29.
「ねえ、お腹の子は、女の子よ。」
母親は相変わらずにこにこしており、優しく腹を擦った。
もちろん、母親のお腹に子どもなどいない。
「私、夢で見たのよ。お腹の子は女の子だった。
ふふ。男の子だったら、あなたはボクサーにするって言ってたわね。」
『…』
「名前はどうしよう。あなたは男の子だったら、名前が良いって言ってたっけ。」
『…』
名前は沈黙していた。
母親は気遣わしげに名前を見つめる。
「どうしたの?最近、あなたはいつも悲しそうにしてる。
ねえ、試合がうまくいってないの?」
名前は黙って首を横に振る。
口を開いて、閉じて、何度も繰り返した。
『大丈夫だよ。』
やっと、それだけを返した。
「やはり、心因性のものでしょうね。」
担当の医師は言った。
「息子であるあなたを、亡くなったご主人に見立てることで、精神を保っているのでしょう。
あなたにはつらいでしょうが…お母さんが状況を受け入れられるまで、無理はさせられません。」
医者の話は短かった。
けれども重たかった。
別室で医者の話を聞き終えた名前は、ドアを開けて廊下に出る。
医者に礼を言って振り返ると、向かい側の壁に、千堂が凭れて立っていた。
「……おう、」
挨拶のつもりか、低くそう呟き、壁から背を離した。
名前に近付く。
「…柳岡はんから聞いてきたんや。
昼飯まだなんやって?」
『…』
「近くに美味いたこ焼き屋があるから、連れてったるわ。
まあ、もう夕方やからな。あんまり重たいもん食っても夕飯に差し支えるやろ。」
『…』
口を開く前の名前の手首を鷲掴み、大股でずんずん歩き出す。
引っ張る千堂の顔は見えない。
けれども、名前の知ってる千堂はお喋りで、こうして黙っているのは珍しい。
何を話すか考えあぐねいているようだった。
「…ん?」
引っ張られるままに病院を出る。
すると、小さな集団を見つけた。
集団は名前と目が合うと、こそこそと何やら話し合い始めた。
「何や?」
『……』
怪訝そうに千堂の眉がひそめられた。
話が終わったのか、集団はこちらへやって来た。
「すいません、苗字名前さんでしょうか?」
『…』
「何やねん、あんたら。」
尋ねられた名前よりも早く、千堂が口を開いた。
ひそめた眉が今や互いにくっつきそうなくらい寄っている。
「すいません、申し遅れました。
私達はこういう者でして…」
ごそごそと懐を探って、小さな紙切れを取り出す。
それは名刺だった。
どうやらテレビ関係者らしい。
「先日起こったデパートの火事で、元ボクサーの苗字さんが亡くなられたと報道されていますよね。
苗字名前さんはその息子さんだとお聞きしています。それで、お話が聞ければと思いまして…」
「今、病院から出てこられましたが、お怪我をなさっているのですか?」
「お葬式の際にお母様の姿がありませんでしたが、お母様はどうなされたのでしょうか?」
「お父様はどんな方でしたか?今、どんなお気持ちですか?一言お願いします!」
パシャッ。フラッシュがたかれた。
そのカメラに素早く手が伸びた。
千堂の手だ。
「なあ、」
低い声だった。
眉間の皺は無くなっていた。
けれども、瞳孔が開いている。
「ちょっと、不謹慎やないか?」
「えっ…」
「テレビか何や知らんけど、こないなところまで撮らんでもええやろ。」
「いや、私達は、報道しなければなりませんから…
苗字さんが亡くなって、多くの人が悲しまれています。亡くなった苗字さんがどんな方だったのか、知りたい方だって多くおられます。」
「そうかい。視聴者の事を考えてんやな。」
「そうです。」
「なら、こいつの気持ちも考えてやってや。」
「…」
記者は言葉を呑み込んだ。
気まずそうにも、不服そうにも見える。
その隙に、千堂は名前の手首を引っ張って歩道に連れ出した。
報道陣が追い掛けてくる気配は無かった。
「なんちゅう奴らや…。信じられんわ。」
ぶつぶつと呟いている。
独り言だとは思うが、名前の耳にしっかりと届いていた。
「ああ、…ったく。たこ焼き、もう閉まってしまってるやん。どないしよ…。」
『…』
「名前。お好み焼きでもええか?それなら店も開いてるんや。」
急に振り返って、千堂はそう尋ねた。
名前はゆるりと頭を振る。
『…今日は、帰ります。』
「………そうかい。」
『ごめんなさい。…
また次回、誘ってください。』
「………
おう。」
唇を尖らせ、呟くように返事をした千堂はしかめっ面だ。
怒っている気配はない。
不服そうな、心配そうな、ない交ぜになった表情だった。
『…』
名前は真っ直ぐ自宅に向かった。
夕方とは言え、季節は夏。
時間はそれなり遅い。
『…ただいま。』
玄関の扉を開けて呟くが、勿論返事などない。
靴を脱いで部屋に上がると、父親の部屋へと向かった。
相続などの為、資料を探さなければならなかった。
『…』
父親という主がいなくなった部屋は、今も尚持ち主の匂いを感じさせた。
雑然とした部屋だがどことなくまとまっている。
部屋を見回していた名前は、古びた赤いポストに目を止めた。
手紙が入っていた。
『…』
手に取ってみると、それはダンブルドアからで、名前に宛てたものだった。
いつ届いたのかは分からない。
封を開けて、手紙を広げた。
内容はざっとまとめてしまえば、教科書はこちらで用意するので、落ち着いたら返事を書いてほしい。そうしたら迎えに行こう。というものだった。
実のところ、もう九月に入っていた。
とっくに学校は始まっているのだ。
『…』
手紙を元に戻し、ポケットの中に忍ばせる。
やることを全て終えたら、返事を書くつもりだった。
いつ終わるのかは、分からなかったが。
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