18.-3
「モリー───アーサー───」
急いでマクゴナガルが立ち上がった。
「お気の毒です───。」
「ビル。」
真っ直ぐにベッドに横たわる男の姿を見詰めるモリーには、マクゴナガルの声が聞こえていないようだった。
そうだ。惨たらしく引き裂かれた傷のせいで面影は無いが、枕に広がる長い赤毛は、以前会った時に見たビルの特徴だ。
「ああ、ビル!」
まるで悲鳴のような呼び掛けだった。
ルーピンとトンクスがベッドから離れて、モリーとアーサーが近寄れるように配慮した。
モリーは気を失ったままのビルの顔を覗き込み、血で汚れた額にキスをした。
「息子はグレイバックに襲われたと仰いましたかね?」
アーサーは心配と不安と混乱が入り混じった表情でマクゴナガルに尋ねた。
「しかし、変身してはいなかったのですね?すると、どういう事なのでしょう?ビルはどうなりますか?」
「まだ分からないのです。」
マクゴナガルは答えを求めるようにルーピンを見た。
「アーサー、恐らく、何らかの汚染はあるだろう。
珍しいケースだ。恐らく例が無い……ビルが目を覚ました時、どういう行動に出るかは分からない……。」
モリーはマダム・ポンフリーから軟膏を受け取って、一心不乱にビルの傷に塗り始めた。
傷口から滲み続ける赤色の血と、何層にも塗り重ねられる緑色の軟膏が混ざり合い、茶色に変わる。
「そして、ダンブルドアは……」
アーサーがマクゴナガルに尋ねた。
胸が締め付けられるのを感じ、名前は拳を握る。
「ミネルバ、本当かね……ダンブルドアは本当に……?」
マクゴナガルは黙って、頷いて答える。
言葉を失って、アーサーの顔は青ざめた。
皆が信頼を寄せ、慕っていたダンブルドア。
その存在を失くすなんてあってはならない。
どうにか出来るのは名前だけだ。
それなのに名前の体は、釘でも打たれているかのようにその場から動けない。
行動しようにも、急にこの場から立ち去るのも怪しすぎる。
もしもダンブルドアの側へ行けたとしても、あの遺体を目の前にして、死を覆す事が出来るのか。
何も変わらないのではないかという思いが頭をもたげ、想像するだけで恐怖が背中を這い上がった。
「ダンブルドアが逝ってしまった。」
小さな声でアーサーが言った。
絶望する様子を見て、実際にはそうではないのに、名前は責立てられているように感じた。
モリーの啜り泣く声が聞こえる。
ビルを見詰めて、その顔に涙を滴らせている。
「勿論、どんな顔になったって構わないわ……そんな事は……どうでもいい事だわ……でもこの子はとってもかわいい、ちっ───ちっちゃな男の子だった……いつでもとってもハンサムだった……それに、もうすぐ結───結婚するはずだったのに!」
「それ、どーいう意味でーすか?」
今まで呆然とビルを見詰めていたフラーが、怒ったように大きな声を出した。
「どーいう意味でーすか?このいとが結婚するあーずだった?」
モリーは驚いて顔を上げた。
「でも───ただ───」
「ビルがもう、私と結婚したくなーいと思うのでーすか?
こんな噛み傷のせーいで、このいとがもう、私を愛さなーいと思いまーすか?」
「いいえ、そういう事ではなくて───」
「だって、このいとは、私を愛しまーす!
狼人間なんかが、ビルに、私を愛する事をやめさせられませーん!」
「まあ、ええ、きっとそうでしょう。
でも、もしかしたら───もうこんな───この子がこんな───」
「私が、このいとと結婚したくなーいだろうと思ったのでーすか?それとも、もしかして、そうなっておしいと思いまーしたか?
このいとがどんな顔でも、私が気にしまーすか?私だけで十分ふーたりぶん美しいと思いまーす!傷痕は、私のアズバンドが勇敢だという印でーす!
それに、それは私がやりまーす!」
ツカツカと歩み寄って、フラーはモリーから軟膏を奪い取った。
それから遠慮なく押し退けて、フラーが熱心に軟膏を塗り始める。
押し退けられたモリーはアーサーに凭れかかって、じっとフラーを見詰めていた。
再び沈黙がのしかかってきた。
傷に軟膏を塗り込むフラーを、皆が見詰めていた。
「大叔母のミュリエルが───」
黙ってフラーを見詰めていたモリーが、暫くして口を開いた。
「とても美しいティアラを持っているわ───ゴブリン製よ───あなたの結婚式に貸していただけるように、大叔母を説得出来ると思うわ。大叔母はビルが大好きなの。
それにあのティアラは、あなたの髪にとても似合うと思いますよ。」
「ありがとう。
それは、きーっと、美しいでしょう。」
そして、動き出したのはフラーとモリー、どちらからだっただろう。
二人は抱き合って、ワッと泣き出した。
ダンブルドアを失った悲しみか。
ビルが狼人間に傷付けられた悲しみか。
変わらぬ愛情を持ったモリーとフラーが、互いに希望を見出したからか。
涙の理由を、複雑な感情を、名前は汲み取る事が出来なかった。
それはハリーも同じなようで、答えを求めて皆の顔を見比べている。
ロンもジニーもハーマイオニーも、一体どうしてこうなったのか、よく分かっていないようだ。
「分かったでしょう!」
突然、トンクスが大きな声を出した。
見ると、ルーピンを睨み付けている。
「フラーはそれでもビルと結婚したいのよ。噛まれたというのに!そんな事はどうでもいいのよ!」
「次元が違う。」
ルーピンの表情は奇妙に強張っていた。
どうして突然トンクスがルーピンに食って掛かったのか分からなかった。
でもトンクスの口振りからすると、この事は今初めてする口論では無いらしい。
「ビルは完全な狼人間にはならない。事情が全く───」
「でも、私も気にしないわ。気にしないわ!」
トンクスはルーピンの胸ぐらを掴んだ。
睨むようにルーピンを見詰めている。
「百万回も、あなたにそう言ったのに……。」
トンクスはルーピンに、狼人間でも気にしないと何回も言っているらしい。
一体何を理由に?……
───フラーはそれでもビルと結婚したいのよ。噛まれたというのに!そんな事はどうでもいいのよ!───
もしかして、トンクスはルーピンが好きなのだろうか。
結婚を迫る程に。
フラーとビルに自分達を重ねて、ルーピンを説得しようとしているのだろうか。
『(ルーピンさん、結婚……)』
何だか最近聞いたフレーズだ。
どこだったか。誰だったか。
名前の頭の中で再生されたのは、ヴォルデモートの冷たい声だった。
───ベラトリックス、お前の姪の事だ。ルシウス、ナルシッサ、お前達の姪でもある。先頃その姪は、狼男のリーマス・ルーピンと結婚したな。さぞ鼻が高かろう。───
姪はトンクスの事で、二人は近い将来結婚する?
そうだとしたら、二人は「枝落とし」として殺されてしまう。
「私も、君に百万回も言った。
私は君にとって、歳を取りすぎているし、貧乏すぎる……危険すぎる……。」
断る理由の中に、ルーピン自身の気持ちは入っていない。
きっとルーピンもトンクスの事が好きなのだろう。
予知が本当になるなら、二人は結婚を選ぶのだから。
そしてその選択がヴォルデモートの目に止まり、二人の命を危険に曝す事となる。
けれど、どうやって危険を知らせる?
ヴォルデモートが言った事をそのまま伝えれば、ルーピンはそれを断る理由に加えるだろう。
そしてルーピンもトンクスも、二人の幸せは手に入らなくなる。
「リーマス、あなたのそういう考えは馬鹿げているって、私は最初からそう言ってますよ。」
モリーがフラーの背中を優しく叩きながらそう言った。
「馬鹿げてはいない。
トンクスには、誰か若くて健全な人が相応しい。」
「でも、トンクスは君がいいんだ。
それに、結局のところ、リーマス、若くて健全な男が、ずっとそのままだとは限らんよ。」
「リーマス、お前の事情とやらを気にして、私が友人である事をやめたと思うか?反対の立場になって考えてみろ。諦められると思うのか?」
「今は……そんな事を話す時じゃない。」
ルーピンは皆の視線を避けて床を見た。
「ダンブルドアが死んだんだ……。」
「世の中に、少し愛が増えたと知ったら、ダンブルドアは誰よりもお喜びになったでしょう。」
マクゴナガルがそう言うのと殆ど同時に、医務室の扉が開かれた。
見ると、そこにはハグリッドの姿があった。
薄暗くてよく見えないが、あの巨大なシルエットはハグリッドだけだろう。
「す……すませました、先生。」
しゃくりあげながらハグリッドが言った。
済ませた?
名前はドキリとした。
きっとダンブルドアの事だ。
「俺が、は───運びました。スプラウト先生は子ども達をベッドに戻しました。フリットウィック先生は横になっちょりますが、すーぐ良くなるっちゅうとります。スラグホーン先生は、魔法省に連絡したと言っちょります。」
「有難う、ハグリッド。」
マクゴナガルはいつものキビキビした動作で立ち上がり、皆の顔を見回した。
「私は、魔法省が到着した時に、お迎えしなければなりません。ハグリッド、寮監の先生方に───スリザリンはスラグホーンが代表すればよいでしょう───直ちに私の事務所に集まるようにと知らせてください。あなたも来てください。」
ハグリッドは声を詰まらせ、黙って頷き、踵を返して医務室から出て行った。
それを見送ってからマクゴナガルは、ハリーに向き直った。
「寮監達に会う前に、ハリー、あなたとちょっとお話があります。一緒に来てください……。」
ハリーは名前達友人に向けて「あとでね」と言うと、マクゴナガルの後をついて医務室から出て行った。
扉が閉まると静寂が戻り、遠くから美しい鳴き声だけが聞こえてくる。
皆の顔を見回すと、誰も彼も、少し俯いて固く口を閉ざしていた。
今起きた事と、これから先の事を考えて悩んでいるのだろう。
そんな中で口を開くのは勇気がいるが、名前は自分の身に起きた事を伝えなければならない。
『あの……、』
遠慮がちに声を掛けると、皆が一斉に名前を見た。
その視線に気圧されそうになる。
だが今更後には引けないし、そうするわけにもいかない。
一拍置いて名前は再び口を開いた。
『少し話をしても構いませんか。さっき俺が言いかけた事です。』
「勿論、構わない。」
ルーピンが答え、皆もそれぞれ頷く。
唇を真一文字に引き結び、名前は一瞬、何から話すべきかと考えを巡らせる。
『ダンブルドア校長先生が危機に瀕している時、俺は多分───予知夢を見ていたんです。』
多分───と、予防線を張ったのは、それが現実に起こる事だと確証が持てなかったからだ。
それからゆっくりと、話の内容を思い出しながら、順を追って話した。
ヴォルデモートと死喰い人達が集って話していた事をを、なるべく詳細に。
ハリーを移動する事。
スクリムジョールが倒されそうになっている事を。
ヴォルデモートがルシウスの杖を持った事。……
『それから……、』
ルーピンの結婚の事───。
『純血のみの世にする為、枝落としが必要だと……』
はっきりとは言えなかった。
はっきり言ってしまえば、ルーピンは結婚を選ばないだろう。
トンクスとルーピンの仲を引き裂く事は出来ない。
しかしこんな事はわざわざ言わなくても皆知っていただろうと、言ってしまってから名前は思った。
それからチャリティ・バーベッジが殺害される事。
バーベッジを安全な所へ連れて行った事。
それらの事を伝え、話を締め括った。
「分かった。此方で対処の仕方を考えよう。
しかし、ナマエ。バーベッジをどこへ連れて行ったんだ?」
『ええと……
……』
シリウスから投げかけられた疑問に答えようとして、名前は思い止まった。
日本のコテージに行った手段は話せても、ホグワーツに帰った手段は話せない。
だってクィレルに「姿くらまし」で帰してもらったからだ。
ネスが「動物もどき」の姿をしたクィレルだと、ロンとハーマイオニー、ジニーにバレてしまう。
その事実を彼らに受け止められる余裕があるだろうか。
彼らはクィレルを許すだろうか。
「まあ、細かい話は後で聞こう。安全な場所にいるならひとまず安心だ。
今はこれからの話をしなければならない。」
「これからの話って?」
「ホグワーツの事だ。」
口籠る名前を見て何かを察したのだろうか。
ルーピンが話を逸らし、ロンが乗ってくれたおかげで、名前は追及の手を免れた。
ホッと安堵の息を吐き、ルーピンの話を聞く。
「恐らくホグワーツは閉鎖され、生徒は家に帰されるだろう。早ければ明日にでも。」
「でも、ダンブルドアの葬儀があるわ。」
ジニーが素早く言った。
「先生方や魔法省が許せば、君達生徒も参列出来るだろう。」
それからルーピンは、名前達子どもらに向かって、談話室へ戻るよう促した。
これからの話は大人に任せて欲しいと言って。
ロン達はその言葉に納得出来ないようだったが、名前が素直に言葉に従った為、渋々皆で医務室を出た。
廊下は人気が無く、四人の間に会話も無く、静かに歩を進める。
辿り着いた談話室は一変して、人で混み合っていた。
四人が入るとお喋りをやめて、じっと此方を見詰めてくる。
詮索される事を嫌ってか、ロンもハーマイオニーもジニーも、立ち止まらずにそれぞれの寝室へ向かった。
名前もそうした。
話せる事は何もないからだ。
寝室はロンと名前の二人っきりだった。
ハリーはまだマクゴナガルの所にいるらしい。
二人はそれぞれにあてがわれたベッドに腰掛け、ハリーを待った。
寝室の扉越しに、談話室から話し声が聞こえてくる。
「予知夢を見たって言ってたけど。」
ポツリとロンが言った。
見るとロンは、組んだ自身の手を見下ろしていた。
「それって、眠ってたって事?」
『……
そうなるだろうな。』
神秘部でシリウスを助けようとした時は、何も見なかった。
ただ予感がして、その予感が気持ちを急き立てて行動させた。
だが今回は違う。
ダンブルドアが殺される所も、ヴォルデモートと死喰い人が集まる所も、実際に居合わせたかのように見たのだ。
以前、セドリックが殺される所を夢で見たように。
『眠たくはなかったし、眠ろうとも思わなかったけれど、いつの間にか意識が無くなっていたんだろう。
気付いたら夢を見ていた。覚めようとしたけど、駄目だった。』
急激に視界を奪われ、音を奪われ、現実は遠ざかっていった。
代わりに現れたのは、ダンブルドアいわく、世界中の生物の無意識で構成された想像の未来。
何故そんな事が起きたのかは分からない。
そして、教えてくれる者もいないだろう。
「君そんな状態で、よく奴らに殺されなかったな。天文台にいたんだろ?」
『多分、偶々気付かれなかったんだ。それに、ダンブルドア校長先生の指示で隠れていたのも、生き残った理由だろう。』
「もし、指示を無視していたら……、」
『きっと、ここにはいない。』
寝室の扉が開かれて、名前とロンはそちらを見た。
ハリーだった。
ハリーは二人の存在を確かめると扉を閉めて、自分のベッドの方へ歩いていった。
深く腰掛け、名前とロン、二人の顔を見比べる。
『ハリー。マクゴナガル先生と何を話したんだ。』
「学校の閉鎖の事を話しているんだ。」
「ルーピンがそうだろうって言ってた。」
会話が途切れて、暫く沈黙が続いた。
再び口を開いたのはロンだった。
「それで?」
談話室にいる生徒達に聞こえるはずもないのに、ロンは声を潜めて聞いた。
「見付けたのか?手に入れたのか?あれを───分霊箱を?」
その答えに、ハリーは首を左右に振った。
ロンはガックリと肩を落とした。
「手に入れなかった?
そこには無かったのか?」
「いや。
誰かに盗られた後で、代わりに偽物が置いてあった。」
「もう盗られてた?」
ハリーはポケットに手を突っ込み取り出すと、手元で開く動作をしてから、それをロンに手渡した。
蝋燭の灯りに照らされたそれは、金色に光っていた。
何か小さなものだ。
そこから折り畳まれた羊皮紙を引き抜き、広げて、ロンは目を通した。
「R・A・B。
でも、誰なんだ?」
「さあ。」
ロンの手から名前の手に、ハリーから受け取ったものが手渡される。
金色のロケットだ。
広げられたままの羊皮紙に目を通す。
───闇の帝王へ
あなたがこれを読む頃には、私はとうに死んでいるでしょう。
しかし、私があなたの秘密を発見した事を知って欲しいのです。
本当の分霊箱は私が盗みました。出来るだけ早く破壊するつもりです。
死に直面する私が望むのは、あなたが手強い相手に見えたその時に、もう一度死ぬべき存在となる事です。
R・A・B───
名前は何度か読み返したが、何度読み返してもR・A・Bの名前に心当たりは無かった。
羊皮紙を折り畳み、ロケットにしまって、名前はいつの間にか寝転がったハリーへと返した。
ハリーはロケットを受け取ってポケットにしまうと、ぼんやりと天井を見詰める。
その様子に、何だか会話をする事も憚れて、名前は自分のベッドへ戻って、そこから窓の外を眺めた。
寝室はしんと静まり返り、談話室にいる人々の話し声だけが、微かに聞こえてくる。
どこからともなく響く美しい鳴き声は、いつの間にか止まっていた。
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