29.-1


リハビリとトレーニングで夏休みは始まった。
夏季休暇の間に態勢を整えなければならない。

ひとまず体の感覚を元に戻そうと柳岡指導の元、きっちり体調管理されながら行われたわけだが、まるでジムに入ったばかりのように体は鈍っていた。
しかし流石に経験者である。
続けていくと徐々にカンを取り戻していく。
その変化に周囲の人々は驚かされたものだ。

休みを挟みながら、ジムに通うのが週三日。
それ以外は自宅でリハビリとトレーニング。
二週間ほど経った現在、もう杖は突いていない。





「おう、名前。」





ジムの扉に手を掛けると、後ろからそんな言葉が投げ掛けられた。
振り向けば、ベンチで休憩中らしい千堂が此方を見ている。





『千堂先輩。何ですか。』



「ロードワーク行くんか。」



『はい。』



「ワイも行く、ちょお待っとれ。」



『分かりました。』





人の出入りに邪魔になるので、ドアノブから手を離して横に移動する。
そこが窓際なものだから、窓から入ってくる太陽光がジムの床に反射して、容赦なく目を刺激してくる。
これは堪らない。名前は素早く視線を遠くに遣った。
目をパチパチさせたり細めたりしながら、名前は残光と戦っているようだった。





「行くで。」



『はい。』





そんな戦い知る由もない。
準備を済ませた千堂が現れて、いの一番に出て行こうとしている。

名前はさて置き、千堂の声は良く通る上に大きい。
二人のやり取りは嫌でもジム生の耳に入っていた。
数人がそれまでやっていた事の手を止めて、此方も負けず劣らず大きな声で、「千堂さん」と声を掛けてきた。





「名前の事ちゃんと見たってくださいよ。」



「おう。目ぇ離さへんで。」



「水分補給させてくださいね。」



「ぬかりないわ。」



「我慢しちゃって気付いたら危ない状態になってるって事ありますから、涼しい所に行って休憩挟んでください。」



「休憩地点確認済みや。」



『………』





交わされる会話の間に立つのは、この中で抜きん出て長身、大人びた名前である。
しかし扱いが小さな子どもだ。
任されていると言う責任感からか、名前を心配しているのか、千堂はえらく張り切っていた。
それがますます「幼い兄弟が初めてのおつかいに行く」感に拍車を掛けている。

「ほな行ってくるで」と片手を上げる千堂に、「いってらっしゃーい」と気さくに手を振り返すジム生の面々。
頭を下げかけた名前の手を掴み、千堂が無理矢理振り返させた。
ジム生の笑いがジムからこぼれるのを背後で聞きながら、二人は走り始める。

その姿を目で追ったジム生は、名前の姿が見えなくなってから、振っていた手を止めた。
ゆっくり手を下ろし、溜め息を吐く。
見えなくなった姿を見つめるように、どこか遠くを見つめながら、ポツリと呟いた。





「大丈夫かなあ、千堂さん。」



「え?何で。」



「道順間違わなきゃいいけど、心配や。」



「ああ、あの人、方向音痴やからね。」



「ロードワークで慣れ親しんだ道なら大丈夫やろ。さすがに。」



「確かに、それでダメなら家にもよう帰れませんわ。」





ハハハ───と、笑いが響いた。
千堂がこの場に居合わせたらどつき回されそうな会話である。
しかし千堂はいない。
そしてトレーナーも近くにいない。
それを好い事に、ジム生はわらわらと寄り集まって談笑を続けた。





「なんやアイツが頑張ってると、俺も頑張らなって思うわ。」



「千堂さん?」



「千堂さんもやけど。名前も。」



「あー、分かります。頑張り屋で、なんか胸打たれますわ。」



「最初ビックリして大丈夫なんかいなと思いましたけど、彼、ホント一生懸命ですよね。」



「確かに、よくもまあここまで持ち直せたわ。」





このジム生、名前がジムに入った頃には、既にジムに通っていた者達である。
約三年ほどだろうか。長期休暇のみだが現れる名前の成長を見てきたのだ。それなりに思い入れがある。

今夏もそろそろ現れると思っていた矢先、トレーナーの柳岡から「留学先で怪我をして、傷は治ったが後遺症がある」なんて(デタラメだが)言われれば戸惑った。
実際、ジムにやって来た名前は、今まで出来ていた事が出来なくなっていたのだ。
どれほどのものか想像もしていなかった彼らに与えた衝撃は凄まじいものだった。

おそらく一番衝撃を受けたのは千堂だろう。
彼の性格もあるが、何かと面倒を見ていたのだから。





「アイツがなんか出来るようになると感動するんですわ。なんか子どもの成長見守ってる感じです。」



「何言ってんねん。お前、子どもどころか彼女もおらんやろ。」



「ちゃう、ちゃいます。感覚ですわ。こんな感じかなーって。」



「楽しそうやなあ、君ら。」





ビクッと跳ね上がるジム生。
一斉に声が発せられた方へ顔を向けた。





「休憩中かいな。」





トレーナー、柳岡の登場である。
にっこりと笑顔を浮かべて、わざとらしく首を傾げる。
ジム生は蜘蛛の子を散らすように散らばると、それぞれトレーニングを再開した。

ところで、名前と千堂がジムに帰還したのはたっぷり数時間ほど経過した頃である。
ジム生が心配した通り、道に迷ったのだ。名前の為にとロードワークの道を変えたのが悪かったらしい。
来た道を覚えていた名前に導かれる形で戻ってこれたが、
柳岡には呆れられつつ怒られて、ジム生には笑われてしまった。













『…』





パチリ。瞼を開けば、辺りはまだ薄暗い。
枕元に置いてある目覚し時計を確認する。
寝入ってから数時間、まだ真夜中だった。
タイマーで動いていたエアコンも扇風機も動作は止まっており、じわじわと蒸し暑さがぶり返している。
瞼を閉じて眠ろうとするが、名前はコロコロと寝返りを打つばかりで、寝付けないようだった。





「うん…」





そうしていると隣から不意に、そんな言葉にならない声が聞こえてきた。
そちらに顔を向けて見るが、柳岡は眠っていた。
けれどあまりゴソゴソと落ち着きなく動いていたら、やがて目を覚ますかもしれない。
布団から這い出ると、忍び足で居間へ向かった。





『…』





明かりは点けなかった。
遮光カーテンのレール部分から微かに洩れ出る街灯や月明かりで十分だったからだ。
チラリ。止まり木を見る。
そこにネス───クィレルの姿はない。
ケージも空っぽだ。





『…』





深夜になるとクィレルは姿を消す。
ダンブルドアに近況報告をしているらしい。
変化のない平和な日々だ。毎夜報告する程の内容も無い気がするが、打倒ヴォルデモートを掲げる魔法使い同士、何かやり取りがあるのだろう。

名前の傍から離れる事は避けたいらしいので、いつも短時間で戻ってくる。
今夜もすぐに戻ってくるだろう。
居間の窓を開けて、サンダルを履く。
元々は柳岡の所有物だったそれは、名前が履くには少し小さくて、踵がはみ出る。





『…』





気にせずにベランダに出て、欄干に掴まった。
生温い風が頬を撫でていく。
夜になっても昼間の熱を湛えたままのアスファルトは不快な熱を帯びていて、それがこうして風に巻き上げられる。
ちっとも涼しくない。
風があるだけマシといった所か。

昼間の大合唱とまではいかないが、彼方此方で蝉が鳴き続けている。
室外機の音と重なって中々の騒音だ。

ハハハ───笑い声が住宅街にこだました。





『…』





階下を見下ろすと、酔っ払った大学生らしき集団が歩いていく。
次いで、仕事帰りか夜勤か分からないがスーツ姿の男女とか、車とかも通っていく。
見渡してみれば、街灯の明かりと月明かりばかりでなく、家々の明かりもぽつぽつと点っていた。

カチャン。
ぼーっと眺める名前の背後で、空耳かと思うような、小さな音が鳴った。
金属的な音。
玄関の扉、鍵を回す音だ。





『…』





微かな衣擦れの音。
廊下を通り、居間に通じる扉を開けた。
気配は真っ直ぐ此方に向かってくる。





「ミョウジ、私はいつも君に驚かされる。」






クィレルだ。
包帯だらけで表情なんて分からないが、若干怯えている───ように見える。

カクリ。名前は首を傾げた。





『おかえりなさい、クィレルさん。
どうして驚かれるのですか。』



「ああ、ただいま…。
いや、カーテン越しに影が映ってね。分かっていても一瞬驚くのですよ。」



『そうですか。…居間にいるようにします。』



「それはそれで驚きますよ。暗がりに人がいるんですから。」



『…』
解決のしようが無い。
が、クィレルは大して気にした風もなく、懐から手紙を取り出して見せた。



「ミョウジに手紙です。気になっていたのですが、君はいつも私を出迎えてくれますね。
もしかして眠れないのですか?」



『ありがとうございます。
いいえ、眠れています。ただ、……』





夏の暑さに体力を削られ、ヴォルデモートの件に精神が摩耗してはいるが。
それを除いても名前は眠れていた。
度々現れる女の子が自分の姿だと知り安心したのか。
以前のように夢に出てくる事は無くなった。その影響は大きいだろう。
しかし今度は、何日も同じ夢を見ていた。





『……』





窓の無い、暗くて長い廊下を歩いて、廊下の先の扉を目指す夢だ。
真っ黒で重厚な扉に辿り着いても、そこは鍵が掛かっているようで開かない。

同じ夢を見ることはある。その夢の続きを見ることも。
何日も続けて見るというの経験もある。それは不安や恐怖から作り出された夢だったが。

チラリと、名前は寝室を覗き見る。
規則正しい呼吸が微かに聞こえる。柳岡は熟睡中のようだ。




「───ただ?」



『……
クィレルさんの帰りを待っているんです。』



「私の帰り、ですか。」





予知夢を見た経験もあり、連日続くと、ちょっと気にはなる。
妙な夢だ。けれど登場人物はいないし、同じ場面を繰り返すだけ。
気にし過ぎと判断したらしく、名前はそう言って、受け取った手紙を開いた。

手紙はハーマイオニーからだった。
早速開いてみると、白紙が目立つ。





───ナマエ、お元気かしら?私達、とても忙しくしてるけど、元気よ。
今度会った時にたくさんお喋りしましょうね。体に気をつけて───





文章は短く当たりざわりのない文面だ。
おそらくロンと一緒にいるのであろう事が、「私達」という言葉から推測される。

墓場での一件が周囲にどう伝わっているのか、ヴォルデモートのその後のニュースは無いのか。
いざとなったら裁判まで持ち込もうとしていたリータ・スキーターの件はどうなったのか。
一切、何も情報が無い。
クィレルに聞いても、手紙でハーマイオニーやロンに尋ねても、あまり詳しい話は出来ないの一点張りだ。

肝心要のハリーだが、こちらは反応が無かった。
誕生日祝いの手紙をハリーに送ったが、待てど暮らせど返事が無い。
ダーズリー一家の住まいにいるらしいが、自由に手紙が出せない状況なのかもしれない。





「しかし、私が君に教えてあげられる事は、何も……。」





今にも消え入りそうな、申し訳無さそうな声でクィレルが言うので、名前は手紙からクィレルの方へ、視線を移動させた。
包帯だらけの顔は表情が分からない。
しかし、行き場を失って目を伏せているところを見ると、やはり申し訳無いという感情で当たりだろう。

再び手紙に目を落とし、元の形に畳みながら、名前は口を開いた。





『ダンブルドア校長先生との約束で、俺には一切情報を伝えない。それは分かっています。
俺はクィレルさんと、何か……話したくて。
あの。そんな暇は無いと、ご迷惑になっていますか。』



「いいや。ミョウジと話していると心が安らぐ。私にとって必要な時間です。
しかし、こうせざるを得ない状況だとしても。嫌な気持ちになりませんか、ミョウジ?
行動を制限されて、情報も知らされない。」



『こういった状況で、何が正しいのか分かりません。
未熟な俺が自分勝手に行動するより、経験豊富な人が先導した方が、きっと事が上手く運びます。
今の俺に出来る事が、こうして過ごすという事なら、そうします。
不安にはなりますが、クィレルさんがそばに居てくださるので、心強いです。』



「ミョウジ、君が私を信用してくれるのは嬉しい。しかし諦観というか達観というか、何というか…
君は素直だ。少々不安になるのですが……
君に反抗期というものはありましたか?」



『困らせる事は沢山あったと思いますが。どうでしょう。
クィレルさんはどう思われますか。』



「このままで育っていくのを見ていたい気もしますね。」





情報は錯綜している。嘘か本当か判断出来ない。
人も同じで、「その人に化けた偽物じゃないか?」とか、「操られていないか?」とか、疑心暗鬼になっている。
そんな状況で働き詰めなのだから、当然疲れは常に限界だろう。

いくら名前との会話が、心が安らぐ時間とはいえ。
疲れは取れるのだろうか。

名前はクィレルが眠っているところを見たことがない。

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