12.-2
破りそうな勢いで羊皮紙を広げる。
「お父さまはまだ生きています。母さんは聖マンゴに行くところです。じっとしているのですよ。出来るだけ早く知らせを送ります。ママより。……
まだ生きてる……
だけど、それじゃ、まるで……。」
───まだ生きている。
希望があるようで無いような言い方だ。
まるで生死の境を彷徨っているような。
ジョージは放心した様子で皆を見回し、ロンは青ざめ顔で羊皮紙の裏を見詰めていた。
急にフレッドが立ち上がり進み出ると、ジョージの手から羊皮紙を奪い取って目を通す。
それから何故か、ハリーと名前を交互に見た。
ハリーは体中を強張らせて、バタービールの瓶を強く握り締めた。
名前は相変わらず無表情に見詰め返した。
『……。』
再び沈黙の時間が訪れた。
テーブルの上の蝋燭が、段々と短くなっていく。
時折バタービールを口元に運びながら、誰かが独り言のように口に出した。
時間を確認したり、状況を予想し合ったり、アーサーの様態について励ましたり……。
極度の緊張状態ではあったが、何人かが眠たげに目を擦った。
ベッドで眠る事をシリウスが提案したが、ウィーズリー家全員に睨み付けられ、それ一度きりとなった。
『……。』
ただただ時間が過ぎていく。
けれど脇腹の痛みは治まる様子が無い。
しかし相変わらず無表情に、名前は皆の状態を眺めていた。
ロンは頭を抱えている。フレッドは船を漕いでいる。
ジョージとジニーは椅子の上で丸まって、暖炉の火をじっと見詰めている。
ハリーとシリウスとは何度も目が合った。
二人もウィーズリー家を気にしているように見える。
五時十分過ぎ。前触れ無く厨房の扉が開いた。
全員そちらを見る。
モリーが立っていた。
フレッド、ロン、ハリーが椅子から立ち上がりかけ、モリーは青ざめた顔で弱々しく微笑み、それを制した。
「大丈夫ですよ。お父さまは眠っています。後で皆で面会に行きましょう。
今は、ビルが看ています。午前中、仕事を休む予定でね。」
震える手でフレッドは顔を覆い、椅子に座り込む。
ジョージとジニーは弾かれたように立ち上がり、母親に駆け寄って抱き付いた。
力無く笑いながらロンは椅子に座り、テーブルの上の瓶を掴むと、残りを一気に飲み干した。
椅子を倒す勢いでシリウスは立ち上がる。
嬉しそうに笑顔が浮かんでいる。
「朝食だ!
あの忌々しいしもべ妖精はどこだ? クリーチャー!クリーチャー!」
大声で叫んだが、クリーチャーと呼ばれた屋敷しもべ妖精は一向に現れなかった。
「それなら、それでいい。
それじゃ、朝食は、ええと、八人か……
ベーコンエッグだな。それと紅茶にトーストと、……」
指差し確認で人数を数え終えると、シリウスは竈の方へ向かっていく。
手伝う為に名前とハリーはシリウスの後を追い掛けた。
そのまた後ろをモリーが付いて来て、ハリーが食器棚から皿を取り出した時、横から皿を奪い取った。
ハリーはモリーを見る。
恐怖したように強張っている。
モリーは皿を棚に置いて両手を空けると、その手を広げてハリーを抱き締めた。
「ハリー、あなたがいなかったらどうなっていたか分からないわ。
アーサーを見付けるまでに何時間も経っていたかもしれない。そうしたら手遅れだったわ。
でも、あなたのお蔭で命が助かったし、ダンブルドアはアーサーが何故あそこにいたかを、上手く言い繕う話を考える事も出来たわ。
そうじゃなかったら、どんなに大変な事になっていたか。可哀想なスタージスみたいに……。」
モリーはハリーを離し、今度は隣に立つ名前を抱き締めた。
回った腕が脇腹を締め付ける。
走った痛みに思わず息を呑み、体が縮む。
モリーは慌てて体を離した。
「あらやだ。痛かった?ナマエ。
そんなに強かったかしら……。」
『平気です。』
「本当に?」
『はい。』
「それならいいんだけれど。兎に角、ナマエ。
私はあなたにも感謝しているの。ハリーとナマエが言ってくれたから、二人がいたから、皆が迅速に行動出来たのよ。本当にありがとう。」
『いいえ、あの………
………どういたしまして。』
モリーはニッコリ笑んで、最後にシリウスへ向き直った。
子ども達の面倒を見ていてくれた事に対し感謝した。
シリウスもニッコリ笑顔だった。
役に立てて嬉しいし、アーサーが入院中は皆でこの屋敷を使って欲しいと言った。
「まあ、シリウス、とても有り難いわ……アーサーは暫く入院する事になると言われたし、なるべく近くにいられたら助かるわ……
その場合は、勿論、クリスマスをここで過ごす事になるかもしれないけれど。」
「大勢の方が楽しいよ!」
シリウスの言葉は本音なのだろう。
モリーはシリウスに笑い掛け、それからエプロンを身に着けた。
朝食の準備に取り掛かるモリーの背後で、ハリーがシリウスを引き寄せる。
「シリウスおじさん。
ちょっと話があるんだけど、いい? あの、今すぐ、いい?」
ハリーは名前を見た。
「モリーの相手を頼む」「任された」
と、いうふうなアイコンタクトだ。
名前は頷き、一人モリーの方へ歩み寄る。
ハリーはシリウスと共に食料庫へ向かっていった。
『手伝います。何か出来る事はありますか。』
「まあ、ありがとう。それじゃあナマエ、ベーコンエッグは作れるかしら?」
『多分、出来ると思います。』
「あなたのやり方でいいからお願いするわ。さあ、このエプロンを付けましょうね……。」
『……』
白地に赤い林檎が散らされた可愛らしいエプロンだ。
エプロンを広げてモリーは、名前の背後に回り込んだ。
着せてあげようという親切心である。
首の後ろでリボンが締まった。
「あら?」
背後から訝しげな声が聞こえた。
腰の紐を締める手も止まっている。
「何かしら……。」
『どうされましたか。』
「ここ、何か付いてるみたい。シミかしら……どこかで汚しちゃった覚えはある?」
モリーが指差す部分。
黒いカーディガン、脇腹の辺りだ。
微かに変色しており、そこだけ糊でも付いたように繊維が固まっている。
汚した記憶は無い。だが、この辺りは……。
「まあ何であれ兎に角、早く落とした方がいいわね。
カーディガンを脱いでちょうだい。お洗濯に出すわ。」
首のリボンを解いて一旦エプロンを取っ払い、カーディガンを脱ぐように促す。
名前は少し固まっていたが、ボタンに手を掛けた。
上から一つ一つ、ボタンを外していく。
下に着ている薄い水色の寝巻きが見えてくる。
三つ目のボタンを外し終えた時だ。
寝巻きの胸ポケットの下辺り、茶色いシミが広がっているのが見えた。
「……」
『……』
モリーも名前も、茶色いシミに釘付けだ。
先に動いたのはモリーだった。
持っていたエプロンを置いて、四つ目のボタンに掛けたままの名前の手を無理矢理どかし、自身の手で急ぎ残りのボタンを外す。
全部のボタンを外した後、左右に開いた。
胸ポケットの下辺りから腰の辺りまで、茶色いシミがグラデーションを作って広がっていた。
一番色が濃いのは脇腹の辺りだ。
おそらくカーディガンにまで染み出した部分である。
「ナマエ、ちょっと見せてね。」
名前が返事をする前に、モリーは慎重な手付きで寝巻きを捲り上げた。
素肌を襲う容赦無い冷気に鳥肌が立つ。
しかしモリーは捲り上げたまま動かない。
いくらか血色を取り戻したはずの顔色が、屋敷に到着したばかりの青ざめた顔色に戻っていた。
「なんてこと……
アーサーの傷痕と同じだわ。」
名前の顔を見上げる。
青ざめ、放心した顔付きだ。
「ナマエ、痛いでしょう?」
『いいえ。あ、いや……
あの……少し。』
「嘘おっしゃい。こんなに血が出て、傷痕があって、痣にもなってるのに!」
『モリーさん。』
名前は自身の唇に指をあてた。
モリーの声が途中から大きくなっていったからだ。
あんなにも罪悪感で震えていたのに、この傷痕を目の当たりにしたら、ハリーはどう思うだろう?
モリーは唇を引き結んだ。
同時に眉根も引き寄せた。
「お手伝いはいいわ。早く手当てしなくちゃ。いいえ、ナマエ、あなたも聖マンゴに行くべきね。ちゃんと診ていただかないと。」
『俺は平気です。血も止まっています。』
「ナマエ。こんな傷は、普通じゃないのよ。」
『分かっています。』
「いいえ、分かってないわ。」
「二人共、どうしたんだ?」
シリウスは一人だけで戻って来た。
向かい合う二人を見比べて不思議そうにしている。
モリーは眉根を寄せたままシリウスを見た。
「シリウス、見てちょうだい。」
モリーはシリウスの腕を引っ張って、自分の横へ立たせた。
訳も分からず二人の顔を見比べていたシリウスの目が、名前の寝巻きに広がる茶色いシミに止まる。
「何だ、これは?」
「いいから見て。」
前置きなく名前の寝巻きを捲り上げた。
傷痕が顕になり、シリウスの目が見開かれる。
「アーサーと同じ場所よ。」
「どうなっているんだ。」
「私には分からないわ。でも普通じゃないのは分かる。
今朝、私がダンブルドアとお話した時、二人の事を心配なさっていたわ。でも怪我をしたなんて聞いてないのよ。それもこんな酷い怪我!」
『こんな事になっているとは思わなかったので、今まで気が付かなかったのです。』
「そうでしょうね。聖マンゴに行くべきよね?」
『あの、それは……
……平気です。このままで。』
「この通りよ、シリウス。この子は大丈夫って聞かなくて……。」
寝巻きを捲る手を下げて、「あなたからも何か言って」と言いたげに、モリーはシリウスを見詰めた。
今度はシリウスが寝巻きを捲り、難しい顔で傷痕を見据えている。
「血は止まっているようだが……ナマエ、痛むか?」
『ええと……少し。……動いたりすると。』
「どうして傷が出来たのか、身に覚えは?」
『アーサーさんと蛇の夢を見た事くらいです。』
「以前にもこういう事はあったのか?」
『いいえ。初めてです。』
言いながら、名前はチラリと食料庫の方を見た。
『俺は平気です。朝食の準備をしましょう。』
「ナマエ!」
「モリー。今はナマエの言う通りにしよう。」
「シリウス、あなたまで何を言っているの!
この子の傷はアーサーと同じよ。毒でもあったらどうするの?手遅れになったら?」
「落ち着くんだ。実際に噛まれたわけじゃない。」
「でも傷があるのよ!」
「モリー。」
シリウスは寝巻きを下げ、カーディガンのボタンを留めていく。
名前の肩越しに食料庫を見た。
「ハリーは気に病んでいる。ナマエの傷を知ったらどう思う?ますます気に病んでしまう。周りの者を混乱させる。」
「ナマエの命を引き換えに安心を選ぶって言うの?」
「そんな事は言っていない!あなたと同じ、私もナマエが大切だ。
けれどこれは異常なんだ。夢を通して怪我を負うなんて話は聞いた事が無い。なるべく隠密にしたい。
まずはダンブルドアに連絡を取り指示を仰ぐ。それから朝食を摂って皆を休ませる。その間にナマエの手当てをする。
君達がアーサーの見舞いに行く時になっても連絡が来ないようだったら、屋敷に残って休んでもらう。私が適当に話をでっち上げるさ。いいね?」
それでもモリーは不服そうに眉根を寄せてシリウスを見ていた。
そこへハリーが戻って来たので、三人は慌ててそれぞれ行動を開始した。
モリーは名前にエプロンを付けてから食パンを切り、名前はベーコンエッグの材料探し、シリウスはフィニアスへ伝言を頼みに。
自分が来てから皆が動き始めたので、ハリーはちょっと不思議そうだった。
朝食を終えるとシリウスとモリーはすぐさま、名前以外の者をベッドへ追い立てた。
ハリーはそうでもなかったようだけど、他の者は欠伸もらし眠たそうにしている。
名前が竈の方で皿洗いをしている内に、皆は何の疑問も無く素直にあてがわれた部屋へ引き上げた。
「さあ、今の内に手当てをしよう。
ナマエ、こっちへ来るんだ。」
『はい。』
呼ばれるままに暖炉の前へ歩み寄る。
そばに引き寄せた椅子に名前を座らせ、シリウスは床に跪いた。
横には救急箱を抱えたモリーが控えている。
「シリウス。ダンブルドアからはまだ連絡が無いの?」
「ああ。まだ彼方もゴタゴタが片付いていないらしい。
ナマエ、寝巻きを脱ぐんだ。上だけでいい。寒いだろうが我慢してくれ。」
『はい。』
何の躊躇も戸惑いも無く、名前は上半身裸になった。
首元に母親から受け取った鈴だけが引っ掛かっている。
警戒心の無さか怪我の程度か。
分からないが、シリウスとモリーはちょっと心配そうな顔付きになった。
「まずはこびり付いた血を落とそう。」
傷口から溢れた血が胸から腰まで広がり、変色して貼り付いていた。
シリウスはモリーからタオルを受け取り、ぬるま湯が入った洗面器に浸して絞ると、それで名前の体を拭き始める。
『シリウスさん、自分でやります。』
「いいから座っているんだ。
痛むか?力加減はこれくらいで平気か?」
『あの……はい、大丈夫です。
ありがとうございます。……』
拭いては浸して絞り、また拭いて……
繰り返す内に白かったタオルは茶色くなり、ぬるま湯は透明から透明感のある褐色へと変わった。
モリーが心配そうに名前を見詰めた。
拭き終えると次は消毒らしい。
ピンセットで綿を摘み、消毒液に浸して、それから傷口にあてていく。
これが滅茶苦茶にしみる。名前も堪らず体が強張った。
「出血の割に傷は浅いようだ。それよりも、傷口の周りの痣が酷いな……。暫くは残るだろう。」
『……』
「ナマエ。さっき食料庫でハリーが打ち明けてくれたんだが……」
『……』
「夢の中で……現実だが……自分自身がアーサーを襲った蛇だったと。
ナマエ、もしかして君は、アーサー自身だったんじゃないか?」
名前は唇を真一文字に引き結んで頷く。
頷くのが精一杯だったからだ。
「やはりな。そうかもしれないと思った。
夢を通して傷を負うなんて話は聞いた事が無いが、その傷がアーサーのものと酷似しているという事が引っ掛かる。」
「そういえば、アーサーが気になる事を言っていたわ。」
「何だ?」
手当ての手を止めずに、名前の傷口を見据えたまま、シリウスは聞いた。
「蛇に噛まれる前、居眠りしている時、目覚ましのような激しいベルの音が聞こえたって。
それに驚いて目が覚めたそうよ。アーサーは夢を見てたと思っているみたいだけれど。」
「ベルの音……。君も聞いたか?ナマエ。」
『はい。おそらく、この鈴の効果です。』
歯を食い縛りながら答える。
首元の鈴を摘み上げた。
二人の視線が鈴へと向けられる。
いくら動かしても音は鳴らない。
『母から渡された鈴です。
悪意や敵意に反応し、所有者のみに警告音を鳴らします。』
「所有者のみに?でも……」
「ああ。だがアーサーは音を聞いた。
所有者のみに警告音を発する鈴が、どうして他者にも聞こえるというんだ?……」
「ごめんなさい。本当にただの夢だったのかもしれないわ。
極度の緊張状態で居眠りなんかしたから、きっとそんな夢を見たのね……。」
「そうかもしれないな。だが、ナマエの視点がアーサーだったという事が引っ掛かる。
例えばナマエが生霊となって誰かの中へ入り込んだら、鈴の音はその誰かにも聞こえるかもしれない。」
「シリウス。それじゃあ、まるで………………。」
最後まで言葉は出て来なかった。
モリーが何と言おうとしていたのか、名前には分からない。
シリウスは黙々と手当てを続けた。
軟膏を塗ってガーゼをあてがい、その上から包帯を巻いて固定していく。
軟膏の効果だろうか。手当てが終わる頃には、痛みは幾分治まっていた。
何かの拍子に誰かが見たら驚くだろうからと、血染めの寝巻きとカーディガンは洗濯に出す事となり、代わりにシリウスのシャツを貸してもらった。
大分手首が出て冷えるが、貸してもらえるだけ有り難い。
「ナマエ。君もベッドで休むといい。
急な事で準備が出来なくてな、私の部屋になるが案内しよう。」
『有り難いですが、シリウスさんとモリーさんは休まれないのですか。』
「私達はここに残ってダンブルドアの返事を待つわ。」
『俺もここに残ります。』
「一人が寂しいのか?ナマエ。眠るまで添い寝でもしてやろうか。」
口角をちょいと上げて、シリウスは意地悪く笑った。
本当にシリウスは悪い笑みが良く似合う。
モリーは冷たく一瞥したが、名前には優しく微笑みかけた。
「私達の事を気にしてくれているのね?ナマエ。
大丈夫よ。あなたは成長期の子どもだし、怪我を早く治す為にも休む必要があるの。気にせずお休みなさいな。」
『いいえ、あの……眠くないのです。ここで過ごしては駄目ですか。』
「駄目って事は無いが……。
分かったよ。だがその格好じゃ寒いだろう、毛布を取ってくる。」
「私が取ってくるわ。ついでに子ども達の様子も見てきます。」
「ああ、分かった。」
すぐに厨房からモリーが出て行った。
階段を上る音が響き渡り、ゆっくりと遠ざかっていく。
「ここの肘掛椅子に座るといい。暖炉の火がよくあたる。」
『有難うございます。』
暖炉の前の肘掛椅子に名前を導き座らせる。
向かい合わせにシリウスも腰掛けた。
「クィレルの奴は君にどんなふうに接してる?」
『……。』
「いや、君の怪我は奴の仕業かもしれないだろう。
あいつはヴォルデモートの配下だった。ダンブルドアは奴が心を入れ替え考えを改めたと言っているが、私はとても信用出来ない。」
『俺は信じています。』
「何故だ?」
『クィレルさんは夏の間、昼夜問わず、食事も睡眠もままならない状態で、ずっと俺の護衛をしてくださいました。ホグワーツでもです。』
「そりゃあ監視対象から離れるわけにはいかないさ。下心があれば尚更にね。
奴はアズカバンを逃れたくて嘘を吐き、君の護衛をしている。そして時が来れば再びヴォルデモートに付き、君を裏切る。そう考えた事はないか?」
『無いです。』
「まあ、そう答えるだろうとは思っていた。」
シリウスはガックリ肩を落とした。
「人を信じて疑わない。君はそういうやつだ。」
『そんな事は無いです。』
「ほう。例えば誰を、どんな時に疑った?」
『……。』
すぐには出て来ない。
名前が思い出そうと黙っている内に、階段を下りてくる足音が聞こえてきた。
「兎に角、何か異変があればすぐに教えてくれ。」
シリウスが早口にそう言った直後、厨房の扉が開いた。
片手に毛布を抱えたモリーが立っていて、扉を閉めると此方へ歩み寄ってくる。
「子ども達はぐっすりよ。ハリーは起きていたかもしれないけれど。……」
「ああ、蛇の夢を思い出して眠れないかもしれないな。」
モリーは名前の肩へ毛布を掛けた。
お礼を言うとニッコリ笑い、そばにある椅子へ腰掛ける。
「フィニアスから返事を聞いたわ。」
「そうか。ダンブルドアは何だって?」
「血が止まっているなら心配する事は無いだろうって。
アーサーは蛇の毒で出血が止まらないから、傷が似ていても、ナマエは大丈夫だろうって。……
ただ怪我には変わりないから、屋敷で安静にするように。それと、子ども達に悟られないようにとの事よ。」
「だそうだ、ナマエ。分かったか?
何も心配する事は無い。私達が手助けをする。」
「ええ、その通りよ。」
『はい。
有難うございます。お願いします。』
「ああ。それで、原因について何か言っていたか?」
「それがダンブルドアにも分からないそうなの。
同じような事が起こりかねないし、ナマエが眠る時には誰かが傍に付いて、異変があればすぐに目覚めさせるようにって。」
「それなら私が付こう。」
騎士団に話を伝えるか否か。
子ども達にはどう説明するか。
昼食準備の時間になるまで、シリウスとモリーは名前の対処について話し合った。
名前は肘掛椅子に座っていた。
自分の話なのに時々話を振られるくらいだった。
『おはよう。何か飲む。』
「おはよう……んー……オレンジジュース……。」
「俺も同じ。」
「右に同じく。」
ムニャムニャと答えたロンにフレッドとジョージが続く。ハリーとジニーも頷いて答えた。
昼食の時間が近付いてきたから三人で竈に立っていたが、匂いにつられて起きてきたのか、階上から続々やって来たのだ。
年季の入った飴色の食器棚からグラスを取り出す。
表面に細かな彫刻が施されたカット・グラスはいかにも高そうだ。
おまけに薄くて扱うのが少々怖い。
それにオレンジジュースを注いで、テーブルに着いた五人の前に置いた。
『ご飯はもうすぐ出来るよ。』
「ありがとう。ナマエ、その服はどうしたんだ?」
『……』
「ああそれは私の物だ。食事の準備中に汚してしまってね。
さあ、食事にしよう。」
背後から素早く現れたシリウスは、スマートにフォローをし、それとなく話題を逸していった。
すぐ後に食事が運ばれてきて意識もそちらへ向く。
食事の最中にホグワーツからトランクが届けられ、皆はようやく寝巻き姿を脱せらるようになった。
食後は一旦階上に引っ込み、早速着替える。
厨房に戻って来た時にはジーンズとTシャツ姿だ。
見舞の為にロンドンの街中を通るので、ローブ無しである。
父親に会える事が嬉しいのか。
マグルの服を身に着けるのが嬉しいのか。
名前とハリーの二人以外は、声も高く饒舌だ。
「ナマエは着替えないの?」
不思議そうにロンが尋ねた。
名前は石のように固まった。
目を逸らす。部屋の隅の枯れかけた観葉植物へ向けられた。
シリウスに貸してもらったこの服の下には、包帯がぐるぐるに巻いてある。
「ナマエは午前中よく休めなくてね。体調が悪いそうだ。」
「ナマエは行かないって事?」
「まあ、そういう事になるな。」
『ごめん。』
「謝る事は無いわよ、ナマエ。」
「そうだよ。ゆっくり休んでて。」
「ああ、うーん。確かに顔色が悪いな。」
「まあ、いつも通りにも見えるけどな。」
フレッドとジョージが名前を挟んで捏ね繰り回した。
包帯の感触に気が付くのではと冷や冷やしたが、二人の刺々しさが無くなって一安心である。
それに、付き添いのトンクスとムーディが到着し、二人の気がすぐに逸れた事も幸いだった。
以前キングズ・クロス駅でトンクスと出会った時、彼女は老婆の姿だったが、今は若い魔女の姿だ。
変身魔法が得意らしい。本当の姿は此方のようで、ど派手なピンク色の短髪がピンピン立っている。
ムーディは魔法の目を隠す為に山高帽を被っていた。
歓迎する体で近付き顔を接近させた時、シリウスは真剣な顔付きであまり口を動かさないよう、そして最小限の言葉で、二人の耳元で何事かを囁いた。
多分、名前の事だろう。
二人は微かに表情を強張らせて名前の方を見た。
「それじゃあ、シリウス。ナマエをお願いね。」
「ああ、勿論。
行ってらっしゃい。気を付けて。」
玄関で皆を見送り、バタンと扉が閉まる。
屋敷には名前とシリウス、クリーチャーの三人だけが残された。
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