26.






「…」



『…』





八月中旬に差し掛かった頃、宣言通りロンから手紙が届いた。
内容は主にクィディッチ・ワールドカップの事についてと、泊まりの誘いだった。

手紙の内容を話すと、どうしたことか。
母親は困ったような表情を浮かべて名前を見つめたのだった。





「名前。申し訳ないんだけれど、今年はここにいてくれる?」



『…』





じっと、名前は母親を見つめた。
二つ返事で了承してくれると思っていた。今までそうだったから。

けれども、母親がそう言うのも理解出来た。
名前が学校から帰省してきてから、母親は具合を悪そうにしていた。
目の下に隈が出来ていて、いつも上の空だった。





「ごめんね。最近、変な夢を見てね…」



『変な夢、……』



「毎日見るの。…
…ヴォルデモートが復活する夢でね、……」





そこまで言い掛けて、母親は我に返ったように目を見開いた。
じっと見つめる名前に気が付くと、慌てて笑いかけるのだった。





「ごめんね、たかが夢なのにね。」



『…』



「きっと不安なんだね。
名前が無事に帰ってきてくれて嬉しいのに、不安が強くなるばかりなの。どうかしてるね。」



『……』





様子がおかしいのは明らかだった。
初めて見る母親の姿だった。

父親は母親の体調を案じ、今日は店を休もうと提案した。
そしてどこか気晴らしに行こうとも提案した。

最初は渋っていたが、粘り強い父親の事である。
最終的に母親が折れ、名前達三人はデパートへと赴いた。















「ね、これ、君に似合うんじゃないかな。ほら…」





店先に掲げられたワンピースを手に取り、母親の体に宛がう。

母親を元気付ける事が目的なのに、父親が一番楽しそうにはしゃいでいた。





「ちょっと派手じゃないかな。
私、もういい年なんだから、落ち着いた雰囲気の…」



「なーに言ってるの。服は年齢やなくて、似合うかどうかやで。
ね、ちょっと試着してみて。」



「うーん……」



「着てみないと分からないよ。悩んでないで、ほら。」





押し込まれるようにして、母親は試着室に入った。

カーテンを閉めて暫く。
再び開いた。

父親はだらしない笑顔を浮かべた。





「やっぱりええなあ。」





母親は照れ臭そうに笑う。
ワンピースは母親に似合っていた。

父親が購入し、また店内を歩き始めた。





「次はどこ行く?そろそろお昼やし、ご飯にする?」





歩きながら腕時計をチラリと見る。
それから名前と母親を見た。





「…」



『…』



「………
休もうか。…」





名前と母親はこっくり頷いた。

デパートに着いてから二時間程だったが、名前と母親はクタクタだ。

父親が彼方此方と二人を引っ張り回すせいだった。





「どこかレストラン入る?それともフードコートがいい?
お父ちゃんとしてはガッツリ食べたい気分やな…。」





ピタリ、母親が足を止めた。
つんのめって父親も止まる。





「どうしたの?」



「…」





振り返って、父親は母親を見た。
名前も母親を見た。

母親は父親を見つめて顔を歪めた。
口を開くが、声にならない。





「どうしたの?気分悪い?そこのベンチ座ろうか。」



『…』





父親が母親を案じ尋ねるのを聞きながら、名前は店内を眺めた。





「違う、そうじゃない。離れなきゃ…」



「なあに?」



『……』





一人、また一人。
客が走っていく。

賑やかなお喋り。

歓声ではない。
これは、悲鳴だ。





「……何や?」





父親は母親から目を離して、振り向いて呟く。

背後から客が走ってくる。
皆一様に恐怖の表情を浮かべていた。





「逃げなきゃ。」





母親が呟いた。
名前の手を痛いほどに握り締めた。
きっと、父親の手も同じように握り締めている。





「逃げなきゃ。早く!」





今度は母親が父親と名前の手を引っ張る。





「すぐそこまできてる。あなたが殺される!」





父親が目を見開いた。
瞬間、辺りが音と光に包まれた。





『…』





一瞬。一瞬だったはずだ。
少なくとも名前はそう感じた。
瞬く間に、辺りは煙に包まれ、火の海に変わり果てていた。





「大丈夫?名前…」





父親が目の前にいた。
所々煤がついているが、傷は見当たらない。
隣には母親がいる。
名前と同じように、父親をじっと見つめていた。





「君の力は衰えてないなあ。」





二人を庇っていた体を退けて、父親は立ち上がる。
そこで初めて、名前は床に座り込んでいることに気が付く。
周りを見回した。
辺りから呻き声や泣き声が沸き上がってくる。





「君の見た夢は現実のものになる。
きっと、奴も……」





言いながら、父親は名前と母親に手を差し出した。





「立てる?さ、掴まって…」





母親と名前の手を掴むと、父親は軽々と引っ張り起こした。
それからポケットに手を突っ込み、ハンカチとタオルを取り出す。
それぞれを母親と名前の鼻に押し当てた。





「鼻にあてて。…
出口はあっちやね。姿勢を低くして行こう。」





名前と母親。
二人を抱え込むようにして、父親は歩き始めた。
しっかりとした足取りだった。

驚くほどに冷静だった。
道すがら、倒れている一人一人に声を掛ける余裕まである。




「大丈夫ですか?立てますか?」





そうして一人一人を助け起こし、あっという間に団体になる。
客は皆、煙に咳き込み、目から涙が流れていた。





「…早く外に出なきゃね。」





非常口の明かりを見つけて、父親は呟いた。
外はすぐそこだ。
父親は声を大きくして、客の一人一人を出口に誘導する。

また爆発音がして、建物が揺れた。
上階の天井が崩れ、名前と父親の間に落ちてきた。
父親側には、まだ大勢の客がいる。





「早く行きなさい。」



「ありがとうございます…」





瓦礫の向こう側から、父親の声と客の声がくぐもって聞こえてきた。
そして、瓦礫の隙間から客が這い出てきた。
出口に向かっていく。

一人一人這い出て、出口に向かって。
やがて誰も出てこなくなった。

けれども、まだ父親の姿はない。





『お父さん…』





煙に咳き込みながら、名前は呼ぶ。
煙と瓦礫で姿など見えないが、父親の方を見つめた。





『早く。まだ、大丈夫、こっちに来て…』



「……」





父親は返事をしなかった。
ごうごうと炎の燃え盛る音が聞こえるばかりだ。






「……、」





低い声が聞こえた。父親の声だ。
けれども炎の音に遮れて、内容までは分からなかった。





『…お父さん、』



「あなた…誰かいるの?」





父親はまた黙った。

名前は床に手をつき、瓦礫の隙間を覗き込む。
父親の後ろ姿が見えた。

黙ったままの父親は、そして今度は、底抜けに穏やかな声を出した。





「どこに行ったって、同じなんだな。」





その言葉を、声を聞いて、名前の心臓が跳ねる。

ごうごうと聞こえる音。
炎の音か、心臓の音か。

分からないほどに。
嫌な予感がした。





「こうして追い詰められるんだ。関係ない人々まで。」



『お父さん、』



「名前、逃げていい時もある。お父ちゃんはそうしてきた。
ただ、お父ちゃんの場合は、逃げちゃいけない時も逃げてきた。
だからこうして、ついには逃げられなくなる…」



『お父さん、待って。
何を言ってるのか、分からない。話は……
話は後にして。早くこっちに来て。』



「名前は立ち向かって。
お父ちゃんみたいにはならないでね。」



『お父さん、』



「お母ちゃんを頼むよ。大丈夫、お父ちゃんは、ちゃんと見てるからね。傍にいるよ。
守るから…」





何の冗談だろうか。これではまるで遺言である。

名前は再び口を開いた。
しかし、父親の方が早かった。





「行きなさい。」





名前は言葉を呑み込んだ。
戸惑うほどに冷たい声だ。
こんな声、聞いたことがない。





「早く、行きなさい。」





声には少し、怒りと焦りが滲んでいた。
それでも名前の足は動かない。

どうにかして父親をこちら側に来させる事は出来ないだろうか―――
瓦礫の隙間から父親の背中を見つめながら、名前は考えていた。



そして。
ゆらり。

父親の背中が傾いた。
床に倒れていた。





『………』





目を見開き、瞬きもせずに、見つめた。

父親は微動だにしない。
炎が燃え移っていく。
なのにピクリともしない。





ガリ、ガリ



『、…』





すぐ側で引っ掻く音を聞いて、名前は隙間から音のした方へ視線を移した。

頬を流れていく涙をそのままに、母親は瓦礫をどかそうと、がむしゃらに手を動かしていた。

名前が触れている床は真夏のアスファルトよりも熱い。
おそらく母親が触れている瓦礫も、同じように熱いだろう。
その証拠に、母親の手は真っ赤になっていた。

名前は立ち上がる。
咄嗟に、母親を抱え上げた。





「いや!いや、離して、名前!お父さんが残っているでしょう!」



『……』



「いや!あなた!一緒に逃げてよ!
こっちに来てよ!早く!
早く!
お願いだから…!」





泣き叫ぶ母親に、父親は何も返さない。
いつもなら優しい言葉を掛けるのに。

出口を目指して、名前は歩き始めた。
母親は腕の中で暴れていたが、次第にその力も弱まっていく。





「どうして…
どうして…」





震える声を聞きながら、名前は歩く。
濃霧のように立ち込める煙の中、前を真っ直ぐ見つめてひたすら歩いた。
真夏の暑さなど比ではない室温で、その上息苦しく、頭が眩む。
それでも一歩、また一歩と、出口を信じて歩を進めた。





「生存者だ!」



「担架!担架を二つ持ってこい!」





声が聞こえた。
気が付けば、外に出ていた。
沢山の人の声。
放水の音。
燃え盛る炎の音。
喧騒が耳に飛び込んでくる。





『…』



「大丈夫ですか?今、担架を持ってきます!」





崩れ落ちそうになったところを、消防隊と思われる者に支えられた。

足が震えている。
息苦しい。





「落ち着いて下さい。落ち着いて息をして…」





優しい声を掛けられ、背中を撫でられる。
落ち着こうとすればするほど、呼吸が乱れていく。





「おい!早く、担架!!」



『…』





パシャッ。
炎の光とは異なる光を感じて、必死に呼吸を繰り返しながら、名前は顔を上げた。





『…』





パシャッ。また光を感じる。
眩むような光に目を細めつつ、名前は見た。

大勢の人。
救急車。
消防車。
カメラ。
マイクを持つ、マスコミ。
それを押さえる警察。



その群衆の中に、黒ずくめの男が立っていた。

男は名前を目に捉え、笑っていた。

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