05.-2


『……。』





悪夢のような移動は一瞬だ。
山の麓に降り立ち、名前は用心の為に周囲を見回す。
頭上を覆う豊かな葉。
斜面に逆らうように生えた木々。
何年も放置されて重なった、膝下まである落ち葉。
誰もいない。そうでなければいけない。

懐から提灯を取り出して開き、火を点す。
クルクルと回り始めて、やがてピタリと止まる。
辺りにうっすら漂う霧を尻目に、名前はコテージに向けて歩き始めた。

裸足で落ち葉を掻き分け、湿った温い地面に着地する。
時折、尖った石や鋭い枝が肌を裂き、何度も痛みを感じたけれど、歩くスピードは変わらなかった。
不安だった。
ついさっきまでハリー達の事で頭の中がいっぱいだったのに、今はクィレル達の事に意識が傾いている。





『……。』





歩きながら素早く腕時計を確認する。
見間違えてなければ、コテージを抜け出してからそろそろ三十分が経とうとしていた。
「夢日記を書く」と言い残して寝室に閉じこもったから、用事が無ければ誰も寝室に来ないし、名前の脱走は気付かれないだろう。
用事と言えばシリウスを迎えに行く為に使う提灯を取りに来る事くらいのはずだが、約束の時間はまだ先だ。
だからきっと、名前の脱走に気付いていない。

思考を巡らせて、自身を安心させる為に結論を出した。
けれど胸が早鐘を撞くように高鳴っている。
耳の中でドクドクと心臓の音が響いている。
山の斜面を登っているという理由だけではない。
不安を拭い去れなかったからだ。





『……。』





霧の中にうっすらと影が見えた。
コテージに着いたのだ。
立ち止まり、周囲に目を走らせ、耳を澄ませる。
霧の中に動くものはない。物音もしない。
どうやらコテージの外に人はいないようだ。

しかし名前は念の為に身を屈めてから、這うように寝室の方向へ進んだ。
抜け出す時に通った窓に辿り着くと、窓の下の壁に背中を預けて座り込み、息を整える。
不安で目眩がしてきた。
名前は目を閉じて唾液を飲み込んだ。
けれど口の中はカラカラだった。

いつまでも「誰も気付いていない」事を祈ってはいられない。
壁から背中を離して身を翻し、窓の方向へ体を向ける。
そろりと手を伸ばし、枠に指を掛ける。
今度はゆっくり首を伸ばして、窓から室内を覗き込む。





『……。』





反射的に頭を下げかけた。
室内に人がいたからだ。
けれど相手は此方に背中を向けてベッドに腰掛けていたので、完全に頭を下げずに済んだ。

ベッドに腰掛けているのはクィレルだ。
背中を丸めてガックリと項垂れている。

名前の脱走は完璧とはいかなかった。
クィレルに気付かれたのだ。
どんな思いで、いつからああしているのだろう?





『……。』




ピクリとも動かないクィレルの背中を見詰めたまま、名前は掴んだ枠から片手を離した。
手の甲を窓に向けて拳を握り、控え目に、けれど思い切ってノックをする。

クィレルはすぐに振り向いた。
包帯でぐるぐる巻きになった顔から感情を読み取るのは難しい。
包帯の隙間から覗く金泥色の瞳が、瞬きもせずに名前を見詰めている。

数秒間お互い見詰め合ったまま動かない。
脱走が見付かった以上、名前は言い逃れが出来ないし、自分が本物の名前であるとか操られていないとか、証明が難しい。
無闇に動くと杖を向けられかねない。
出方を見る時だ。





『……。』





それから数分も経たないうちに、クィレルは名前に向かって手招きをした。
名前は窓に手を掛ける。
鍵は掛けていないらしい、窓は難無く開いた。

音を立てないように窓を開けて、体を滑り込ませる。
開けた時と同じように、静かに窓を閉めて、しっかりと鍵を掛けた。
そしていよいよクィレルに向き直る。

クィレルはじっと名前を見詰めている。
怒られるとか、質問攻めになるとか、兎に角何か話し掛けられるだろうと、名前は思っていた。
けれどクィレルは何も言わなかった。

寝室はしんと静まり返っている。
しかし空気は張り詰めていて、少しでも刺激をしたら破裂してしまいそうな緊張感が漂っていた。





「……。」





サッと、音も無くクィレルは立ち上がった。
両手をだらりと下げたまま、ゆっくりと此方ヘ近付いてくる。
ギシリ、ギシリ。
床が軋む。
そうしてついに、目の前にクィレルが立った。

クィレルは真っ直ぐ名前を見詰めている。
名前はクィレルの目を見詰め返したが、どうしていいか分からず、目が泳いだ。
しかしどこを見ても眼下にあるクィレルの顔が視界に入ってくるので、逃れる事は出来ない。

不安がこみ上げてきて脈が速くなる。
動けないでいる名前を、クィレルが抱き締めた。





「無事で良かった。」





心底安心した声だった。
背中に回された手は、服の上から熱を確かめるようで、しっかりと力強い。

こんな事が以前にもあった。
神秘部から戻って校長室で再会した時も、同じ言葉を名前に掛けて、同じように抱き締めた。

あの時は抱き締め返していただろうか。
今は抱き締め返していいのだろうか。
約束を破って、信頼を裏切り、とても心配を掛けたのに。





『ごめんなさい。』





後悔はしていない。今のところは、だけれど。
だけど、クィレルには名前が脱走する事を、話しても良かったかもしれない。

クィレルは名前を信じて、ムーディとヘドウィグの遺体を隠すという秘密を、共有している。
それだけ名前の事を信じているのだから、名前もクィレルを信頼している事を、言葉にしろ行動にしろ、何らかの形にして伝えた方が良かったかもしれない。

クィレルはゆっくり体を離す。
離すと言っても、まだまだ距離は近い。
見上げる金泥色の瞳が名前を射抜く。





「ポッターに会いに行ったのでしょう。」



『……』



「君がいつも使っている机の上に置いてあるはずの、夢日記が無くなっていました。私達が読めるように、英語で清書された夢日記がね。
だから君が寝室にいない理由はすぐに分かりました。君が夢日記を持って出掛けるなら、予知を有効利用してくれる人……つまり最前線にいる友人だと。
ポッターに見せたのですか?」



『……いいえ……。
渡しました。』



「そうですか……。」
クィレルは深く溜め息を吐いた。
「それなら、急いでもう一つ英語版の夢日記を書いた方が良いでしょうね。
夢日記が無い事に、すぐに他の二人は気が付かないでしょうけれど、いずれ気が付きます。
本当の事を話すわけにもいきませんし、紛失したなんて言えばコテージ中を引っ繰り返すでしょうし、もう一つ書いてしまうのが一番です。」



『はい。それは、仰る通りです。』





目を使い、耳を使い。
名前はクィレルを観察していた。
怒涛のように言葉を浴びせ掛けられると思いきや、クィレルは冷静に思案して、そう名前に提案した。
言外に名前のやった事を秘密にすると仄めかしているのだ。





『良いのですか。』



「何がです。」



『俺の予知は大人達だけのものではなくなりました。
何が起きるか分かっていて、どういう選択をするかはハリー達が判断するのです。』



「それでもミョウジ、君は彼らを信じて託したのでしょう。」



『はい。……』



「それに彼らがこれまでやり遂げた事を思い返せば、彼らの選択は信じるに値します。
勿論、ミョウジ。君も含めてです。」



『……、』





口を開きかけて、すぐに閉じた。
上下の歯をしっかり噛んで、唇を真一文字に引き締める。
言葉を飲み込み、それ以上出て来ないように、厳重に扉を閉めたのだ。

クィレルの言葉は本心だろう。
信頼されている事に喜ぶところだ。
けれど名前は心から喜びを感じられなかった。

消極的で暗い考えが滲み出て、口を衝いて出そうになったのは、自分もクィレルの思いも否定する言葉だった。
そんな事をクィレルに言っても、気を遣わせたり困らせたりするだけだと分かっている。
だから口を閉じた。
そして別の話題を探した。





「言ってください、ミョウジ。君の本心を。
それとも言いたくない事ですか?」





名前は内心ギクリとした。
思わずクィレルを見詰める。
包帯に隠された顔からは、やはり感情が読み取りにくい。
まあ第三者から見れば、名前も負けず劣らず、感情が読み取りにくい無表情だが。





「何か言いたそうに見えましたよ。」



『……そう見えましたか。』



「はい。」



『……。』





自分の行動を思い返してみる。
口を閉じたのも、黙ったのも、ほんの数秒間の出来事だったはずだ。
それもあからさまにせず、なるべく自然にやった。……はずだ。

しかし、クィレルは名前が意図的に黙った事に気が付いた。
生来の観察眼か、それとも一緒に生活する事で培われた勘のようなものだろうか。





『あの、……大した事ではありません。』



「大した事でないのなら、話せますね?」



『……でもクィレルさん、シリウスさんを迎えに行く約束がありますから、大した話でもないのにお時間を割いていただくのは申し訳ないです。』



「確かに腰を据えて話すには時間が足りませんね。
しかし君が今すぐ話を切り出してくれるのなら、時間は十分あると思いますよ。」



『……。』





クィレルの両手はがっしりと名前の両腕を掴み、包帯の隙間から覗く瞳は名前の目を捉えて離さない。
有耶無耶にしておく事は出来ないのだろう。
名前は腹を括って、静かに息を吐いた。




『すみません。クィレルさんの仰った言葉が、少し引っ掛かったのです。』



「いつの言葉です?」



『ついさっきの、クィレルさんがハリー達や俺の事を、信用してくださっているという言葉です。』



「何か不快な気持ちにさせてしまいましたか?」



『いいえ。有り難かったです。でも……俺には身に余るというか……』



「そうでしょうか。」



『はい。……俺は何も成し遂げていません。俺一人で成し遂げた事は無いのです。
いつも誰かに助けられてきました。皆の協力があってどうにか出来た事なのに、その中から俺が持ち上げられるのは、何というか……変な感じがするのです。
それに俺が何かやると、その分誰かにしわ寄せがいきます。何もしない方が良かったのではないかという事もあります。』



「……」



『ですから、……申し訳なくて、……自分には不釣り合いな信用だと思ってしまうのです。
すみません、上手く言葉に出来なくて。まだ向き合えていないのです。自分の内に留めて置く、個人的な……気持ちや考えだと判断していて、後回しにしていたのです。
誰かに話す機会は早々無いと思っていて……必要なら打ち明けますが……そういった機会は、自分からは作る気がありませんでした。』



「……
ミョウジ、少し前にも言いましたが……」





両腕を掴むクィレルの手が緩み、するすると下に落ちていく。
やがてその手は名前の両手を優しく握った。
名前よりも高いクィレルの体温が、包帯越しでも伝わってくる。
クィレルの体温がぬるま湯のように、じわじわと名前の体温に染み込んでくる。





「完璧な人間はいません。皆、誰かに助けられて生きているのです。たとえ君が大人であっても、沢山の能力を持った器用な人物であっても、全ての事柄を一人で背負うなんて出来るはずがないのです。
誰かに助けられたからと言って、後ろめたさに思い詰める事はありませんし、君が何も価値の無い人間のように感じる必要は無いのです。」



『……』



「それに君には、成し遂げた事がありますよ。」



『……そうでしょうか。』



「まさか、忘れてしまったのですか?
君は私の命を救った。そうでしょう?」



『それは……、いいえ。救ってくれたのはダンブルドア校長先生ですよ。』



「いいや、君だ。
あの時ポッターの手を引き剥がしたのは君だ。だから私は死ななかった。
私を助けたのも、生かしたのも君だ。」



『……』



「自分を閉じ込めていたぶるような真似はしないでください。君の謙虚な姿勢は美点だと思いますが、自分を貶めるのはやり過ぎです。
思った事は遠慮せずに話してください。世間話でも何でも。そうしたら君が自分を追い詰めている時は、すぐに気付けますから。」





向けられた声も視線も真剣そのものだ。
名前の個人的な悩みは、予想を反して重く受け止められたらしい。
ちょっと思い返せば気付く事だが、クィレルは話を茶化さないし、名前に対して常に真摯な態度だ。

安易に話して良い事だったのか、余計な心配を掛けてしまったのではないか、時間を割いてまで話す内容だったのか。
頭の中に疑問が浮かび、色々な事に対して申し訳なさが込み上げてくる。
真っ直ぐな視線に耐え切れず、名前はついに目を伏せた。

するとクィレルはパッと手を離して、杖を抜く速さで素早く名前の頬を包み込んで、突然の出来事に驚く名前と視線を無理矢理合わせた。
間近にある金泥色の瞳は、今は人の目なのに、猛禽類の如く鋭さを感じる。





「いいですね。」



『……はい。』



「それでは、私はブラックの迎えに行きます。
ミョウジ、君はまず……外を裸足で歩いたでしょう?ですから足を洗って、それから夢日記を書いてください。」



『分かりました……。』





圧に押されて言われるままに返事をした。
クィレルはパッと頬から手を離し、肩を優しく叩いて、行動を促すように背中を押す。

張り詰めた空気から突然解放されて、名前は暫し呆然となった。
パチパチと瞬きをする。
それから言われた通り足を洗う為、大人しく浴室へ向かった。

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