28.


さて。

キングズ・クロス駅に着いたのはいいが、大変なのはこれからである。
飛行機に乗る為には、空港へ向かわなければならないのだ。

向かうはヒースロー空港。
日本を含めたアジア諸国の多数が就航している、渡英する日本人には馴染み深い空港である。





『…』





キングズ・クロス駅からヒースロー空港へ、地下鉄ピカデリー線に乗って二時間弱。
空港に着くのは夕方くらいだろうか。
半日から一日は機内で過ごす上に、乗り継ぎ便となると空港内で待たなければならない。

それに今は体が不自由な状況で、動物の移動もあるとなると、条件は厳しくなる。
それでも名前は日本に帰りたいのだ。
イギリス・日本の移動で、毎度緊張で胃と体を竦み上がらせても。





『…』





何とかヒースロー空港へ辿り着き、チェックインやセキュリティチェックなど、出国に向けて諸々の手続きを済ませる。
ペット(ネス)がいるので、その手続きもしなければならない。
クタクタになりながらも、やっと搭乗する。
夕焼け雲の上を飛行して一眠り。
日本に到着する頃には、夏真っ盛りとはいえ、空は藍色に染まっていた。
検疫や入国手続きなどを済ませ、手荷物を受け取り、税関検査で申告書を提出、やっと入国が出来る。

到着口を潜ると、イギリスとは違う、日本の湿気を含んだ夏の空気が肌を撫でた。
空調は効いているのだが、人の出入りがある以上、外気が入り込んでくるのだろう。
耳に入ってくるのは日本語で、名前は少し肩の力が抜けた。

柳岡の家の合鍵は渡されているが、いきなり帰宅したら驚かれるだろう。
公衆電話を探し歩き、メモを取っておいた柳岡の携帯へ電話を掛けた。
数回のコール音の後、「もしもし」と穏やかな声が聞こえた。





『柳岡さん。苗字です。』



「えっ、名前くん?…
ああそうか、そろそろ日本に戻る時期か。」



『はい。』



「何日くらいに日本に着くの?僕、迎えに行くわ。」



『…』



「名前くん?」



『あの、すみません。もう日本にいます。』



「えっ」



『関西国際空港です。』



「ええっ」





空港内の喧騒にも負けないくらい、柳岡は大きな声を出した。
思わず耳から受話器を遠ざけてしまうくらいの声量である。
ジムにいるらしく、遠くから「どうしたん?」などと柳岡に宛てたものであろう声が聞こえた。

「えらい大きな声出してたけど、なんかあったんですか」「名前くんや」「名前?あいつがどうかしたんですか」「日本に帰ってきたんや」「ああ、そうですか、それまだ繋がってます?そしたらちょっと」「ええからあっち行っとれ」「なんやねん、邪魔者扱いかいな」
そんな会話が聞こえた後に、「ごめんな」と声が戻ってきた。





『いいえ。急な話で申し訳ないです。』



「今どこ?空港内のどこにいるの?」



『え…第一ターミナルビルの一階の、公衆電話があるところです。』



「あ〜ッ、ごめん。そうやなくて…えーっと、
ベンチとか喫茶店とか、どこか落ち着けるところある?」



辺りを見回す。
『…
はい。ソファーがあります。』



「そしたらそこで待ってて。今から迎えに行くわ。」



『え』



「車飛ばしても一時間半くらいかかるけど、ごめんな。」



『柳岡さん』





名前を呼ぶ時には、既に通話は切れていた。
掛け直してみたが運転中らしく一向に繋がらない。
受話器を戻して荷物を手に取ると、近くソファーに腰掛けた。

一時間半くらい、長旅を終えた名前にとっては大した時間ではないだろう。
行き交う人々をぼんやり眺め、トイレに行ったり自動販売機で水を買ったりと、時折動く事はあったが、名前は大人しく待っていた。

買ってきた水を、ペットボトルの蓋にちょこっと出して、足元に置いた鳥籠の中に差し入れる。
ネスは美味しそうに飲んだ。
嘴を水に付け、上を向いて飲み込む。
その可愛らしい仕草に名前の表情も緩む。
例え正体がクィレルだとしても。





『…』




ふと気が付くと、名前の視界には、少しくたびれた運動靴が入ってきた。
爪先が名前の方に向いている。
どうやら名前の前で立ち止まっているようだった。





「名前くん。」





名前が顔を確かめるより先に名前が呼ばれた。
伏せていた顔を上げると、そこにはトレーニングウェアに身を包んだ柳岡が立っていた。
余程急いだのか、ジムにいたままの格好でやって来たらしい。

浮かべる表情に再会の喜びは感じさせない。
驚きや不安で揺れる目で、じっと名前を見つめていた。





「それ、どうしたの?」





数秒の間を置いて出てきた言葉は、名前の傍らにある松葉杖を指していた。
ここで素早く、何でも無いという感じで、それらしい言葉を並べて言い逃れたら良いのだが。
嘘も冗談もろくに吐けない、口下手な名前はすぐに言葉が出てこない。
黙ってしまったせいで、柳岡の目にはますます深刻そうに映った。





『……
ちょっと…』



「ちょっとって何やねん。怪我かいな。」



『……』





何とか話そうと口を開きかけるが、ともすれば、ありのままを話してしまいそうになる。
その度に名前は何度も言葉を呑み込んで、唇を真一文字に引き結んだ。

空港内の喧騒は無関係に二人を包む。

言い淀む名前を見下ろして、柳岡は静かに溜め息を吐いた。





「とにかく、車乗ろうか。駐車場まで歩くけど大丈夫?車椅子借りれるかも…」



『大丈夫です。』



「本当?」



『はい。』



「それなら、ええけど。ゆっくり歩こう。」





柳岡は名前の荷物は松葉杖以外、全てを持った。
歩調を合わせ、段差がある所や人通りが多い所では、特に気にしてくれる。

駐車場に到着して車に乗り込むと、すぐに高速に入った。
きらびやかなネオンが通り過ぎていく。





「もうすぐ夜ご飯やけど、名前くん。何か食べたいものある?」



『…』





話さなくてはと気を張っていたのか、出てきた話題に、名前は瞬時に反応出来なかった。





『…ご飯ですか。』



「もしかして、もう食べた?」



『あ、いいえ。まだです。
ええと……お味噌汁とご飯が食べたいです。』



「外でって思ったけど、それなら家の方がいいか。」





笑いを含んだ穏やかな声だ。
横目で見てみれば、柳岡はちょっと口角を上げて微笑んだ表情である。
ラジオから流れてくる音楽に合わせてフンフンと鼻歌を歌ったりして、先程の深刻そうな雰囲気は微塵も持ち合わせていない。

いつまた話を再び取り上げるのか───
名前はラジオを楽しむ余裕など無い。





「布団干してないな。乾燥機かけとこうか。
名前くんは荷解きしてなさい。」



『すみません、お願いします。』





洗濯物が溜まっていたり、ビニール袋が落ちていたりと、柳岡宅はちょっと荒れていた。
名前がいる時はこざっぱりしていたが、急に帰って来ると聞いて準備する暇も無かったのだから、仕方ない話だ。

寝室で布団を出している柳岡をよそに、名前は荷解きを済ませて、鳥籠からネスを出した。
止まり木に止まらせると、ネスは翼を広げたり伸びをしたり、長旅のせいで凝り固まった体をほぐし始める。
その間に広いケージを用意して、ネスの食事と水も用意し、手近な所を掃除した。

何とはなしに柳岡を確認すると、寝室にはいない。
布団乾燥機が音を立てて作動しているだけだった。
いつの間に移動したのか、廊下から話し声が聞こえる。
居間に戻ってきた柳岡の手に携帯が握られていたので、おそらくジムに連絡でも入れたのだろう。





「お待たせ。お腹減ったやろ?ご飯作るわ。」



『手伝います。』



「有り難いけど、今の名前くんには危なっかしくて任せれんな。
ご飯は僕が作るから、座って待ってて。」





グイグイ背中を押されて椅子に座らせられる。
テレビをつけてリモコンを渡すと、柳岡は台所へ行った。
帰宅途中に寄ったスーパーで購入した食材をビニール袋から取り出し、使う分としまう分とに分けていく。

やがて台所からは包丁とまな板が当たるトントンという音、食材を刻む音が聞こえてくる。
バラエティ番組が流れ、居間には芸能人の笑い声が響いていた。

視線はテレビに向かっていたがちっとも番組内容は入ってこない。
相変わらず名前の頭は「話さなくてはいけない」事に占められていたからだ。





『…』





汽車内ではセドリックに相談して「危険を承知してでも相手が知りたがれば話すべき」という結論に至ったが、それは魔法使いの、それも名前より先輩ではあるが、子どもの話だ。

柳岡は魔法使いなど縁もゆかりも無い、いわゆるマグルとして生きてきたはずだ。
名前の両親が果たして魔法使いだと打ち明けたのか、今となっては確かめようも無い。
魔法使いを御伽話のキャラクターだと思っているだろうし、ヴォルデモートがどんなに恐ろしいか、言葉にして伝えても現実的に受け止められるか疑問である。

止まり木からこちらを見つめるネスに、名前は目を移す。
クィレルならどう話すだろうか。





『…』





そもそも、話す事は正しいのだろうか。
今の体の状態について、柳岡は必ず尋ねるだろう。
知る事は危険だと伝えて、それでも知りたいと言ったら、名前は聞かれるままに教えていいのだろうか。それは果たして正しい事か。

見え見えの嘘を吐くか、沈黙を通すか、教えられないと断るか。
曖昧に伝えて、危険を知らせるか。

柳岡が、何事も無く、今まで通り過ごしていける。
たとえ柳岡の心を傷付ける結果になっても、それで平和に生きていけるのなら、何も伝えない方がいいのだろうか。
ホグワーツで療養中にでも、ダンブルドアかクィレルに相談すべきだったのだ。





「名前くん、調子悪いの?」





声を掛けられて見ると、コップと麦茶を持った柳岡が、心配そうにこちらを見ていた。

テーブルには食事が並べられている。





『いいえ。大丈夫です。
何もお手伝い出来なくてごめんなさい。』



「気にせんといて。でも、名前くん。
僕は君に何があって、どういう状態か知りたいんや。」





向かいの椅子に腰掛けて、柳岡は箸を取った。
「いただきます」と食べ始めたので、名前も慌てて手を合わせる。

柳岡は不自然なほど自然に見えて、何でも無いふうを装っているようにも見えた。





「その、いじめとかじゃ」



『無いです。』



「じゃあ怪我?」



『……』



「違うんやな。」



『柳岡さん。…あの……
柳岡さんは、…
…超能力とか、霊能力とかって、信じますか。』



「せやなあ。どっちかって言うと、信じてるかな。」



『…そうですか、』



「だって、苗字…名前くんのご両親、魔法使いやったし。名前くんもそうやろ?」



『…』



「魔法以外にもそういう能力、あってもおかしくないと思うな。
特に名前くんのお母さんは、元々超能力者というか、霊能力者というか、変わった力があったからね。他にもおるんとちゃう?」



『………
……』





耳に入ってきた言葉に、頭の中で準備していた言おうとしていた事は、一瞬で崩れ去った。

柳岡は両親が、名前が、魔法使いだと知っていた。
話題に出た事は無い。
そんな素振りはおくびにも見せなかった。
知っている雰囲気など微塵も出さなかった。
今も尚、平然と食事を進めている。
名前は衝撃を受けて固まっているのにだ。

食事の手が止まっているのに気が付いて、柳岡は不思議そうにこちらを見た。





「どうしたの。」



『………
ご存知だったんですか。』



「えっ?ああ…魔法使い?
超能力?霊能力?」



『…全部です。』



「昔、ご両親が見せてくれたからね。
なんや危ない事に巻き込まれてるらしいやん。」



『…』



「去年の今ぐらいかな。自分らにもしもの事があったら君のことを頼むってお願いされたんや。
そんな縁起でもないって、その時は思ってたけど……。」





予想外にも柳岡は事情に通じていた。
それも名前の知らない所で、知らない話が進んでいたのだ。

知らないフリをしてきたのか?
名前が当然知っているものとして、単に話題に出なかったから話さなかったのか?

気分が悪くなるくらい頭を抱えていたのに。
考える事も出来ないくらいに、名前はすっかり脱力した。





「もしかして、名前くんのその、松葉杖の理由と関係ある?」





しかも見通しバッチリだ。
肯定の返事をしたが、殆ど空気である。





「話しにくいことなら聞かないでおこうか。」





気まで遣われてしまった。
こうなってしまってはもう、隠す事も嘘も吐けない。
挑戦したところで、どちらも失敗に終わるだろうけども。

疲労感に襲われながら、名前は口を開いた。





『話して良いのかいけないのか、俺には判断出来ないんです。』



「タブーかもしれないから、まあ、妥当なんやないか。」



『でも、柳岡さんは知りたいとは思われませんか。』



「そりゃあ知りたいけど、僕は魔法の世界の決まり事なんかよう知らん。
それでお互い危ない目に合っては大変やろ。
僕も名前くんも、そうなったら、きっと後悔する。」



『……』



「聞くのは、話せるのが分かってからや。ようはタイミングやな。
魔法使いの世界と、僕みたいな普通の人の世界と、どこか知らないところで上手く成り立っているんやろ。
それを崩したらあかん。」



『……』



「でもな、僕……」





それまで流暢に話していたのに、
急に柳岡は歯切れの悪い、迷いのある声音になった。





「名前くんが心配や。」



『この、体の事ですか。』



「それもある。」



『ちゃんと訓練すれば元通りです。
一時的なものですよ。』



「一時的なものでも。」



『…』



「心配なんや。名前くんのな…、
苗字……
ご両親の、事を思うとな…」



『…』



「本当に、無事でいられるのかって。不安になる。」





両親と柳岡は長い付き合いがあり、特に父親とは仲が良かった。
同年代、同じジム。
階級こそ違えど、互いに刺激し合っていたのだろう。

その父親が死に、母親も心を病んで、死に追いやられた。
赤ん坊の頃から知っている名前まで無くしてしまったら、その心情は容易に想像出来る。
柳岡は深く悲しむだろう。





「ごめん、長い話して。ご飯冷めてしまうわな。」



『いいえ。気にしないでください、柳岡さん。』





柳岡は名前の無事を願っている。
名前も柳岡の無事を願っている。
勿論、それは柳岡だけに抱く願いではない。
ジムの先輩である千堂も、友人であるハリーも、ロンも、ハーマイオニーも───名前を上げたらキリが無い。

自分の命を軽んじているわけではないが、身を呈して防ごうと行動してしまう。
結果、周囲の人々を悲しませたり困らせたりする。
名前は散々、生まれ持った力が強いだの大きいだのと言われてきたが、いざという場面で、上手く使いこなせた試しがない。
ヴォルデモート復活の今、このままではいよいよ足手まといになる。

自身の能力を見詰め直さなければならない。

- 200 -


[*前] | [次#]
ページ:




×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -