Short | ナノ


負けヒロインにさよなら【後編】(練白龍)


渋谷での一件から四日後、つまり金曜の昼。世界的大企業・煌々商事の創業者一族に生まれた幼馴染が住む、都内の一等地にある瀟洒なマンションにわたしは来ていた。エントランスの入口で幼馴染に連絡すると常駐のコンシェルジュが扉を開けてくれて、エレベーターの前まで彼に案内される。

一階に着いたエレベーターが開くと、キャップを目深にかぶったマスクの男女が恋人繋ぎで出てきた。一瞬すれ違っただけでも変装した二人が人気芸能人なのは一目瞭然。まだ世に出ていない秘密の関係にドキドキしたままエレベーターに乗ったわたしは、幼馴染の自宅がある階数のボタンを押した。

幼馴染の家を訪ねるのは、彼女が一人暮らしを始めたとき以来四年ぶり。上層階はワンフロアで片手の指が余るほどの戸数しかないが、なかでも幼馴染の家はエレベーターから一番遠いところにある。インターホンを押して十秒ほど待つとドアが開き、クラシカルなワンピースに身を包んだ幼馴染が顔を見せた。

「お久しぶりです、権兵衛。あがってください」

「こちらこそ無理言って時間作ってくれてありがとうございます、白瑛さん」



今日わたしが白龍の姉・練白瑛さんを訪ねたのは、自分の恋路について相談するため。白瑛さんは白龍と出会うきっかけになったピアノ教室の生徒で、わたしの片想いを知る唯一の人だった。月曜日の夜にわたしの気持ちを本人に知られるまでは。

「どうしよう…もう終わりですよ」

「わかりませんよ」

「そんなことないですっ!わかるんです!」

"面倒くさい"の一言を飲み込みながら、キッチンで白瑛さんはティーポットとティーカップに熱湯を注ぐ。リビングのソファーで想い人の姉を待つ間、月曜日の一部始終をわたしは彼女に説明していた。

わたしが腰掛ける柔らかい本革のソファーは大人二人が横になれそうなL字型。四年前に訪れたときにはなかったもので、人気女優のYouTubeのルームツアー動画で同じソファーの色違いを見たことがある。世間一般の二十五歳女性の都心の一人暮らしとかけ離れた白瑛さんの暮らしぶりを改めて実感させた。

「でも白龍の返事を聞く前に権兵衛は逃げたんでしょう?」

「…はい。だって…聞いちゃったら、わたしもう生きてけません」

「どうして権兵衛が失恋する前提なんですか?」

振られる以外の選択肢など考えもしなかったわたしは、アイランドキッチン越しの家主を目を丸くして見つめる。わたしが答えを考え込む間で、白瑛さんはお湯を捨てたティーカップにハーブティーを注ぐ。

「いや、だって…白龍はモルジアナさんが」

「モルジアナさんが結婚した今も?」

幼馴染の問いに言葉を詰まらせたわたしは「…たぶ、ん」と苦し紛れの返答をするので精一杯。白龍の本音、つまりモルジアナさんへの慕情を本人から聞けば自分が傷つくから、本音を彼に問うことはほとんどなかった。「私にそうは見えませんが」と白瑛さんは淡々と返す。

「単に恋煩いを姉の前で見せないだけじゃ…」

四歳の頃から練姉弟を知るわたしが思うに、白龍は何でもかんでも姉に相談するタイプではない。むしろ姉に心配をかけまいと全部一人で抱え込むタイプだ。そんな白龍が自身の恋愛について、わざわざ同居中でもない姉に相談するとは到底思えなかった。

「とにかく!自分がした告白に権兵衛は責任を持つべきです」

おしゃれなキッチンワゴンを引いてリビングに来た家主は、わたしの反論をスルーして新たな意見を口にする。三段式キッチンワゴンの上段から小さなシュガーポットとミルクポットのセット、二組のティーカップとソーサーを白瑛さんは取り出し、ソファーの前に置かれたローテーブルに並べた。

続けてキッチンワゴンの中段から白瑛さんが取り出したのは、二組の丸皿とフォーク。これらは超庶民のわたしでも知っている世界的な陶磁器ブランドのもので、すでに机上にあるティーセットとお揃いだ。持参した手土産の箱はわたしが開け、白瑛さんがバスクチーズケーキを皿に乗せた。

「言いっぱなしで返事も聞かずに逃げるなんて、権兵衛にも白龍にもよくありません」

キッチンワゴンをソファーの端に避けてから腰を下ろす白瑛さんの言い分はもっともで、わたしは黙り込む。初対面の男性にホテルに連れ込まれそうになったところを助けてくれた白龍を置いてきたことも、助けてくれたお礼も言わずに彼を責めてしまったことも。悔やんでいるわたしは「そうですけど」と想い人の姉に返す。

月曜の件は明らかにわたしに非があるし、すぐにでも謝るべきなのもわかっている。しかし、好意を本人に伝えてしまった気まずさから、今の今まで白龍には連絡を取れずにいた。

「付き合えなくても権兵衛と白龍の関係にヒビは入りませんし、付き合えたらラッキーじゃないですか」

「ヒビが入らない保証なんてありません…振られるのはとっくに覚悟できてるからいいんです。でも、今まで通り白龍のそばにいられないのが一番怖くて」

「大丈夫です…私が保証します」

湯気の立つハーブティーに口をつけた白瑛さんは、ティーカップから口を離すなりにやりと口角を上げる。意味ありげな幼馴染の微笑みに違和感を抱きながらバスクチーズケーキを口に含むと、玄関とリビングを隔てるドアが開いた。

「ねえ、白龍」

ドアが開いた音に振り向けば、そこには眉間に皺を寄せた白龍。「どうして権兵衛が」と彼はつぶやくものの、わたしは驚きのあまり言葉を失っている。むしろ「どうして白龍が」と聞きたいのはわたしだ。

ただ口の中には濃厚なバスクチーズケーキがあって、すぐには疑問を言葉にできない。混乱を誤魔化すようにチーズケーキを咀嚼していると、白龍とわたし双方の問いに答えるように「私が呼びました」と白瑛さん。

呆気に取られる白龍とわたしに目を細める家主に、"目は口ほどに物を言う"という言葉を思い出さずにいられない。一口食べたバスクチーズケーキの皿を手に席を立つ白瑛さんは、皿ごとラップで覆ったケーキを冷蔵庫にしまう。

ダイニングテーブルに置かれた有名ブランドのハンドバッグから白瑛さんはシャネルの口紅を取り出し、一緒に取り出した手鏡を見ながら紅を引く。口紅と手鏡をバッグにしまった幼馴染は、そのままバッグを手に弟が開けたばかりのドアに向かう。嫌な予感を察したのは白龍も同じようで、「姉上、どこに」と彼が尋ねる。

「青舜と映画の約束がありますから、私はこれで」

確信犯と言わんばかりのウインクをしたあと、あろうことか家主は出かけてしまった。黒のレザージャケットをリビングの端にあるコートハンガーに掛けた白龍は、先ほどまで姉が座っていた席に腰を下ろす。



「…まったく姉上は何を考えてるんだか」

白龍の言葉に何も返せず、気まずい雰囲気が漂う。あまりにいたたまれなくて帰ろうと思いはじめるわたしに気づいたのか、白龍の視線がわたしに向いた。

「…気まずいのはわかるが、そう露骨に態度に出すな」

俯いたままのわたしが「ごめんなさい」と返すと、再び無言の時間が続く。一分近く続いた沈黙に先に痺れを切らせたのはまたしても白龍。「権兵衛、この前の件だが」と想い人が切り出せば、びくりとわたしの肩が跳ねる。

「権兵衛は俺を…」

そこまで言ってから白龍は口籠るが、こう切り出されれば月曜日のわたしの失言が蒸し返されるのは明らか。頭をフル回転させて想い人との関係を壊さないための振る舞いを考えていると、自分に言い聞かせるように「俺の口から言えばいいだけだ」と彼はつぶやいた。先に何かを白龍から言われればわたしの意思に反して関係が壊れる可能性もあるわけで、彼を制しようとわたしの声は大きくなる。

「え、ちょっと待って」

「権兵衛、俺は」

「言わないでってば!」

先ほどまでずっと黙っていたわたしが至近距離で声を荒げたからか、今度は白龍が肩を震わせた。目を丸くした白龍に「どうして」と問われれば、冷静さを欠いたわたしは何も悪くない彼を再び責め立てる。

「決まってるでしょう?振られるのが…今まで通りの関係性でいられなくなるのが怖いの!いくらわたしのこと眼中になくたって、それくらい幼馴染なんだからわかってよ!バカ白龍!どっか行って!」

「…!」

"どっか行って"なんて口走って、完全に嫌われた。自業自得の失恋を悟ったわたしは、帰宅しようと腰を上げる。しかし白龍の右手に左手首を掴まれ、立とうとしてバランスを崩した拍子に彼の腕にわたしは引き寄せられた。

「ああ、本当に俺はバカだな。権兵衛が隣にいることがいつの間にか自然になってて、とっくに惚れてるのに気づかなかった」

想定外の言葉と想い人に抱き締められている状況に、わたしは戸惑いを隠せなくなる。白龍に触れる部分からは彼の体温を感じて、首元や鎖骨のあたりからはウッディな香水の匂いが漂う。大学入学と同時に白龍が好んでつけ始めた香りがこんなに間近に香るのは初めてで、自分の体温が上昇するのを感じた。

視界いっぱいに白龍の胸部が移る状態で、顔を上げても白龍の顔は見えない。しかし、シャツの襟元から覗く首元の肌はいつになく紅潮している。

「この前の件でようやく俺も気づいたが、俺にとっても今は権兵衛が一番大事なんだ」

"とっくに惚れてる"、"今は権兵衛が一番大事"なんて好きな人から言われれば、普通なら舞い上がらずにいられない。しかし、この四年間白龍は違う女の子を想っていたわけで、それを知っているわたしはまだ真正面から彼の言葉を受け止められなかった。

「本当に?もう本当にモルジアナさんのこと好きじゃない?」

即答に近い形で肯定の意を返しつつ、「だが困ったな」と幼馴染は続ける。両手で白龍の胸を押して彼と距離を取ってから顔を上げると、"困った"という言葉と裏腹に彼は笑みを零していた。

「俺は権兵衛と付き合いたいんだが、"今まで通りの関係性でいられなくなるのが怖い"って言われたから」

「やだ、前言撤回する!付き合ってよ!白龍…大好きっ」

慌てて白龍の首に腕を回して抱きつくと、彼はバランスを崩す。背中からソファーに落ちたわたしを追うように、白龍もソファーに雪崩れ込んだ。わたしに覆い被さる形になった想い人は、先ほどまでの笑顔を消して真剣な目でわたしを見つめていて。ゆっくりと顔を近づけてくる白龍に、わたしは続きを察した。

初めての経験に白龍にも聞こえそうなほど、わたしの心臓はうるさく音を立てる。顔を少しだけ傾けた想い人の顔が視界に大写しになり、いよいよ意を決して目を瞑ろうとした。そのとき、わたしの心音よりも大きな音でLINEのデフォルト通知音が鳴る。

「…誰だこんなときに」

文句を言いつつも、ソファーに膝立ちになった白龍は画面を確認してからスマートフォンを右耳に押しつけた。数秒前まであれほど緊張していたのに、未遂で終わったことをすでに寂しく思っている自分の変化に驚きながら、わたしは白龍を見つめる。

「ええ…そうですけど」

通話相手の声は聞こえない。しかし、白龍の表情や声色は余所行きのものではなくて。わたしは何となく通話相手の正体を察する。

「何を言ってるんです?そんなこと…あ、帰るのはわかりましたから」

少し面倒そうに返答した白龍はスマホを耳から離して通話を終了させた。推測が正しかったのはわかっていたが、あえてわたしは問う。

「白瑛さん…?」

「ああ、暗くなる前に権兵衛を送れって」

夜になると羽織物が欠かせず、日に日に日没時間が早まる季節。すでに窓の外には茜色の空が広がっていて、東京の街も赤く染まっていた。

「そっか…じゃあ帰ろうかな。今なら白龍に送ってもらわなくても帰れるし」

「いや、送る」

食い気味に返した白龍に、わたしは「いいよ」と返す。しかし再びわたしを送ると幼馴染は言い、堂々巡りになる。姉に言われたからって送らせるのは白龍に申し訳ないし、何よりわたしは二十歳の大人。最後のつもりで「でも」と少し語気を強めて返すと、不服そうに白龍は眉間に皺を寄せた。

「付き合いはじめたばかりの彼氏と少しでも長く一緒にいたい、と権兵衛は思わないのか?」

「彼氏…」

初恋の相手に一目惚れをして十六年。あまりに幼馴染期間が長すぎて、白龍が彼氏になった事実をわたしはまだ受け入れられていなかった。十六年の間、白龍が彼氏になる日をずっと夢見ていたにもかかわらず。

しかし、白龍が口にしてくれたことでようやく願いが叶った実感が湧いてくる。ソファーの上で伸ばしたままの脚を縮めて床に足をつけたわたしは、とうの昔に冷めたハーブティーを飲み干してから立ち上がった。

「そうだね、送ってもらおうかな」



ティーセットの片づけをしたあと、身支度をしたわたしたちは玄関にいた。一足先に靴べらを使ってスニーカーを履き終えたわたしは、白龍に持ってもらっていたショルダーバッグを受け取る。白龍はスマホしか持ってきていないようで、玄関に腰を下ろしてスニーカーを履きはじめた。

「この前は助けてくれたのにひどいこと言って…すぐに謝れなくてごめんね」

「この前?…ああ」

月曜の自分の非について謝罪したわたしは、じっと白龍を見つめて彼の返事を待つ。この四日間ずっと気がかりだったのに謝罪を放置していたわけで、怒られるのも致し方なし。しかし、わたしの予想に反して左の靴紐を結ぶ白龍の表情はけろりとしている。

「あの一件がなければ…権兵衛への気持ちに俺は無自覚なままだったから」

気にしてないと言いながら、右の靴紐を素早く白龍は結ぶ。きゅっと最後に靴紐の端を左右に引っ張った後、わたしに白龍は右手を差し出した。立つのを手伝ってほしいなんて彼氏の甘えん坊な一面に可愛いと思いながら彼の右手を掴むと、ぐっと彼は右腕を引いてわたしを引き寄せる。

左腕から白龍に引き寄せられて白龍に接近すると、今度は彼がわたしの右肩を掴む。肩を掴まれたことで白龍に接近するわたしは減速し、止まったところで視界が彼でいっぱいになった。さっきの未遂と違って一瞬で終わった"初めて"に、わたしは軽い放心状態になる。

「これから何度もするんだから、そんな顔するな」

「何度もするかもしれないけど…ファーストキスは二度とないんだよ!」

「!」

わたしに恋愛経験がないのを白龍は知っていたはずなのに、これが初めてということはすっかり頭から抜けていたようで。みるみる彼氏の顔からは血の気が引いていく。家までの道中も「"権兵衛が一番大事"と言いながらファーストキスをあんな雑に済ませるなんて…」と顔面蒼白の白龍に懺悔を繰り返されたのは、今となっては笑い話。



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