28.
『すみません。苗字名前と申します。
昨日入院した、苗字の息子です。面会をしたいのですが…』
「はい、苗字さんの面会ですね。
今確認をとりますので、少々お待ちください。」
受け付けの女性は内線をかけている。
「息子さんでしたね?では、そちらのカウンターで、
こちらの紙にご記入をお願いいたします。」
紙を受け取る。
入院部屋と入院者の名前、自分の名前を書く欄がある。
書き終えると、受け付けが確認してスタンプを押した。
「西棟の302号へは、エレベーターを使っていかれるといいですよ。」
『ありがとうございます。』
名前は受け付けの言葉に従い、エレベーターで部屋に向かった。
片手に小さな花束を抱えて。
部屋は個室だった。
「来てくれたのね。」
母親は名前を見ると、にっこりと笑った。
父の死を、夫の死を間近に見た者の表情にしては、いやに晴れやかだった。
『……
…大丈夫なの。』
その笑顔に違和感を覚えていた。
けれども、名前は病室に入ってドアを閉じた。
ベッドに近付き、パイプ椅子を広げ、そこに腰掛ける。
「大丈夫よ。」
母親はやはりにっこりと、穏やかに微笑む。
『………あの、これ。』
「くれるの?」
小さな花束を差し出せば、母親の笑顔は更に深くなった。
少し照れ臭そうだった。
「ありがとう。
でも、どうしよう。花瓶が無いんだ。」
『……購買でコップを買ってくる。
…飲み物とか、…何か、いる。』
「ううん、大丈夫。ありがとう…」
『…』
母親は両手にすっぽり収まるほどの小さな花束を大事そうに胸に抱き、うっとりと微笑む。
視界の端にその姿を入れながら、名前は病室を出た。
購買を目指して歩く。
『………』
見舞品の事よりも、話さなければならない事が山ほどあった。
父親の事。
柳岡の事。
なのに、母親を目の前にすると、名前の唇はたちまち真一文字に引き結ばれてしまう。
『…』
購買でコップではなく小さな花瓶を見つけて、名前はそれを購入した。
目的を果たしたのに、名前はまだ購買をうろうろと歩き回る。
父親の死について、どう話す?
話を切り出す場面が、浮かんでは消えた。
あの火災で火が消し止められたのは、丸々一日経った頃で。
父親の遺体は当然性別など分からないほどに焼けてしまっていた。
ただ、父親を最後に見た場所と遺体のあった場所とが一致し、遺体は唯一つだったから、身元の確認は容易だった。
昼間のデパートで大勢の客がいたが、火災によって命を落としたのは父親一人だけだった。
父親が名を馳せた元ボクサーで、その父親が客を救助し、たった一人命を落としたのだから、世間はこぞってニュースにしている。
『…』
出火の原因は煙草ではないかと推定された。
スプリンクラーが発動しないという、管理が杜撰な事もその一つと考えられた。
しかし、名前のまだ新しい記憶の中で、黒ずくめの男が笑っている。
火災が偶然起こったものだとは考えられなかった。
コンコン、
「はい。」
『……』
ずっとそうしているわけにもいかない。
花瓶の入った袋を片手に、名前は病室に戻った。
母親はまだ花束を大事そうに抱えている。
『…これ、』
「花瓶があったの?」
頷き、袋から取り出した花瓶に、水を注ぐ。
母親から花束を受け取り、丁寧にラッピングをはがした。
花束を花瓶に活けて、備え付けの棚に置く。
「ねえ、」
『…』
じっと、名前の手元を見つめていた母親は、そう切り出した。
名前は手元にやっていた視線を母親に向ける。
「私、どうして怪我なんかしてしまったのかな。」
口を開きかけた名前は、その言葉に声を呑み込む。
「酷い怪我なの?入院するほどだものね。
私、あなたに迷惑かけなかった?」
『…大丈夫。』
「そう。よかった。」
穏やかに微笑む。
「それで、私、いつまで入院しなきゃならないのかな?
お医者さんに聞いたんだけど、まだ退院出来ないって言うの。」
『…』
「私は元気なんだけどね。
やっぱり、お医者さんじゃないと分からない事があるのよね。」
黙ったままの名前を、母親が気遣わしげに見つめた。
「今日はお喋りじゃないのね。何かあった?ねえ、―――」
続いた言葉に、名前は目を見開いた。
母親が呼んだ名は、父の名だった。
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