07.
それから一週間以上が経過した。
その間シリウスは自分の部屋に籠りっぱなしで、風呂や食事など部屋を出なければいけない時は、誰とも顔を合わせないようタイミングをずらしていた。
廊下やリビングで偶々出会した時は一言も声を発さず、目線すら合わせない。
バーベッジやクィレルは勿論、特に名前の事は避けているようだった。
他人のネガティブな感情を苦手としている名前にこの状況は極めて厳しい。
誰かが怒っているなら謝らなければいけない気持ちになるし、悲しんでいるなら慰めなければいけないと思ってしまう。
たとえ名前自身に非が無くても、それが名前の役割ではなくても。
こういった思考は良くないと頭では分かっていても、湧き上がる不安がどうしようもなく感情を揺さぶる。
けれども今回の件に限っては、名前に非がある。
コテージから出ないという約束を破ったのだ。
名前の事を信用しているシリウスの気持ちを裏切ったのだ。
だから謝らなければいけないという感情が非常に強く、名前は何度かシリウスと接触を試みた。
少し時間を置いて、部屋のドアをノックした。
しかし返事は無く、シリウスは出て来なかった。
それからも諦めずに一日置きにドアをノックしたが、やはりドアは開かなかった。
「シリウスが気になるか?」
部屋の掃除をしていると、唐突にムーディがそう聞いた。
名前は本棚の埃を落とす手を止めて、ムーディを見た。
ムーディの隻眼が此方を射抜くように見詰めている。
左目はマグルが使う医療用の眼帯に覆われていたが、ムーディの持つちょっと危険で厳格な雰囲気は少しも失われていなかった。
本当なら足の不自由なムーディの為に歩行用の杖も用意したいのだが、買い物に出掛けるのは名前とシリウスの役割なので、まだ準備が出来ていないのだ。
救急箱の中に眼帯はあったので、それはどうにか出来たのだが。
シリウスの状態がいつまで続くかは分からないが、早くムーディとヘドウィグに必要な物を揃えたいのが本音だ。
『はい。俺がシリウスさんを怒らせてしまいましたから。』
「そう思うか?」
『違うのですか。』
前傾させていた上半身をゆっくりと起こして、ムーディは椅子の背もたれに体を預けた。
鼻から深く息を吐き出す。
「シリウスが怒った理由は何だと思っている?」
『それは、俺が……コテージから出ないという約束を破ったからです。』
「それは確かに謝る理由にはなるな。」
『怒った理由ではないとお考えですか。』
「全く的外れではないだろうが、大半は別の理由が占めている。」
『……
ムーディさんは、シリウスさんの状態が分かるのですか。』
「そこそこはな。付き合いは長くないが、シリウスは正直者で分かりやすい奴だ。本人も自身の性格は良く分かっている。だから今、一人でいる事を選んだのだ。
彼奴が自分から話すまで、接触せずに待ってやれ。無理に言葉を交わしても解決には至らん。」
冷静で鋭い観察眼の持ち主であるムーディにそう諭されて、名前は多少なりとも不安な気持ちが薄まったようだった。
それとも不安な気持ちに耐えて、その言葉が正しいのだろうと自分に言い聞かせたのだろうか。
兎に角、名前はシリウスに構う事をやめた。
やめたというより、普段通りに過ごすように努めた、という所だろうか。
運動、食事、勉強、掃除……。
以前のように日常生活を過ごした。
そうして、リビングで生活用品のチェックをしていた時。
もうすぐ買い物に行かなければいけないというタイミングで頭を悩ませていた頃、背後からシリウスに名前を呼ばれたのだった。
名前を呼んだシリウスは、真っ直ぐ名前の方を見詰めて、「話がしたい」と言った。
名前の心臓は一際大きく脈打つと、それから急激に早鐘を打ち始めた。
シリウスの口からどんな言葉が飛び出してくるか分からないが、それが良いものだとは思えなかったのだろう。
此方を見詰めるシリウスの表情を凝視する。
そこに怒りや侮蔑、悲しみは無いか確かめる。
不安に逆立つ神経を抑え付け、名前はなるべく冷静にシリウスを見詰める。
シリウスの表情は落ち着いたものだった。
真剣な面持ちで、少しだけ憔悴の色が滲んでいて、けれど此方を見詰める瞳は以前と変わっていない。
仲間に向ける、信頼を感じさせる視線だ。
だから名前は少しだけ安堵して、話し合いに応じた。
応じた名前をシリウスは、自身に宛てがわれた自室へと呼んだ。
ドアを開けると先に入るように促され、名前が部屋に入るとすぐにシリウスも室内に入り、ドアが閉められてガチャリと施錠される。
鍵を掛けた事に名前は少々驚いたのか、疑問に思ったのか。
部屋に数歩入ったままの体勢で石像のように固まった。
「適当に座ってくれ。」
固まる名前の隣を通り過ぎ、シリウスはベッドに腰を下ろした。
座ってくれと言われて、名前は固まったまま目だけを動かし座る場所を探す。
壁際に置かれた机と椅子───話すには少し遠いかもしれない。
ではフローリングの床に座る?───ここでは皆、靴を脱いで生活しているから、それは良いかもしれない。
だが傍から見れば説教されているような見てくれだ。
その通りかもしれないし、相応しいのかもしれないが。
座る場所に悩んで動かないでいると、先にベッドに腰を下ろしたシリウスが、自身の隣をポンポンと手で叩いた。
ここへ座れという合図だ。
断る理由は無いので、名前は大人しく隣に腰掛けた。
大の男二人分の体重を支えて、ロング丈のシングルベッドは、少しだけ悲鳴を上げた。
「ここ最近の私の態度は酷いものだっただろう。まずはそれを謝りたくてね。
ナマエ、すまなかった。」
静かに深く息を吸ったかと思うと、シリウスはそう言った。
声音も、此方を見詰める瞳も、穏やかなものだ。
その様子を見て、施錠された事で動揺した心臓が少しだけ静かになる。
『いいえ。此方こそシリウスさんの気持ちも考えず、無理矢理話そうとしてごめんなさい。』
「気にするな、君の行動は真っ当なものだ。戦いの最中で内輪揉めを起こしている場合じゃないからな。力を合わせられるように、和解を求めるのは当たり前の事だ。」
『……』
「ただ、それが出来る人間の方が珍しいんだがな。ホグワーツでも散々見てきたんじゃないか?喧嘩して何週間も口もきかない生徒達を。下手したら一生な。
ナマエ。特に君は若いし、反抗して当然だ。しかしすぐに和解を求めた。確かに現状、和解するのがもっとも適切だ。それが分かっていたのか?」
『……ええと……適切かと言われたら……そうだと思います。その……
仲違いをしたら、なるべく早く仲直りをしたいものではないのですか。
時間が過ぎれば過ぎるほどタイミングを逃してしまいますし、その時間を悩みながら過ごすのは、辛いです……シリウスさんは、違うかもしれませんが、俺はそうです。』
「……
いいや、そうだな……。ナマエ、君の言う通りだ。」
そこで会話が途切れて、部屋がしんと静まり返った。
名前はシリウスの表情や声音など反応に留意して話していたから、この沈黙が何を意味するのか考えた。
話が出来るくらいに冷静になれたとしても、二人の間には未だ溝があるはずだ。
ここで言動を間違えれば溝は更に深まるだろう。
だから慎重にならなければいけない。
今、シリウスは何か考えているのか?
気に障った言葉があったのだろうか?
この沈黙は、相手が口を開くまで待つべきか?
それとも自ら話し掛けるべきか?
シリウスは口を閉じて視線を床に落としている。
少しだけ体を前に傾けて、肘を膝の上に置き、両手の指を軽く組んでいる。
少なくとも怒っているとか、拒絶しているような様子ではない。
むしろそのような気力が無い、滅入っている感じだ。
『シリウスさん。』
考え事なら邪魔をしない方がいいだろうと思いつつも、名前は声を掛けた。
その相反する行動に影響されたのか、名前を呼ぶ声は囁くように小さい。
けれど魔法の霧の効果で一切の物音がしないこの環境下では、囁き声でも十分に室内を満たす。
シリウスは名前を見た。
そのまま黙っていて、名前が話を続けるのを待っているらしかった。
けれども此方を見詰める灰色の瞳は何かを訴えるように揺れている。
『ごめんなさい。』
咄嗟に謝ってしまった。
いや。元々謝る予定ではあったのだが、タイミングというものがある。
しかしシリウスの瞳を見て、やはり傷付けたのだと名前は痛感し、思わず謝罪の言葉が口から出てしまったのだ。
シリウスは僅かに首を傾げた。
「何故ナマエが謝るんだ?」
『俺はシリウスさんとの約束を破って、このコテージを出たからです。』
「……」
『本当にごめんなさい。』
「………………ああ、」
溜め息を吐くように呟いた。
「それで私が不機嫌になったと思っているんだな?」
『……
違うのですか。』
「まあ確かに理由の一つではあるが、大半の理由はそれじゃない。」
『……。』
ムーディの言った通りだ。
名前は少し驚いたのか、目を瞬かせた。
「というよりも、不機嫌ではない。自分の感情に混乱していただけだ。」
『……』
「勘違いさせたようだな。すまなかった。」
『……いいえ。気にしないでください。でも……混乱してしまう切っ掛けを作ったのは俺ですよね。
あの状況の後でそうなってしまったのなら、原因は俺以外に無いでしょう。』
「………………
そうだな。」
自分が原因だと認められてまた少し名前は落ち込んだが、自分は落ち込む立場じゃないだろうと思い直し、すぐにその感情に蓋をする。
それより肯定したシリウスの表情が、いやに複雑な事が気に掛かった。
ムーディとヘドウィグが蘇った日、話し合いをしている時のあの表情。
その時の表情によく似ている。
「確かに原因はナマエ、君だ。だが私自身の問題でもある。あの日……蘇生の話を聞いた日だ。
あの時、私に色んな感情が湧き上がってきたんだ。とても冷静には振る舞えない程にな。」
『……』
「ナマエ、君には色々な制限があるだろう?原則としてコテージを出ない事は勿論、戦いの前線に立つ事も許されない。それを破れば君の身が危ないし、仲間にも危険が及ぶ。それを理解していたからナマエ、君は我々の言葉に応じた。そうだろう?」
『はい。』
「だが私が君の立場だったら、何とかして皆の力になりたいと思う。いくら自分の身が危険に曝されようと、やりようがあるんじゃないかと考える。
君もそう考えたんじゃないか?だから今回の行動に至ったんだろう。」
『……』
「そう縮こまるな、責めてはいない。
私は君の気持ちが良く分かる。私が君だったら、きっと同じように約束を破っていたよ。だが……」
『……』
「だがな……、私はナマエ、君ではない。私は君の友人、シリウスだ。だから複雑なんだよ。
君の行動や意思が何を意味しているのか考えると……複雑な感情が湧き上がってくるんだ。
嬉しくて『良くやった』って褒めたい気持ちもあったし、『そんな事はしなくていい』って心配で怒れてしまう気持ちもあった。……
兎に角、複雑でな。言葉にするのは少し難しい。」
その言葉を聞いて名前は、ムーディとヘドウィグが蘇った日。
話し合いをしたあの日。
シリウスの奇妙な表情を思い出して納得がいった。
努めて冷静を保とうとして無表情になっているようで。
しかし此方を見詰める瞳は、シリウスの胸中を雄弁に物語っていた。
怒り、失望、悲しみ。
けれど何故だか、どこか誇らしげで、そして嫉妬の熱も感じ取れる。
嫉妬……。
シリウスは何に嫉妬したのだろう。
それとも名前の思い違いだろうか?
「ナマエ。騎士団の考えは抜きにして、私個人は君がやった事は良い事だと思う。だがとても危険が伴う。分かるだろう。
もしあの鈴が敵の手に渡って効果が知れたら……君が作ったと分かったら……そうしたら、君は最優先で敵に狙われる。でも君はそんな危険を承知で行動を起こしたんだ。」
『……』
名前は目を泳がせた。
そこまで考えは至っていなかった。
「君が起こした様々な行動を思い返して、それが何を意味するのか考えて、私は胸が締め付けられるような苦しみを感じたんだ。
切ないような、泣きたい気分になるんだよ。……
……
おそらく、……」
『……』
「おそらく、私が自覚しているよりも……ナマエ、君は私にとって大切な存在になっていたんだろう。
勿論、君は友人であり仲間だ。大切に決まっている。だがこの感覚は、ハリーやリーマスとは少し違う……。違う事は分かるんだが、この感情が何なのか、まだよく分からない。正体が掴めない。」
そう言ってシリウスは真っ直ぐ、じっと名前を見詰めた。
名前を見詰める事で答えを探し出そうとしているようだった。
あるいは名前の口から、何かしら解答を引き出そうとしているようにも見える。
しかし、名前はシリウスの抱いている感情が何なのか、全く見当が付かなかった。
有り難い事に、シリウスが自身を大切に思っている事は分かった。
クィレルも名前を大切に思っているようで、心配してくれたり、時には叱ってくれる事もある。
まるで家族のように。
けれどクィレルとシリウスでは、どこか違う。
大切な事に変わりないが、シリウスはハリーやリーマスとは違うと言った。
シリウスにとってハリーは、きっと家族のようなものだろう。
リーマスは親友だ。
では名前は?
友人であり、仲間であり、でもそれ以外の感情がある。
それは一体何だろうか?
「この先の事を考えると気が重くなる。」
不意にシリウスはそう言った。
それまでの思考が声で途切れて、名前はシリウスを見詰め返した。
「戦いの最中だからな、憂鬱なのは当然だ。だが、……
君は身を挺して仲間を守ろうとするだろう。数年前、ハリーとセドリックにしたように。神秘部で私にしたように。……
私も仲間を守る為なら死を選ぶさ。しかしそれは敵に捕えられた時だ。情報を明け渡す事も、スパイになる事も、仲間を売る事も、それは裏切りだ。自分の命と仲間の命を天秤に掛けられたら、私は死を選ぶ。
けれどナマエ、君が仲間を守る時は、いつも自分の身を盾にしている。まるで母親が子どもを守るみたいにな……。」
『……』
「君の行動を見ていると、ハリーの両親の事を思い出してしまうんだ。もしもまた目の前で仲間が危険に曝されたらどうなる?
君は誰かを守る為に咄嗟に身を投げ出してしまうんじゃないか。私も同じ状況ならそうしてしまうかもしれない。
だが、両親を失ったハリーがどんな思いでいるか、君も分かるだろう?私も同じだ。ハリーの両親は、私の大切な友人だった。」
『……』
「ナマエ、君がまた命を落としたらどうなる?鈴の効果は発揮されるのか?君はまた蘇る事が出来るのか?」
『……』
「分からないのか?」
『はい。』
「そうか。それなら、もう少し自分を大事にしてくれ。
……皆の為にもな。
同じ事を繰り返したくはない。大切な人を失うのは、もうこりごりなんだよ。」
そう言ったシリウスの表情は、苦痛に耐え兼ねるように歪んでいた。
どこも怪我はしていないのに、体調が悪いはずもないのに、湧き上がる感情がそうさせたのだ。
シリウスの表情が特別豊かなのか、感情が豊かなのか、思いが強いのか。
分からないが、少なからず名前の心は動揺したようだった。
名前は仲間が大切だけれど、仲間の誰かがこれほど強くハッキリと、名前の事を大切だと訴えた事は無かったからだ。
元々父親が元死喰い人で名前は命が狙われていた。
そこに予知の能力が加わって、名前は護衛が付いて今や箱入り状態だ。
色々な人に面倒を掛けていると思っていた。
しかし、もしかしたら……。
自分が思っているより、仲間に大切に思われているのかもしれない。
これが自惚れでなければ……。
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