ダイアゴン横丁にて。(47000/かふぃ様へ)※前HPから。






『あ』





小さな声。次に大きな音が畔に響く。
雪で濡れた石に足を取られ、名前は豪快にスッ転んだ。

咄嗟に付いた掌と膝がジーンと痛み、名前は体勢をそのままにじっと痛みに耐えた。

その時である。
鞄のポケットからガラスの小瓶が転がり出た。





『…』





視界の端に動く物を見つけ、伏せていた顔を上げてそちらを見た。
ガラスの小瓶が転がっている。

何事も無かったかのように顔を伏せてから、直後もう一度そちらを見た。二度見である。

次に鞄を見た。確かめるように触る。
ポケットの中は空っぽだ。





『…』





もう一度小瓶に目を遣る名前の顔色は、転んだ当初よりも若干悪くなっていた。

小瓶は濡れた石の上を転がっていく。
だんだんと加速して、今や跳ねるように転がっている。





『…』





そうして小瓶は湖へ辿り着いた。
幸い中は空だったので、プカプカと浮いていた。
しかし安堵したのも束の間、湖の中から現れた触手がサッと小瓶を引きずり込んだのだ。
この湖に住むオオイカの仕業である。





『…』





僅か数秒間の内に起きた出来事であった。

濡れた冷たい石の上に手と膝をついたまま、名前は暫く動けずにいた。















その週の休み、早朝。
いつも通りトレーニングやシャワーを済ませてから、名前はダイアゴン横丁に出掛ける準備を始めた。
無くした小瓶を買う為と、制服を受け取る為だ。

名前の成長は止まる事を知らない。
成長し続ける身体に、身に付けるものはあっという間に合わなくなっていく。
元々仕立ててもらった制服等を受け取りに行く予定があったので、小瓶を買うのはそのついでだと思えば幾分気が晴れた。

小瓶を買うに至った経緯をハリー達に話したら大笑いされてしまったのだ。
特にジョージとフレッドにはからかう格好のネタになっている。





「ナマエ、出掛けるの?」



『…』





準備を終えて談話室に下りると、暖炉の前にいたハリーが素早く気が付いた。

見ると、ロンとハーマイオニーもいる。
テーブルには羊皮紙やら本やらが広げられていた。
勉強をしているらしい。





『…ダイアゴン横丁に行ってくる。』



「いってらっしゃい、ナマエ。
曇ってるから、天気が崩れる前に用事を済ませた方がいいわよ。」



「いってらっしゃい。足元には気をつけてね、ナマエ。
雪が降った後で濡れてるからさ。」



「そうだよ。ナマエ、ぼんやりして怪我増やすなよ。あ、時間あったらお土産よろしくね!」



『……』





心配からの言葉だろう。しかし三人の表情(特にハリーとロン)はやけに笑顔だ。
おそらく三人の脳裏には、名前がスッ転んだ姿が浮かんでいるのだろう。
三人の笑顔を見つめて、名前は曖昧に頷く。
それからグリフィンドール寮を出て、廊下を歩き、階段を下りる。

玄関を出るとハーマイオニーが言っていた通り、重たい雲が空を覆っていた。
冷たい風がひっきりなしに吹いている。
露出した肌に刺すような痛みを感じるほどだ。

マフラーに顔を埋め、なるべく肌を隠して、名前は歩き始めた。





『…』





この寒さのせいか、中途半端な時期のせいか。
ダイアゴン横丁は始業式近日ほどの混雑はなかった。
それでも人の合間を縫うように歩かなければならないが、名前は慣れたような足取りで服屋に向かった。

服屋について扉を開けると、暖かな空気が名前を包んだ。





『こんにちは。』



「いらっしゃい。ああ!坊やね…
制服は出来上がってるわよ。今持ってくるわね。」





店主は明るい笑顔を向けてから、店の奥へ消えた。
どんどん成長する名前は、身に付けるものが替わるのも早い。
何度も服屋に行くうちに、すっかり顔を覚えられてしまったようだ。





「はい、おまたせ。ここで着替えていく?」



『いいえ。持って帰ります。今日は休日ですから…』



「アハハ!そりゃそうね。じゃあ靴はどうする?」



『…ここで、履き替えます。』



「履いていた靴はこちらで処分してもよろしいかしら?」



『はい。お願いします。』





ローファーもスニーカーも、もう合わなくなっていた。
合わない靴を履いたまま歩くのはつらい。
店主から新品のローファーを受け取って、早速足を滑り込ませた。

傷ひとつ無いピカピカのローファーだ。

ピッタリだが、まだまだ革が固い。
履いている内に柔らかくなるだろう。





『ありがとうございました。』



「またいつでもいらっしゃい。」





制服の入った袋を抱えて店を出た。
冷えた空気が体を包む。
あまりの寒さに身を縮こまらせた。

暖かい服屋に戻りたくなるが、薬問屋に用がある。
幸いな事に薬問屋は服屋の隣にある。

冷たい風から逃げるようにして、名前は早足で薬問屋に入った。





『…』





薬問屋は服屋のように暖かくはなかった。
店内は薄暗く、少し肌寒い。
そして異様な匂いが漂っている。

店内の薄暗さも、肌寒さも、異様な匂いも、毎度の事だ。
無表情を湛えたまま、店の中を見て回る。

瓶詰めにされた何かの目玉。
干からびた生物らしき物体。
丸々太った大量の白い幼虫。
……

時折、それらを手に取っては近くで見て、のんびりとウインドーショッピングを楽しむ。
ふと、この店の匂いに似つかわしくない匂いが鼻を擽った。





『…』





不意に名前は顔を上げて、辺りをゆっくりと見回した。
この陰鬱な雰囲気漂う店に似つかわしくない匂いが、ふと鼻を掠めたからだった。

慎重に匂いを辿りながら、薄暗い店内を歩く。

そうして辿り着いた先にあったのは、白い花の瓶詰めだった。
どうやら匂いの元はこの花らしい。





『…』





顔を寄せると、匂いは一層強く感じられる。
瓶はしっかり封をしているのに、頭がクラクラする。

気が遠くなるほど甘い香りだ。

けれどどこか懐かしい匂いだ。





「何か思い出したい事でもあるのかね。」





耳元で低く囁かれた。

ビクリ。名前の肩が僅かに揺れる。
声の聞こえた方にゆっくりと顔を向けた。

相手の顔を見て、名前は珍しく目を見開いた。
それも第三者には分からない程度ではあったが。





『スネイプ先生。』



「……」





薄暗い店内に溶け込むかのように、
スネイプはいつもの真っ黒いマントと、真っ黒い服を身に付けて立っていた。

驚き固まる名前を見つめ、少々顔をしかめている。

とはいえ。
彼はいつもしかめっ面なので、機嫌が良いか悪いかなど名前には分からない。





「……」





薄い唇を引き結び、スネイプは何も言わない。
黙ったまま名前を見つめていた。
見つめられる名前はといえば、こちらも何も言わない。
というよりも、話せる状態ではなかった。

休日の午後。ダイアゴン横丁の薬問屋。
そこで学校の教授、スネイプに出会う。
不思議ではない。
スネイプは魔法薬の教師で、ここは薬問屋だ。
きっと用事があったのだろう。
しかし、声を掛けられたのだ。
スネイプが嫌う、グリフィンドールの生徒である、名前に。

登場に驚いているのか、展開についていけないのか。
名前は目の前に立つスネイプを、半ば呆然と見つめている。





『…』



「…」





二人が見つめ合ったのは、時間にすれば数秒だろう。
不意に、スネイプの目が動いた。

視線は名前の背後に向けられる。
その視線につられるように、首を捻ってそちらを見る。

薬の材料が瓶詰めにされて、棚にずらりと並んでいる。





「何か、思い出せたかね。」



『…』





声に反応して、名前はスネイプに向き直る。
けれど話の内容は理解出来ないようで、カクリと首を傾げた。

出会い頭に放った言葉と似たような内容だった。
しかし何を言わんとしているのか分からない。

スネイプの方眉がピクリと持ち上がる。
次いでゆっくりと腕が持ち上がり、名前の背後を指差した。





「その花の匂いを」





スネイプの言った「花」が、あの瓶詰めの白い花を指しているという事は、すぐに気付いた。

背後の棚には白い花の瓶詰めがある。
指差しているのはそれだろう。





「嗅いでいたのではないのかね。
あんなに顔を近付けて…」





名前は少し返事に躊躇って、やがて頷きと共に『はい』と言った。

見られていたのだ。

特に悪戯等はしていないが、何となく不安になる。





「この花の強い香りは、忘れていた記憶を思い出させる効果がある。」





白い花の効果を言っているらしい。

少し黙って、それからまた開かれた口からは、何故かそんな話が始まった。





「それがその者にとって幸福な記憶か、はたまた嫌な記憶かは、思い出すまで分からん。……
勿論Mr.ミョウジは効果を知った上で近付いたのだろう?まさか知らないはずがない。」



『……』



「ほう。…どうやらMr.ミョウジは、この花の香りがどのような効果をもたらすかは知らぬまま近付いたようだ。なんとも、君の好奇心は子猫のように旺盛だな。……
…先程から―――」





スネイプはじろりと名前を見た。
睨むような視線だ。
名前は少し身を強張らせた。





「君を見ていたが……少々警戒心というものが足りないのではないかね。」



『…見ていた、…』



「気付くはずもない。」





どうやら店内には先客でスネイプがいて、店の中を見て回るところを見られていたらしい。





「好奇心は猫をも殺す。…この意味が分かるかね、Mr.ミョウジ。
過剰な好奇心は身を滅ぼしかねん。先程の君の事だ。」



『…』



「強力な薬は強力な毒にもなるのだ。扱いを知らぬままに手を出すべきではない。
知らなかったでは済まされん…。」



『…すみません。今後は気を付けます。』





店の中の商品を手に取って眺めていた事を注意されたようだ。
謝れば、スネイプは片方の眉を上げて名前を見た。





「…用が済んだのならば、さっさと帰りたまえ。」



『……』





そこで名前は思い出したように、ガラスの小瓶を取りに行った。
その間も名前の目はまだ見慣れない商品に釘付けで、キョロキョロと視線だけが店内を泳ぐ。
しかし注意された事と、薬問屋の出入口からスネイプが監視でもするかのようにじっと見つめている事もあり、遠くから見るだけに留まった。





『…』





小瓶を購入して出口に向かうと、そこにはまだスネイプが立っていた。

スネイプが名前を見るので、名前の視線もスネイプに向く。
じっと見つめれば、スネイプの眉間の皺が深くなった。





「用が済んだのならばさっさと帰りたまえ。」
ついさっき言った言葉と、全く同じ事を言う。



『はい。』



「…」





素直な返事とは裏腹に、名前の視線は落ち着かない。

スネイプはますます眉間の皺を深くさせた。
疑っていますと言わんばかりの表情だ。





「まだ何か用事があるのかね。」



『…用事は、……済みました。』





歯切れの悪い返事に、スネイプは片方の眉を器用に上げる。

ダイアゴン横丁に来た目的は果たしたのだから、嘘は吐いていない。

けれど名前の視線は落ち着かない。
無表情のまま目を泳がせる名前を、スネイプは黙って見つめる。





『……あの…』



「…」



『少し、見て回りたいんです。
あんまり見たことが無いので…』



「………」





沈黙に耐えられなかったのか。
視線に耐えられなかったのか。
小さな声で、名前はついに白状した。

スネイプは口を閉じたままだ。
眉間の皺はぐっと深くなったが。

けれど嫌味交じりのお説教が始まるでもなく、難癖をつけて怒るでもなく、
変わらず咎めるような視線は向けてくるが、スネイプは何も言わなかった。





『…』





これに困ったのは名前である。
視線は合っているのに何も言わないのだから。

しかし、店先でいつまでも見つめ合うわけにもいかない。
射抜くような視線は気になるようだが、名前は頭を下げてスネイプから離れた。





『…』





そうして歩き始めて直ぐに、スッと視界の端に黒い影が入り込んだ。

見ると、仏頂面をしたスネイプが歩いている。





『スネイプ先生もお買い物ですか。』



「買い物は済んでいる。」



『…』





こちらを少しも見ずに、スネイプは早口にそう言った。
チラリ、名前はスネイプの手を見る。

右手、左手。

何も持ってはいないが、名前は『そうですか』と納得したように頷いた。





『……』



「……」





人波に紛れて、宛もなく歩く。
その隣にスネイプが並んで歩く。

端から見れば連れ立って歩いているように見えるだろう。
しかし二人の間に会話はない。

チラリ、名前はスネイプを見る。
スネイプは真っ直ぐ前を見ており、ちっともこちらを見ない。

会話はない。
視線すら交わらない。





『スネイプ先生。』





呼び掛ける名前の声は小さく、雑踏に掻き消されてしまう。
けれどスネイプは聞こえたようで、前方を見つめていた目は名前に向けられた。

顔も体も前に向けたまま。
歩く速度も変えないまま。

人混みの中を歩いているというのに、不思議とスネイプは人にぶつからずに歩いている。





「何だね。」



『お買い物は、終わっているんですよね。』



「先程そう申し上げたはずだが。」



『はい。あの、…
…まだ何か、用事があるのですか。』





名前はスネイプのように器用ではなかった。
スネイプの顔と前方、交互に見ながら歩を進めていた。
だから、スネイプの表情が変化したことに対して、反応が少し遅れてしまった。

ほんの数秒程度ではあったが、名前が気付いた時には、スネイプは分かりやすく不機嫌な表情を浮かべていた。
横から見る眉間は盛り上がっており、そこにかなりの力が込められている事が分かる。

怖じ気づいたのか、名前は口を閉ざして、視線を前方に向けた。





「Mr.ミョウジの買い物に少々ご一緒させてもらおうかと思いましてね。」





聞こえた声は、意外にも普段と変わらない調子だった。
そして、その口から出た言葉も意外なものだった。

思わず足を止めかけた名前の腕を、初めからそうなる事が分かっていたかのように、スネイプの手が掴む。

止まる間も無く引き摺られた。
転びそうになる名前の腕を、スネイプは容赦なく引っ張る。





「先程も店内で話したことだが」



『…』



「まさか、数分前の話を忘れるようなミョウジではないだろう。」





転ばないように足元を見ていた名前の頭上で、スネイプはそう話をし始めた。

―――扱いを知らぬままに手を出すべきではない。知らなかったでは済まされん…
確か、そんなふうな事を言っていた。





『無闇に手は出しません。』



「無論そうしていただきたい。
先程の君を見ていた我が輩としては信じがたい言葉だがね。」



『…』





言い返せない。

確かに、誘惑は多かった。
これまで人間の世界で生きてきた名前にとって、魔法はお伽噺の世界でしかない。
それが現実にあると知った今、間近に見る魔法界に興味が尽きなかった。

やっと持ち直して、自分のペースで歩き始めると、スネイプは掴んでいた手を離した。





「さあ、好きにしたまえ。我が輩は君に付いて回るが、気にすることはない。
大事を引き起こす前に教師として止めるだけだ。」



『……』





名前の言葉を信じていないのが見え見えの表情である。隠す気も無いようだが。
しかしいつまでも立ち往生しているわけにもいかない。
お土産を頼まれていたことを思い出し、名前は再び歩き始めた。

どの店にどんな物があるか把握していないので、時折立ち止まってはショーウインドーを覗いた。
時には店に入って、中を見て回り、気が済めば出ていく。
勿論、気に入る物があれば購入した。
そんな事が何度も繰り返されたが、スネイプは文句も言わず黙って付いて回った。
監視の目は痛いほどに鋭かったが。





「まさかとは思うが、君は普段菓子ばかり食べているのではないかね。」





少し苛立った低い声は、雑踏の中でもハッキリ名前の耳に届く。
思わずといった様子でスネイプを見た。
いつもの不機嫌そうな表情だったが、先の声音のせいか、名前の目には普段以上に機嫌が悪そうに映る。

歩みは止めずに、名前は手元に視線を落とす。
自身の制服とローファーを除けば、両手に収まるもの全てが菓子である。

お菓子をお土産として頼まれたわけではない。
結果として購入したのが菓子ばかりであった。
それだけのことだ。





『これは頼まれたものです。』



「ご友人にかね。」



『はい。』





コクリ。頷きとともに返事をした。
手に抱えた菓子は、お土産としては量が多い。

スネイプは鼻から溜め息を吐いた。





「楽しそうで何よりだ。」





少し刺のある口調だった。
名前は顔を上げて、じっとスネイプを見た。

凝視する名前の顔を見て、スネイプは少し意外そうにした。
第三者からも分かるくらいに、名前の目が見開かれている。





「何だね。」





慌てた様子で名前は顔を伏せた。
しかし長身の名前である。
顔を伏せても、見上げてくるスネイプの視線からは逃れられない。

足下を見つめる名前を、スネイプはじっと見る。





『…すみません。』






殆ど聞こえないような声だった。
距離が近いから聞こえたのだ。

相変わらずの無表情だったが、名前は何やらショックを受けているようである。

しばしスネイプは黙り込み、観察でもするかのように名前を見つめた。
それからおもむろに口を開く。





「……申し訳ないが君が何に対して謝っているのか、我輩には想像がつかない。」



『…俺、……』



「…」



『……』



「…」



『俺、楽しい……と、
思っていたみたいです。…』



「…」





―――楽しそうで何より。
これは勿論、皮肉で言ったつもりだ。

けれど名前はその言葉を本気にして、短時間で考えを巡らせたらしい。
そして「楽しい」という答えに行き着いた。

真に受けるとは思わなかったのか、スネイプは押し黙った。
少し反応に困ったのかもしれない。

そんなスネイプの様子には気が付かず、名前は再び口を開いた。





『スネイプ先生が付き合って下さるのに、俺一人が楽しむのは失礼でした。』





言って名前は、それから口数をめっきり減らした。
どこか上の空で歩いていて、店先に立ってもぼんやりしているようだった。

―――スネイプに怒られた
もしくは、
―――今現在も怒っている
そう思ったのかもしれない。

それか、「教師であるスネイプが、休日の貴重な時間を使ってまでわざわざ買い物に付き合っているのに、自分が楽しむべきではない」と反省したのかもしれない。





「(そんなところだろう)」





なかなかパターンが読みにくい名前ではあったが、スネイプのその憶測は大体合っていた。

見るからに名前は落ち込んでいたが、だからと言ってフォローするスネイプではない。
肩を落とし背中を丸めて歩く名前を、横目でチラリと見るだけだった。





―――ぽつ。





『…』





頬に冷たい物が当たり、思わず立ち止まる。
指先で頬に触れてみるが何も付いていない。

空を見上げる。
頭上には曇天が広がっていた。
今にも降りだしそうな、濃い灰色の重たい雲だ。

見つめている矢先、またぽつ、と冷たい物が当たった。
ぱちぱちと瞬きを繰り返す一瞬の内に、それはどしゃ降りに変わる。





「…これならばすぐに止むだろう。」





一緒になって空を見上げていたスネイプが、呟くようにそう言った。
それから前方に向き直り、いつもの大股で歩き始める。普段より少し早足だ。

遠ざかる黒い背中を、名前はぼんやりとした様子で見つめる。
雑踏の中で立ち止まる名前に、周囲の人々は冷たい目を向けた。

遠ざかる背中は人混みに紛れて消えた。
かと思うと、大股早足で戻ってきた。
その勢いと般若のような表情に気圧されてか、名前はビシリと固まる。蛇に睨まれた蛙である。
棒立ちになる名前の手首辺りを、スネイプは奪い取るかの如く掴んだ。





「濡れ鼠になりたいのかね?付いてきたまえ。」



『…』





半ば引き摺られるようにして歩き始める。
どこに向かっているのかは分からなかった。

周りでは買い物客が慌てふためいて右往左往している。
手近な店に入る者、店の軒下に入って雨を凌ぐ者もいた。

新品のローファーで靴擦れした名前は、足をもたつかせながら、
訳も分からずスネイプに手を引かれるまま、大人しく歩いた。





『…』





そうして辿り着いたのは「漏れ鍋」だった。
店の中は突然の雨により混んではいたが、それでも始業式近日よりはずっと空いている。
そうやって店の中を見回していた名前を、スネイプはやはり引き摺るようにして窓側のテーブル席に連れていった。
そこでやっと、掴まれていた手首が解放された。





『…』





そのまま帰ることも出来ただろうに、どうして「漏れ鍋」に連れてきたのか。
その理由を問い掛けるように、名前はスネイプを見つめた。

その視線に気付いてか、気付いていないのか。
スネイプは懐から取り出したハンカチで軽く雨の滴を拭っていた。
それから立ったままの名前を、至極鬱陶しそうに見た。





「座りたまえ。」





一言はっきり言われて、名前は遠慮がちに向かい側へ座った。





「…」



『…』





座ったものの、会話は始まらなかった。
スネイプは窓の外を眺めて、名前はじっと顔を伏せていた。

店内の喧騒と雨音が同じ空間にあるとは思えない。
まるで別世界のように、二人のいる空間とは切り離されている。

ふと視線を感じて顔を上げれば、いつの間にかスネイプはこちらを見ていた。





「拭くものは。」



『……』



「……」





唐突に開かれた口から出てきた言葉に、名前は目をぱちくりさせた。
何を言ったのか分からない、といった反応だ。

何も答えない名前からどういう答えを受け取ったのか、スネイプは自身のハンカチを再び取り出して、名前の顔を拭った。





『……』





ハンカチからは枯れ草のような匂いがした。

あまりにも素早く、思いもよらない動作に反応も出来ない。
時間にすれば数秒だっただろう。
その数秒、名前の意識はどこかへ行ってしまったようだった。
瞬きも忘れて、ただされるがままだ。

ハンカチを畳んでしまうところで、名前はようやく意識を取り戻した。





『ありがとうございます。』



「ハンカチくらい持ち歩きたまえ。」





ハンカチはポケットの中に入っていた。

ただ出す前に、スネイプが早合点してしまっただけだ。
けれど低い声はいつもと変わらない。
ハンカチを出さないままでも良かったのかもしれない。

そこで店主のトムがやって来て、紅茶が二つ、クッキーの入った皿が一つ運ばれてきた。
いつの間に頼んでいたらしい。
名前の前には湯気の立つ紅茶と、クッキーの入った皿が置かれた。





『スネイプ先生……』



「……」





戸惑うように、どこか引っ掛かるように、小さな声で呼ぶ。
スネイプはチラリと名前を見た。
それだけだった。
紅茶のカップを摘まむように持ち上げて、口へと運ぶ。





『……頂いて、よろしいのですか。』



「冷める前に飲むといい。…
冷たいのがお好みならば、無理にとは言わないがね。好きにしたまえ。」



『……』





名前は再び、紅茶とクッキーを見下ろした。
湯気の立つ紅茶の香り、焼き立てのクッキーの香り、鼻をくすぐる。





『いただきます。』



「……」



『ありがとうございます。スネイプ先生。…』





カップを包むように持つ。
紅茶の熱が、じんと掌を痺れさせる。
思っていたよりも体は冷えていたようだ。





「食事はきちんと摂っているのかね。」



『…』





話がとんでもなく飛躍している。名前はスネイプを見た。
スネイプはいつもの不機嫌そうな表情で、名前の返事を待っているようだった。

沈黙に耐えられない質ではない。
とてもそんな風には見えない。
しかし、会話を楽しむようにも見えない。

スネイプが何を言わんとしているのか、名前には分からない。





『……摂っています。三食…。』



「そのわりに顔色は優れませんな。」





それはお互い様だろう。とは、口が裂けても言えないが。

スネイプは口を閉じた。
少しして、また開く。





「自身がどのような印象を抱かれているのか。考えたことはあるかね、Mr.ミョウジ。」



『…』





またもや話が飛躍した。名前はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
質問の意図は分からないが、名前は素直に記憶を巡らせた。
そうして、コクリと頷いた。

幼い頃から背の高い名前は、あらゆる場面で注目された。
本人にその気がなくても、群衆の中で飛び出る名前は目立つ存在だった。

名前の性格上、目立つのは避けたい事だ。
だからこそ人よりも目立たないよう行動している。
そうして今の名前がある。





「殆どの教師陣が、Mr.ミョウジ。君のことを手の掛からない落ち着いた子どもだと思っている。」



『……』



「しかしそれは間違いだ。どうかね、Mr.ミョウジ。」





鋭い目で見つめられる。
否定を許さない目付きだ。

名前は頷くしかなかった。





『…はい。』





「そう。お前はまるで幼い子どものようだ。
体ばかり無駄に成長しているせいで、皆勘違いをしているのだ。ただ大人しいだけの子どもを、大人だと。」





口調が少しばかり荒くなり、名前は身を強張らせた。

話が店内が行われたのは救いだったかもしれない。
ピリピリした雰囲気が談笑の声にいくらか紛れる。





「食事の時は君の友人が側にいて、甲斐甲斐しく世話を焼くのだろう。」



『…』



「しかし一人で外出した途端、何も知らずに危険に足を突っ込む。
我輩が偶々見付けたから何事もなく済んだのだ。そうでなければどうなっていたか。
この数年で、貴様は何度我々教師の肝を冷やしたか知っているのかね?
後先考えず行動し、結果怪我を負うのだ。
お前はいつも誰かが見ていなければならないほど、幼くはないだろう。」





目立たないよう行動している。そのわりに、名前は毎年何らかの騒動に巻き込まれている。
スネイプはこの矛盾に苛立っているらしかった。

今日偶然にも買い物に出会したが、この一件が、話をする引き金になったようだ。
もしかしたら、募り積もっていたのかもしれない。





『…』





名前は唇を引き結び、話に耳を傾けていた。
名前自身、自覚があったのだ。

目立つことはしたくない。
そう思いながら、自ら巻き込まれていく。
その度に教師陣や家族、友人にさえ心配をかける。

どうも名前は時折突っ走る傾向があるらしい。





「あるいは、それも良いのかもしれない。
一度痛い目にあえば懲りるだろう。それぐらいの知能はあるはずだ。
しかしその一度で命を落とす可能性がある。
ご忠告申し上げているのが分かるかね、ミョウジ。」





黙ったままの名前を暫し見つめてから、スネイプは呟くようにそう言った。
先程よりも幾分落ち着いた声だった。
苛立ちを吐き出して、いくらか気持ちが落ち着いたのかもしれない。





「我輩は君の為を思って言っているのだ。」






普段のスネイプからは想像できない台詞だ。
けれどその顔も声も、真剣そのものだった。

睨み付けるような黒い目から、いつもの冷たさはなりを潜めている。
読み取れるのは心配や苛立ち。それ以外にも感情が入り交じり、複雑な表情だった。
グリフィンドールの、それも一介の生徒に対して、向ける目ではなかった。

例えるならばそれは、ハリーに向ける底知れぬ憎悪のようなものに似ている。
憎悪そのものではない。もっと沢山の感情が入り交じった目だ。
今名前を見るスネイプの目は、その目に似ていた。
込められた感情はハリーとは別のものではあるようだが。
ハリーと同じように、名前にも、何か別の思い入れを向けているのかもしれない。





『…』



「今日の事はよく覚えていたまえ。」



『…はい。』





話は済んだらしい。スネイプは窓の外に目を遣った。
名前は景色など眺めている余裕はなかった。

スネイプが自身を気に掛ける理由や、複雑な視線の意味を探すのに必死だった。





「…冷たい方がお好みかね。」





ぼそりと呟かれた言葉を、直ぐに理解することは出来なかった。
一拍遅れて、つい、と、紅茶に目がいく。

掌に包むように持ったままのカップ。
見れば湯気は無い。
掌の中で随分と冷めていた。

名前は慌てた様子で紅茶を飲み、クッキーを食べ始めた。
その様子を少し見てから、スネイプは窓の外を眺める。

とっくに雨は止んでいた。



紅茶の入っていたカップも、クッキーの並んでいた皿も、すっかり空になってから、ようやく二人は席を立った。














.















かふぃ様へ捧げます。
メールでのリクエスト、ありがとうございました。とってもとっても遅くなってしまい申し訳ないです。
覚えていらっしゃるのでしょうか…?期間があきすぎて忘れられているのでは…。すみません…。
交流場の不具合でしょうか。わざわざメールありがとうございました。お手数おかけします。
応援のメッセージもありがとうございます!とても励みになります。
かふぃ様、リクエストに沿うような内容になっていますでしょうか。楽しめていただけたなら嬉しいです。

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