03.-2
「薬から軽い銀色の湯気が立ち昇っているはずだ。」
スネイプの低い声がそう告げた。
名前は顔を上げ、教室の壁に掛けられた時計を見る。
教室内は色とりどりの湯気で煙っていて、どれほどの時間が経過したのか、残り時間はどのくらいなのか、
時計がどこにあるのかすら分からなかった。
湯気の中からスネイプの黒い影が見え隠れして、その途端に名前は素早く大鍋に目を落とす。
スネイプは真っ直ぐ名前の元へやって来て、大鍋を見下ろした。
『……』
「……」
集中力が抜け落ちて、意識が目の前にいるであろうスネイプに向いた。
目を合わせられないので、視界の端に黒いマントが映り込んでいるだけだ。
スネイプは何も言わずに通り過ぎた。
次はハーマイオニーの大鍋を覗き込んでいる。
此方も問題無いようだ。
「ポッター、これは何のつもりだ?」
通り過ぎたと思ったら、すぐ近くで声が聞こえた。
教室の前の方からざわざわと動く物音が聞こえて、スリザリン生が見物の為に振り返ったであろう事が分かった。
この煙ではろくに見えもしないだろうけど、彼らはそんなの大した事じゃ無いらしい。
「『安らぎの水薬』。」
「教えてくれ、ポッター。字が読めるのか?」
「読めます。」
「ポッター、調合法の三行目を読んでくれたまえ。」
会話が途切れた。
煙った視界では二人の様子を確認する事が難しい。
「月長石の粉を加え、右に三回攪拌し、七分間ぐつぐつ煮る。その後、バイアン草のエキスを二滴加える。」
再び聞こえてきたのはスネイプの声だった。
歌うように読み上げるその声は、普段通り低かったが、とても機嫌良く感じさせた。
「三行目を全てやったか? ポッター?」
「いいえ。」
「答えは?」
「いいえ。
バイアン草を忘れました。」
「そうだろう、ポッター。つまりこのごった煮は全く役に立たない。
エバネスコ!」
消去呪文を唱えたので、今頃ハリーの大鍋の中身はすっかり無くなってしまっているのだろう。
「課題を何とか読む事が出来た者は、自分の作った薬のサンプルを細口瓶に入れ、名前をはっきり書いたラベルを貼り、我輩がテスト出来るよう、 教壇の机に提出したまえ。
宿題。羊皮紙三十センチに、月長石の特性と、魔法薬調合に関するその用途述べよ。木曜に提出。」
大鍋の中身を掬い取り、細口瓶に注ぐ。
コルク栓で蓋をすれば準備完了だ。
机の上に広がった筆記用具と杖を鞄にしまい込み、名前は教壇の方を見た。
湯気が殆ど無くなっていて、もう教室の隅々まで見渡せる。
生徒達は細口瓶を持って教壇に長い列を作っている。
そして、順番にそれを置いていく。
名前も列に加わった。
後ろに続く生徒がいないのを見ると、名前が最後尾らしい。
『……』
終業のベルが鳴ると同時。
ハリーは鞄を肩に掛けて、他には何も見向きもせず、一直線に教室を出ていった。
その背中を目で追い、見えなくなってから、名前は列の先頭を見る。
瓶を提出するだけなので大して時間は掛からない。
列は瞬く間に短くなり、すぐに名前の番になった。
『……』
置こうとしていた手を止めた。
机の上には細口瓶がところ狭しと並んでいて、置き場所などとっくに無かった。
いや、良く探せばあるかもしれない。
それに無くても、一つくらい置き場所を作れるだろう。
けれど容器はガラス製。
落っことしでもしたら目も当てられない。
「ミョウジ。」
すぐ背後からの低い声。
名前が驚きに肩を揺らしても無理は無い。
ふと意識を耳に集中してみれば、スネイプのものであろう静かな息遣いが聞こえてきた。
生徒の喧騒は遠く廊下に反響するのみ。
教室内には名前と、教師であるスネイプの二人だけのようだ。
最後尾の名前がモタモタしていたら、一人取り残されるのも当然である。
「場所にお困りのようであれば我輩が直々に受け取ろう。」
そう申し出てくれたのだから、もう場所を探す必要など無いのだけれど。
名前の視線は机の上に並んでいる細口瓶の群れに固定されていた。
すぐには振り返れなかった。
湯気もそうであったように、細口瓶の中身も色とりどりだ。
意味も無く細口瓶を見詰めて一呼吸。
振り返る。
やはりスネイプはすぐ後ろに立っていた。名前のローブとスネイプのマントの裾が触れ合うくらいには近い。
スネイプは名前を訝しむように見詰めていた。
すぐに振り返らなかったその反応を不自然に思っているようだった。
『お願いします。』
雛鳥でも包み込むように、名前は両の掌の上に細口瓶を転がして、スネイプへ差し出した。
スネイプの目が名前から細口瓶へと移る。
ゆっくりとスネイプの手が持ち上がり、名前の掌へ伸ばされた。
血の気の無い指先が細口瓶を摘み上げる。
一瞬、ほんの少し。
スネイプの指先が名前の掌を触れた。
掠る程度だった。
けれどその一瞬、ほんの少しの接触に、また妙な緊張感が名前の体を襲ったのだ。
『……』
「……」
名前はすぐに掌を引っ込めた。
緊張で震えてしまいそうだったからだ。
スネイプは細口瓶を受け取るなり黙り込んでいる。
摘み上げた瓶をじっと見下ろすばかりだ。
沈黙が包む。
互いの呼吸と、遠くに生徒の足音、話し声、降り注ぐ雨音が、微かに聞こえてくる。
「その後体調の方は如何かね。」
用は済んだのだから出ていけ、という遠回しのアピールだろうか。
名前の視線が、スネイプの肩越しに教室の扉へと走った時、スネイプは低い声でそう言った。
名前の視線はすぐにまたスネイプへ戻った。
『元通りです。』
スネイプが顔を上げた。
輪郭を隠すように垂れた黒髪の隙間から、疑うような目付きで此方をじっと見る。
何故疑われているのか、名前には分からなかった。
「それは何より。」
スネイプはまた顔を伏せた。
黙り込み、摘み上げた瓶を指先で回し見ていている。
先程と変わらず進路を塞ぐように立っているので、名前はその場から動けなかった。
『スネイプ先生。あの……』
「……」
『有難うございました。二ヶ月前は、薬とか……色々、お世話になりました。』
「礼ならば既に受け取っている。」
スネイプは顔を上げた。
目と目が合うと、名前は緊張が増すのを感じる。
ローブの袖の下、指先を握り込んだ。
「ミョウジ、お忘れかな?君がやった事だ。」
『手紙の事ですか。』
「左様。他にあるまい。」
『直接お礼を申し上げたかったのです。
それに、今回の事だけではありません。もう何年も、スネイプ先生にはお世話になっています。』
「そう思うのならば、ミョウジ。今後の行動に表わしてくれたまえ。
ここ数年君には反省というものが見受けられない。」
『……
はい。』
「よろしい。では昼食を摂りに行きたまえ。
まずは人並みに食事を摂る事だ。君の少食は目に余る。」
『……』
言って、スネイプは少し横に移動した。
塞いでいた通路を、名前が通れるようにしたのだ。
けれど名前は動かないまま、スネイプの顔を見詰めていた。
人並みじゃない事は理解していたが、名前は食べられるだけ食べるようにしている。
そうしないとハーマイオニーが世話を焼くからだ。
それにしたって、まさかその光景をスネイプが見ているとは。
いつも見られているのだろうか……。
目の前から動かない名前を、スネイプは今度こそじろりと睨み付けた。
「お小言がお好きかね?ミョウジ。」
名前は慌てて教室を出た。
出る直前、「失礼します」という言葉と会釈は忘れずに。
『……』
教室を出て一人、石畳の螺旋階段を上る。
そうしている内に段々と緊張が解れてきた。
一体この妙な緊張感の理由は何だろう。
今朝、授業前、ついさっき……。
スネイプの存在がこの妙な緊張感を生むのだとは、名前は何となく気付いている。
しかし、理由が分からない。
今まではこんなふうにならなかった。
『ハリー。』
大広間に入る矢先、ハリーが入れ違いに出ていった。
無視しているのか、気付いていないのか。
名前を呼んでも振り向かず、早足で歩き続けた。
少し首を傾げるが、名前は大広間に入る。
テーブルにロンとハーマイオニーの姿を見付けた。
二人も名前に気が付いたようだった。
「随分遅かったわね。」
「何してたんだよ。」
名前が席に着くと二人はいっぺんに喋った。
だから名前は二人が何を言ったのか理解するのに少々時間が必要だった。
少しの間動きを停止させて、それから二人の顔を見比べた。
『スネイプ先生と話をしていた。』
「ゲーッ、そりゃお気の毒。」
「何を話していたの?」
『二ヵ月前、お世話になったお礼。』
「二ヵ月?何の事だよ。だってナマエ、その時は医務室にいただろ?何でスネイプが出てくるんだよ。」
「もしかして薬を調合してもらっていたの?」
『うん。』
「ああ、成る程ね。スネイプなんかに礼を言う必要なんか無いのに……。」
『……
ハリーはどうしたんだ。』
「私とロンが言い合うから、嫌になって行ってしまったのよ。初めは魔法薬の授業の話だったの。
スネイプがハリーの魔法薬を酷評したでしょう?ハリーより酷い人はいっぱいいたのに、不公平だって。それで───」
───スネイプが僕に公平だった事なんかあるか?
ハリーは二人にそう言ったらしい。
二人は答えられなかった。
ホグワーツに入学した当初からスネイプは、ハリーに対してあからさまな敵意を向けていたからだ。
───私、今年は少し良くなるんじゃないかと思ったんだけど。だって……ほら……
ハーマイオニーは周囲を警戒しながら続けたそうだ。
───……スネイプは騎士団員だし。
『騎士団員。』
「そうよ。それで───ねえ、ちょっと待って。ナマエ、いいかしら。確認させてくれる?
騎士団の事、知ってるわよね?」
『ううん。』
「えっ!ナマエ、君───ああ、いや……そうか、ナマエはあそこにいなかったし……知るはずもないか。」
『……』
「ナマエ、騎士団は秘密同盟よ。
あなたの事だから心配無いと思うけれど。」
ハーマイオニーは名前に身を寄せて、周囲を警戒しつつ話して聞かせてくれた。
騎士団員───不死鳥の騎士団は、昔ヴォルデモート陣営と戦った組織であり、ダンブルドアが設立者である事。
今夏再結成され、ブラック家がその本部になっている事。
夏の間ロンとハーマイオニー、ハリーはそこで過ごしたが、メンバー全員は把握していない事。
危険が伴うので、未成年は団員になれない事。
だから団員の取り組みは知らない事。
───などなどだ。
「スネイプを信用するなんて、ダンブルドアはどうかしてるって、僕はさっきそう言ったんだよ。」
一通り説明が終わった時を見計らい、ロンはそう言ってフンと鼻を鳴らした。
「あいつが『例のあの人』の為に働くのをやめたって証拠は無い。そうだろ?」
「だからね、ロン、あなたに教えてくれなくとも───ダンブルドアにはきっと十分な証拠があるのよ。そう言ったわ。それでハリーは嫌になって出ていったの。
確かに私とロンはいがみ合う事が多いかもしれないわね……。」
「まあ……うん、……そうかも……。」
ロンはバツが悪そうに目を逸らした。
『……』
「でもハリーも苛々していて、私達に八つ当たりする事が多いわ。気持ちが荒れてしまうのは分かるわよ、新聞でも学校でも嘘吐き扱いだもの。
それでも私達は味方よ。ハリーはそれを理解して、八つ当たりはやめるべきだわ。
まずは私達ね。いがみ合いはやめましょう。
私達が気を付ければ、ハリーが私達に怒る理由は無くなるはずよ。」
「うん……そうだな。」
二人がことある毎に言い争うのをやめて気を付けようとしてくれるのは、ハリーが発端とはいえ、喧嘩が苦手な名前にとっても嬉しい変化だっただろう。
話が終わる頃にはいい時間で、三人は昼食を切り上げてそれぞれの教室に向かった。
「そういえばナマエは、あんまり苛々しているようには見えないな。」
ハーマイオニーと別れて、名前とロンは北塔に向かう。
次は「占い学」の授業だ。
「君の事も随分な言われようだっただろ。そりゃあハリーに比べれば、ほんとに小さな記事だったけど。」
『見ていないから知らない。どんな記事。』
「気が狂ってるとか、妄覚だとか、まあ、そんなふうな事さ。
ダンブルドアが、君は予知夢を見たって。皆にそう言ったんだよ。それは知ってる?」
『ああ。』
頷く。
「だからさ。夢を本物だって信じるのは普通じゃないんだ。
その上、内容が『例のあの人』に関するものだからな。尚更だよ。」
それからハッと何かに気が付いたように息を吸い込み、ロンは慌てて言葉を続けた。
「ナマエ、君はまともだよ。だって本当にそうなったんだ。疑いようが無い。そうだろ?
僕はナマエの事を信じてる。ハリーもハーマイオニーもさ。」
『ありがとう、ロン。嬉しいよ。』
「うん……。不安なのはトレローニーだ。ナマエ、もしかしたら目を付けられたかもしれないぞ。
敵対視するか、それとももしかしたら、君を言い包めて弟子にしようとするかも。」
『……』
否定も肯定の言葉も返さず、名前は黙った。
不安だったのかもしれない。
無表情に感情を読み取る事は出来ないので、それも不確かではあるが。
トレローニー───シビル・トレローニーはこれから向かう「占い学」の教師だ。
トレローニーは授業中、数回に一回、ハリーが早死すると必ず予言する。
「占い」というものを神聖視していて、軽んじる者を許さない。
名前の予知夢の話はトレローニーの耳に届いている事だろう。
果たして、彼女がそれをどう判断するか。
予知夢を騙った下賤な生徒か、それとも「心眼」を持つ高貴な生徒か。
前者なら敵対視されるだろうし、後者なら贔屓されるだろう。
どちらにしても名前の望んだものではない。
北塔の螺旋階段をひたすら上り、天辺に辿り着いた。
撥ね天井から銀の梯子が下ろされている。
ロンを先頭に梯子を上ると、熱気とお香の匂いが二人を包み込んだ。
教室は薄暗くて、しかもテーブルやら椅子やら、床置きクッションやらで足場が悪い。
ロンと名前は目を皿にして、すり足で進んだ。
「僕、ハーマイオニーと言い争うのはやめた。」
仄暗い教室内でハリーの姿を捉えたらしい。
近付いて脇に座る動作をしながら、ロンはそう言った。
「そりゃ良かった。」
仄暗い教室内。
ロンを挟んでハリーの姿があるはずだが、ハッキリとは見えない。
けれど声音は刺々しく、不機嫌な事が窺えた。
「だけど、ハーマイオニーが言うんだ。僕たちに八つ当たりするのはやめてほしいって。」
「僕は何も───」
「伝言しただけさ。
だけど、ハーマイオニーの言う通りだと思う。
シェーマスやスネイプが君をあんなふうに扱うのは、僕達のせいじゃない。」
「そんな事は言って───」
「こんにちは。」
トレローニーの声だ。
ハリーはその先の言葉を飲み込んで、口を閉じて静かになった。
しかし苛々は治まらなかったようだ。
ハリーの苛々は毬栗のように、名前の肌をチクチク刺してくる。
「『占い学』の授業にようこそ。あたくし、もちろん、休暇中の皆さまの運命は、ずっと見ておりましたけれど、こうして無事ホグワーツに戻っていらして、うれしゅうございますわ───そうなる事は、あたくしには分かっておりましたけれど。」
トレローニーは夢うつつのような、掠れたか細い声で語り掛けた。
大きな丸眼鏡に暖炉の炎が反射している。
白く浮かび上がる様は少々不気味だ。
「机に、イニゴ・イマゴの『夢のお告げ』の本が置いてございますね。夢の解釈は、未来を占う最も大切な方法の一つですし、多分、OWL試験にも出る事でしょう。もちろん、あたくし、占いという神聖な術に、試験の合否が大切だなどと、少しも考えてはおりませんの。皆さまが『心眼』をお持ちであれば、 証書や成績は殆ど関係ございません。でも、校長先生が皆さまに試験を受けさせたいとのお考えでございます。それで……」
語り掛けるトレローニーの声は段々、殊更にか細いものに変化していく。
占いという神聖なものに、試験などという卑しいものは相応しくないと気に入らない様子だ。
言葉を切って一瞬、トレローニーは此方を見た。
ハリーを見たのか名前を見たのか、はたまた別の誰かか。
室内は薄暗いし、勘違いだったかもしれない。
けれど一瞬、目が合ったような気がした。
「どうぞ、 序章を開いて、イマゴが夢の解釈について書いている事をお読みあそばせ。それから二人ずつ組み、お互いの最近の夢について、「夢のお告げ」を使って解釈なさいまし。どうぞ。」
華奢な造りの小テーブルの上、既に配られた本を手に取る。
使い古した革表紙の本だ。
開いたはいいが、鼻先まで近付けなければ読めない薄暗さである。
窓はきっちりカーテンが閉じられているし、光源であるランプはスカーフで覆われ、暖炉の炎も心許ない。
読書には適さない環境なのだ。
───だからトレローニーはあんなに大きくて分厚い眼鏡を掛けているのだろうか。
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