28.


シャワシャワだのジーワジーワだの。
山の中からは蝉達の大合唱が聞こえてくる。
そんな山の前に立ち尽くす名前は、やる気を出すようにリュックサックを担ぎ直した。















山の中へ一歩踏み出せば、そこに道らしい道は無い。
斜面には落ち葉と腰まで伸びた雑草が生い茂り、とても人の手が行き届いた道ではない。
それでもいそいそと歩を進めたのは、そもそもこの山を誰が管理しているか分からなかったからである。
見付かれば絶対に怒られるだろう。





『クィレルさん、大丈夫ですか。』



「ええ。」





しかもクィレルが同伴である。
人目の無い山中とはいえ、クィレルの体はまだ汗腺の機能が再生しておらず、体温調節が出来ない。
そんなクィレルが夏の山登りなど無謀な行為だ。
だから時折熱を計って、休み休み進み、あまりに危険であればネスの姿になって名前の肩に居座るという事になっている。
初めからネスの姿でないのは、クィレルが負担になりたくないと考えていたからだ。
それでも付いてきたのは勿論、名前に危険が及ばないようにする為だった。





「この先に一体何があるのでしょう?」





山の管理人にこっぴどく怒られる危険性も(怒られるだけならまだ良いが訴えられたら終わりである)、クィレルの体の危険性も、分かっているのに日本へ戻って早々クソ暑い中山登りをしているのには、当然それだけの理由があった。
ヴォルデモートとの戦いに備えて、一体何をすればいいのか。
ダンブルドアとの約束を叶える為には、一体何をすればいいのか。
考えていた名前の脳裏で、父親が残した手記に、行き先不明な住所が記されてあった事を思い出したのだ。
名前はメモしていた住所を地図で調べた。
それがこの山の中だったのである。





『分かりません。』





住所以外は何も記されていない。
それも最後の方に走り書きされた住所だ。





『何も無いかもしれません。』





もしかしたら戦いに備えられる何かがあるかもしれないし、考えたくはないが何も無いかもしれない。
期待と不安がじわじわと胸を蝕む。
自然と歩くスピードが速くなった。





「ちょっと待ってください……。」





後ろの方からちょっとした悲鳴が上がった。
振り返ると大分離れている。
名前は慌てて戻り、クィレルに謝った。





『少し休みましょう。』



「すみません。」



『此方こそ、気付かなくてすみませんでした。』





名前はリュックサックの中から折り畳みチェアを引きずり出し、雑草の短い場所を選んでそれを置くと、そこにクィレルを座らせた。
更に保冷バッグから保冷剤を取り出し、タオルに巻いて手渡す。





『熱を計りましょう。』



「大丈夫ですよ。」



『計りましょう。』





お互いに頑固だったが、勝ったのは名前だ。
体温計を手渡して計らせた。
西洋人と東洋人、基礎体温の差はあるが、どう見てもクィレルの体温は高かった。





「少し休めば大丈夫ですよ。」





開きかけた口を名前は閉じた。
動物もどきになる事を勧めようとして、先を越されたのだ。
今度は名前が負けた。
リュックサックから二人分の飲み物を取り出し、一つはクィレルに渡す。もう一つは自分で飲んだ。
休む二人を藪蚊が容赦無く襲い掛かってくる。





「ミョウジ、聞いてもいいですか。」



『何でしょう。』



「君は去年から、お守りを作り始めて───」





クィレルはプンプン襲い掛かってくる藪蚊を手で払った。
それでも蚊は強い。構わず何度も襲い掛かってくる。





「他者に手渡し、今度は山に何かあると言う。
以前から積極的に戦いの備えをしていたようですが、自分自身が立ち向かうと考えているのですか。」



『……その可能性もあると考えています。俺はハリーほどじゃなくても、狙われているようですから。』



「もっと大人達の力を信じてもいいのでは。」



『信じています。』





名前は頬に止まった蚊をパンと叩いた。
外れた。血を吸った蚊が体を重たそうに飛んでいく。





『だけど出来るだけ自分の身は自分で守りたいのです。』





少し経った後二人は登山を再開した。
落ち葉が敷かれた傾斜のきつい斜面を登っていくのは至難の業だった。
名前は普段のトレーニングで体力があったし、足腰も鍛えられていたが、それでも何度か足を取られた。
悲惨なのはクィレルで、落ち葉に何度も足を取られ、蚊やヒルに血を吸われ、木々の根っこに躓いて転び、その上背後の木にぶつかりかけた。
(すんでのところで名前が捕まえた)
何度も休憩しては山を登り続けて。
もうボロボロである。





『この辺りで休憩しましょう。』





比較的平坦な地面に辿り着いて、名前はそう言った。
クィレルは息も絶え絶えだった。
リュックサックから折り畳み椅子を引きずり出し、そこにクィレルを座らせる。
体温計を握らせ、自分はリュックサックを漁った。
中から地図帳と方位磁石を取り出す。





『地図上で住所を確認した時はこの辺りでした。』





クィレルの隣に屈み、地図帳が見えるようにする。
名前は首筋にいくつも汗の筋を伝わらせ、地図上の一点を指差した。





『きっともう少しです。』





クィレルは頷いた。返事をする元気が無いのだ。
長めの休憩を取ってから二人は再び歩き始める。
蝉の鳴き声が耳鳴りのように耳につく。
時折声を掛け合いながら上へ上へと歩いていく。





『クィレルさん、あれ……』



「……」





名前が出し抜けに声を掛けたので、咄嗟にクィレルは返事が出来ずにいた。
顔を上げて名前を見る。
名前は木の上の方を指差していた。
そこにはどういうわけか、御札のようなものが括り付けられていた。
元々は白かったであろう御札のようなものは変色していたが、文字は滲んでいない。まだ新しそうだ。





『何でしょう……。』





クィレルは御札のようなものを見たが何かは分からなかったようだ、首を横に振って答えるだけだった。
再び歩き始めるとすぐに、急に開けた場所に出た。
そこは小さなキャンプ場のようだったが、これまでの道のり程ではなくとも長らく使われていないのか、膝丈くらいの雑草が生い茂っていた。
見渡すと丸太で組まれたいくつかのヒュッテがあり、奥の方には、恐らく管理人が住まうであろうコテージがあった。





『……。』





数歩進み出て辺りを見回す。誰もいないように見えた。
メモしていた住所は恐らくこの場所で合っているだろうが、手記に書き込むほど重要な場所には感じられなかった。
過去にここへ来て住所をメモする程、余程良い思い出が出来たのだろうか?





「ミョウジ、気を付けて進んでください。」





クィレルは警戒して杖を握っている。
名前は頷いて手近なヒュッテに近付いた。
窓から中を覗き込む。
やはり誰もいない。生活感の無い、がらんとしたヒュッテだ。
一つ一つヒュッテを見て回ったが、やはり誰もいないみたいだった。
そして、取りをつとめるのはコテージである。
外をぐるりと回り、窓から中を覗いて見たが、人はいない。けれどヒュッテより生活感のある様相だ。
名前は戸口に立って、思い切って扉を叩いてみた。





『……。』





返事が無い。
コンコン、コンコン。
再び叩いてみたが、やっぱり返事が無い。
扉に耳をくっつけてみたが、物音は一切無い。





「アロホモーラ。」





ついにクィレルが魔法を唱えてしまった。
かちゃり、施錠が開けられる。
名前は「何すんねん」と言いたげにクィレルを見た。
クィレルは「お先へどうぞ」とばかりに名前を扉へ促した。
選択肢の無い名前はドアノブを握って、音を立てないよう、ゆっくり扉を開けた。
在宅していたら大変な事だ。
名前は(多分)ドキドキしつつ、扉の隙間から中を覗き込んだ。





『……。』





むっとした、こもった熱気が顔に張り付く。
中はしんと静まり返っていた。
玄関には靴も置いていない。
出掛けているのだろうか。





『……。』





扉を開けて体を滑り込ませた。
こもって淀んだ空気が、名前の動きに沿って流れていくようだ。
靴を脱いで上がると、名前はじっと足元を見詰めた。





「どうしました?」



『これ……、』





名前は足元を指差した。
指差した方向を、クィレルが見る。
名前は床に置いた足を少しずらして見せた。
名前の足跡がくっきり床に残っている。





『本当に誰もいないみたいですね。』





床には薄く埃が積もり、長い間誰も訪れていない事は明らかだった。
少し歩を進めて部屋の中程に近付く。
リビングとキッチンを兼ねたこの部屋には、テーブルと二脚の椅子、ソファなどが置いてあるが、どれも埃を被っている。
ガスレンジや水道を調べてみると、火も点くし水も出る。この様子なら電気も通っているだろう。
置いてある冷蔵庫や電子レンジなどの、家電の製造年数を見てみると、最近である事が分かった。
このコテージの持ち主は、少なくとも一年はここに来ていない。
更に部屋の奥へ進む。寝室とバスルームがあったが、どちらもやはり使われた形跡は無い。





「ミョウジ。」





背後からクィレルの呼ぶ声が聞こえて、名前は振り向いた。
手をちょいちょいと振って、こっちへ来いと促している。
名前はクィレルの後を付いていった。
リビングキッチンに戻って来て、クィレルはキャビネットの上から何かを手に取る。
それを名前に手渡した。





「これは君のご両親ではないですか。」





それは簡素な写真立てに入れられていた。
名前が知るよりも若い両親の写真だ。
名前は頷いて写真立てを手に取る。
父親が母親の肩を抱き、母親は小さな赤ん坊を抱いていて、二人とも幸せそうに微笑んでいる。





「このコテージは、君のご両親のものなのでしょう。恐らく、外のヒュッテも。」





クィレルの話を聞きながら、名前は暫く写真をじっと見詰めていた。
自宅が全焼し、思い出の品は全て無くなってしまったと思っていた。
けれど思いがけず、こうして手に取る事になるなんて。
父親も母親も逝去して、思い出は頭の中にあるはずなのに、いざ写真で二人を見てみると、その姿が薄らいでいた事に気付いたのだ。





『……。』





名前はもう一度部屋の中を見渡した。
無意識に思い出の品を探していた。
確か寝室にクローゼットと本棚があった。
名前は寝室に向かった。
複雑な表情を湛えたクィレルが付いていく。





『……。』





寝室に着き、クローゼットに向かう。
クローゼットを開けると、ふっと懐かしい匂いがする。
そこには、父親の気に入っていたコートやシャツ、母親のワンピースなどが仲良く並んでいた。
名前はコートに手を伸ばす。
その手が微かに震えている事に気が付き、名前は手を引っ込めた。
自分で自分の手を握り締める。





「君のご両親はここを別荘として利用していたのですか。」



『分かりません。聞いた事がありません。』





しかしそこまで埃が被っていない、家電の製造年数が最近である事を鑑みれば、死亡するつい最近まで利用していたらしい事が分かる。
それを何故名前に黙っているのか?
経営で忙しかったとはいえ、コテージの存在は教えていてもおかしくはない。
父親などいの一番に言いそうだ。





「何か理由があるのかもしれませんね。」



『そうですね。』



「ヒュッテも調べてみましょう。」



『そうですね。……』





クローゼットの中から目が離せなかったが、無理矢理扉を閉める。
先程まで暑かったのに今は指先まで冷えていた。
寝室を出て、リビングキッチンを通り抜け、玄関で靴を履く。
扉を開けて外に出れば、思い出したように蝉の大合唱が聞こえてきた。
熱気が風に巻かれて、生暖かい風が名前の髪を揺らす。
膝丈の雑草を足で掻き分け、一つ一つヒュッテを見て回る。
中はコテージほどの生活感は無く、キッチン、リビング、寝室、バスルームと、必要最低限のものが小ぶりなヒュッテに詰め込まれていた。
そんなヒュッテがいくつかある。





「理由となるものが見付かるかと思いましたが、コテージより物がありませんね……まるで新居のようです。」



『はい……。』



「もしかしたら誰かに貸していたのかもしれない。しかし一体誰に……親戚もいないというのに……。」





クィレルはハッとして名前を見た。
名前はクィレルを見詰め返した。





「もしかしたら……」



『何でしょう。』



「もしかしたら、そのつもりだったのかもしれません。」



『……。』
首を傾げる。



「ヴォルデモート卿から逃れた時、避難所としてここを利用していたのかもしれません。当初は母親の親族も匿うつもりだったけれど、父親の家族による手の方が早かった……。」



『……。』



「そしてその後も、いつ何時でも使えるように、手入れを欠かさなかった。……一年前まで。」



『……。』





クィレルの仮説が正しいのなら、ここには必ず、この先役に立つものがある。
この場所だって役に立つだろう。
問題は山積みだが……。

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