。
極度の緊張によって身体に異常が起きているのだろう。
だが此処から逃げ出すわけにはいかない。
勿論、気を失うわけにもいかない。
あの瞬間を逃すわけにはいかないのだ。





「おそらくお前は、既に答えを知っておろう?何しろセブルス、お前は賢い男だ。お前は、忠実な良き下僕であった。これからせねばならぬ事を、残念に思う。」



「我が君───」



「ニワトコの杖が、俺様にまともに仕える事が出来ぬのは、セブルス、俺様が真の持ち主ではないからだ。ニワトコの杖は、最後の持ち主を殺した魔法使いに所属する。お前がアルバス・ダンブルドアを殺した。お前が生きている限り、セブルス、ニワトコの杖は、真に俺様のものになる事は出来ぬ。」



「我が君!」



「これ以外に道は無い。
セブルス、俺様はこの杖の主人にならねばならぬ。杖を制するのだ。さすれば、俺様はついにポッターを制する。」





杖が空を切った音が聞こえた。
一拍置いて、ヴォルデモートが蛇語で言った。





「殺せ。」





耳を塞ぎたくなる程の悲鳴が響き渡った。
前方の部屋で何が起きているか。
直接見なくても、名前は知っている。
ヴォルデモートの蛇が、スネイプの首を、千切らんばかりに噛み付いている事を。

悲鳴は数秒にも、数分にも感じた。
実際どれくらいの時間が経ったのかは分からない。
やがて悲鳴が止んだ頃、床に重い物が投げ出されたような、ドサリという音が聞こえた。





「残念な事よ。」





吐き捨てるかのように呟いたその声は、ちっとも未練など感じさせない冷たい声音だった。
バサリとマントを翻す衣擦れの音。
躊躇い無く足音は遠ざかっていった。





「ハリー!ナマエ!」





押し殺した声でハーマイオニーが叫んだ。
多分、ヴォルデモートの気配が遠ざかった直後、ハリーと名前が部屋に侵入したからだ。
そして真っ直ぐ、倒れているスネイプの元へ向かった。
首筋から湧き出る血が床に血溜まりを作っていた。

未だ血が湧き出る傷跡に急いで手を載せると、すぐに自身の手の上に温もりを感じた。
直後、向かい側にハリーが姿を現した。
「透明マント」を脱いだのだ。
ハリーはスネイプをじっと見下ろしていた。
スネイプも虚ろな目で、ハリーを見詰めていた。

今にも閉じてしまいそうな瞼に走る、珊瑚礁のように色鮮やかな血管は、瞬く間に色が抜け落ち枯れていく。
元々不健康な青白い肌は更に生気を失い、作り物のような白さに変わっていく。
色を失った薄い唇で、それでも何かを話そうとしている。

声を聞き取ろうと、ハリーは顔を近付けた。
スネイプは残った力でハリーのローブの胸元を掴み、精一杯近くに引き寄せた。





「これを……取れ……これを……取れ……。」





絞り出すように小さく掠れた声だった。
名前の目で視認出来る、湯気のような生気とは明らかに別の───
青味がかった銀色の、気体のような、液体のような物質が、スネイプの口と目と耳から溢れている。
その姿を間近に見て、名前は全身の血の気が引くのを感じた。

どうしたって助ける事は出来ないのか?
誰がどう見たって死に際の姿だ。
傷口を押さえる指の隙間から、徐々に流れ出る血の量が減っていく。
これは傷口を塞げたのだろうか?
それとも、肉体から血が出きってしまっただけ?
手を離して確認がしたい。
けれど傷口がそのままだったら?
スネイプが死ぬ未来は変わらない。

ハリーが震える手で杖を使い、銀色の物質をフラスコへ掬い入れている。
スネイプの死に際の願いを受け入れている。
名前も受け入れなければならないのだろうか。
スネイプの死を。





「僕を……見て……くれ……」





ハリーのローブを掴んでいたスネイプの手が、力無く床へ落ちた。
その音を耳にして名前は、縋るように傷口に手を押し付けた。
湧き上がる絶望を見ないように振り払い、生きる事をただ信じるようにして。

誰も何も言わず、身動ぎ一つしない。
もう死んでいるはずのスネイプに対して縋りつく名前の行為を、誰も咎めない。





「お前達は戦った。」





掠れた冷たい声が耳を擽った。
瞬間、ハリーは立ち上がった。
肩越しに顔を近付け、耳元に唇を寄せ、吐息すら感じさせる距離で、ヴォルデモートの声が聞こえたのだ。
ハリーだけではなく、名前にも、ハーマイオニーにも、ロンにも。
おそらく多くの人々が同じようにして聞いている。





「勇敢に。ヴォルデモート卿は勇敢さを讃える事を知っている。
しかし、お前達は数多くの死傷者を出した。俺様に抵抗し続けるなら、一人また一人と、全員が死ぬ事になる。そのような事は望まぬ。魔法族の血が一滴でも流されるのは、損失であり浪費だ。
ヴォルデモート卿は慈悲深い。俺様は、我が勢力を即時撤退するように命ずる。
一時間やろう。死者の尊厳を以って弔え。傷付いた者の手当てをするのだ。
さて、ハリー・ポッター。俺様は今、直接お前に話す。お前は俺様に立ち向かうどころか、友人達がお前の為に死ぬ事を許した。俺様はこれから一時間、『禁じられた森』で待つ。もし、一時間の後にお前が俺様の許に来なかったらば、降参して出てこなかったならば、戦いを再開する。その時は、俺様自身が戦闘に加わるぞ、ハリー・ポッター。そしてお前を見付け出し、お前を俺様から隠そうとした奴は、男も女も子どもも、最後の一人まで罰してくれよう。
一時間だ。」





演説の声が途絶え、ヴォルデモートの気配は消えた。
辺りに静寂が戻った。





「耳を貸すな。」



「大丈夫よ。
さあ───さあ、城に戻りましょう。あの人が森に行ったのなら、計画を練り直す必要があるわ───。」



『皆は先に行って。』





横たわるスネイプの隣に跪き、首筋を押さえた姿勢のまま、名前は立ち上がった皆を見上げて、抑揚の無い声でそう言った。
三人は黙って名前を見下ろした。

ロンは理解出来ないと言いた気に眉をひそめている。
ハリーは名前の心境に、少し共感出来るような表情を見せた。
ハーマイオニーは一瞬悲しそうに名前を見たが、痛々しくて見るに忍びないという感じで、すぐに視線をトンネルの入口に向けてしまった。





『俺はもう少し此処にいる。』



「分かったわ。……」



「ハーマイオニー、でも、」



「あの人が一時間は何もしないと言ったのよ。少しぐらいナマエが一人でいても、大丈夫よ。行きましょう。
ナマエ、後でね。」



『うん。また後で。』



「なあ、ナマエ、気を付けるんだぞ。」



『うん。ありがとう。』





視界から三人が消えて、足音はトンネルの入口に消えていった。
ハーマイオニーは兎に角、名前が此処に残るという選択に、ハリーとロンは疑問を抱いただろう。
それでも咄嗟にそう言ってしまったのは、諦める事が出来なかったからだろう。
それか、離れる勇気が無かったから。

部屋に一人になると不思議な事に、ネガティブな感情が湧き上がり、胸の中を満たして渦巻いた。
友人達が近くにいたから抱かずに済んだのか。
友人達に悟られまいと取り繕ってしまっていたのか。
分からないが、この瞬間、不安や恐怖が一気に名前へ覆い被さった。

吸魂鬼が近くにいると錯覚する程に、急激に体温が奪われる感覚を覚える。
湧き上がる感情が真綿のように締め付ける。
貼り付いているかのようにスネイプの首筋から手を離せない。
身体の内側で心臓が激しく動いている。
体が凍り付いていているように強張っているのに、自身の意思に反して震えている。

スネイプの顔を見詰める。
直視したくない。
目を逸らしたい。
胸中を満たす渦巻く感情が、作り物のように色も艶めきも失った顔を見る事で、はっきりと言語化されてしまいそうだった。
逃げ出そうとする目を固定する。
唇が震えそうになり、歯を食い縛る。
目を逸らしてはいけない気がした。





『……』





不安。恐怖。絶望。悲しみ。
無力感。罪悪感。自責感。
仄暗い様々な感情が湧き上がる度に。
その感情が胸中を満たす前に。
名前は心の内でスネイプの名前を呼んで、その感情を打ち消した。
心の叫びを聞かないようにした。

名前を呼べば更に無力感や自責の念が強まる気がしたが、それでも呼ばずにはいられなかった。
今この時、他に方法が思い付かなかった。

心の内で名前を呼び掛けたまま、スネイプの顔をじっと見詰める。
うっすらと開かれたまま動かない、虚のように黒い目と合う。
見詰め返されているような錯覚を起こす。
残り香のように僅かに残された生気が、寒さの厳しい冬に見る白い息のように、緩やかに肌の上を漂っている。

いや。
実際───動いているような───。





『……』





息を呑んだ。
視線が合った。

頭の中が真っ白になったまま、瞬きも忘れて、名前はスネイプから目を逸らせなかった。

僅かに唇が動いた。
声にはならなかったが、確かに名前の名前を紡いだ。

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