Short | ナノ


葉桜の下で(練紅明)


「ずっとあなたを捜していました」



私の声に振り向いたのは名無しの権兵衛。昨日まで私に仕えた元女官であり、私の想い人である。

「申し訳ありません。ここ…わかりにくかったでしょうか?」

眉尻を下げる権兵衛が右手を置いたのは、大きな桜の幹。禁城の広い敷地でも奥まった場所にある、桜でいっぱいの区画に私たちはいる。今こそ私たちしかいないが、一月前まで多くの人で賑わっていた。

あるときは住み込みで暮らす官職やその家族、皇族たちが花見を楽しみ、またあるときは夜桜を肴に酒を嗜む。桜が咲く季節にこの一帯を訪ねると、誰かしらの姿が必ずあった。

しかし、葉桜の季節になれば桜の木など存在しなかったかのように人気が引いて。今も変わらず毎日のようにこの一帯を訪れるのは、清掃員や庭師くらいだ。今日は気持ちよく散歩できる晴天で、一部の人間にとって大敵である花粉も飛ばなくなったのに。葉桜には誰も目を留めない。

「一番大きな木ですから迷いはしませんでした。ただ軍議が長引いただけです」

自分の指定した待ち合わせ場所に過失がないとわかれば、安堵の色を権兵衛は浮かべる。しかし、軍議が長引いたのは嘘。ただ今日はたまたま定刻で終わっただけで、通常は当たり前のように長引く。

禁城における軍議の参加者は、誰一人として定刻で軍議が終わると思っていない。その証拠に、軍議後はわざと予定を空けておくのが暗黙の了解となっている。そういうわけで、軍議を遅刻の言い訳にすれば一年間私に仕えた女官が疑わないのは明らかだった。

私の嘘を信じる権兵衛の顔をまじまじと見ると、いつもより濃い色で引かれた紅に目が止まる。唇以外の化粧も丁寧に施されているうえに髪には艶が宿っていて、仕事柄薄化粧だった元女官の着飾った姿に見入ってしまう。

さらに目を凝らせば、権兵衛の着物にあしらわれている生地はかなりの上物。少なくとも、家のために出稼ぎする娘が着られるものではない。貧困家庭でなくても決して裕福な家庭の出身ではなさそうな女官と着物の対比に、違和感が募る。

「それで、話というのは?」

"誰にも見られない場所で伝えたいことがある"と、権兵衛から呼び出されていた。本来は元女官が皇族を呼び出すなどもってのほかだが、想い人と会える最後の機会だからと承諾したのだ。

昨日付けで退官して本日中に禁城を下る元女官が主に伝えることなど、せいぜいこの一年の謝礼くらいだろう。そう私は高を括っていた私は、身体が訴える眠気に従って欠伸する。

「わたし…結婚します」

「…はい?」

想定外の言葉にどういうことかと問えば、同じ言葉を繰り返す権兵衛。彼女に意中の男がいるとは風の噂で聞いたことがあるものの、婚約者の存在は初耳だった。冷静さを欠いた私は、権兵衛の両手を掴んで彼女との距離を詰める。

「相手は?城内の男ですか?」

「いえ、彼を紅明様がご存知かは存じ上げませんが…」

前置きして権兵衛が挙げたのは、洛昌で一番の呉服屋。権兵衛はそこに嫁ぎ、長男坊の妻になるという。店頭に立つ人間の顔は知らなくても屋号は私ですら知っている、いわゆる"禁城御用達"だ。

その呉服屋の着物は生地の重厚感に反して軽やかな着心地で、保温性や吸水性に優れた夜着は動きやすい。そう仰って権兵衛の嫁ぎ先を贔屓したのは白徳大帝だった。

伯父のその呉服屋の寵愛ぶりは相当で、生前の彼に私も着物を誂えていただいたことがある。呉服屋が違えばここまで違うか、と当時十歳前後の私も幼心に感動したものだ。大帝の御代に比べれば頻度は落ちたものの、そこで仕立てた着物は今でも度々城内に献上されている。

「十六歳になったら、呉服屋に嫁ぐと決まっていたのです」

「…そうでしたか」

かねてからあの呉服屋に嫁ぐと決まっていたなら、間違いなく権兵衛は中流家庭以上の出身だ。ただし、そうと判明すれば別の疑問が浮上する。出稼ぎする必要がない出自の娘が、なぜ女官として働いているのか。

少し考えれば、答えはすぐにわかることだった。呉服屋の跡継ぎとの婚姻に向けて皇子の元で花嫁修行をさせつつ、女官として一族の顔を売るのだ。とはいえ本来であれば、花嫁修行に皇族を利用する真似は許されない。

しかし、大帝が寵愛した"禁城御用達"からの申し出となれば話は別。おそらく呉服屋から陛下に華美な着物が山のように献上されたのだろう。誕生日でもないのに父上から賜ったと言って、派手な着物を纏った紅玉が城内を無駄に歩き回っていたのを思い出す。

「これでもわたし、反物屋の娘なんです」

この一言ですべてが解決して一人納得する私を、目の前の権兵衛はじっと見つめている。私からの言葉を待つような視線を向けて。

「…何も紅明様は仰ってくださらないのですか?」

「…は?」

「"末永くお幸せに"って、忠雲殿は仰ってくださったのに」

ここで第一従者の名が出るには理由がある。目の前の女官と私を引き合わせたのが他ならぬ忠雲だった。権兵衛の入城直後、右も左もわからない頃の彼女に道案内したのが忠雲で、それを機に二人は親しくなったらしい。

私たちが出会ったのは、忠雲と権兵衛の出会いから少し経ってから。たまたま二人が一緒にいるところに遭遇した私が、彼女を前から小耳に挟んでいた忠雲の恋人と勘違いしたのがきっかけ。ただの女官と判明したものの、話してみれば思いの外うまがあって。気づくと忠雲抜きでも話せる関係になっていた。

数百人の女官がいる城内で、我々皇族と直接関わるのはごく一握り。そのわずかな女官の大半は白徳帝の頃からの古参で、一年で退官する女官と皇子が接点を持つなど本来考えられない。しかし、忠雲の存在が権兵衛を例外にしていた。

「まず…おめでとうございます」

自分以外の男と想い人の婚姻を祝う言葉など、出てくるはずがない。とりあえず定型文を紡いだものの、まだ権兵衛は私の言葉を待っていて。

「まあ、婚姻はただの契りにすぎませんから…もし破綻したら戻ってきなさい。居場所は用意しておきます」

離婚歴のある女を正室にはできないかもしれないが、私の手中に権力があるうちなら側室にはできる。その思いで告げた言葉に、信じられないといった面持ちで私を権兵衛は見ていた。

「なっ…何てことを仰るんですか?」

「忠雲のような言葉が理想なのはわかります。ですが…婚姻は生涯にわたって男女が添い遂げることを担保しません。呉服屋の男と反物屋の娘の結婚なんてよくある話ですし、好きで結ばれるわけではないのでしょう?」

「その通りですが…わたしだって、必至で彼を好きになろうとしてるのに…!」

さすがに私が悪かったと謝罪するものの、今にも泣きそうな顔で権兵衛は頬を膨らませていて。婚姻前から離婚後の話をするなんて、不謹慎甚だしいのはわかっている。それでも僅かでも再会の可能性があるなら、種を蒔いておきたかった。

「縁起でもないことを仰らないでください。まやかしですか?それとも呪術?」

ずいっと距離を詰めた権兵衛が顔を上げると、上目遣いで私を見つめる形になる。瞳いっぱいに涙を溜めた想い人は心臓に悪く、はらはらと葉桜が舞う空に私は顔を向けた。ここで日が暮れるまで葉桜を眺めるのも悪くない、と出不精の私が思うくらいには今日の天候は気持ちがいい。

「いえ…呪術とか、まやかしの類ではありません」

「え?それじゃあ…」

「これは自己暗示です」

少し涙の引いた権兵衛は首を傾げているが、それでよかった。結婚したとて永遠に想い人が呉服屋のものになるとは限らない。そう自己暗示しないと、私がやっていられないのだ。



それからの私たちは、しばらく懐かしい話を続けた。二人だけの思い出は多くなく、話題のどこかに忠雲がいる。しかし、間もなく権兵衛が禁城を去るにもかかわらず、彼の姿はない。

「そういえば、忠雲を呼ばなく」

「紅明様。私から大事な話が…忠雲殿抜きで、今日ここで紅明様にお伝えしたかったことがございます」

真っ赤な顔でまっすぐ私の目を見て告げる権兵衛に、ぞわぞわとしたものが胸の奥から込み上げる。人気のない場所、二人きりの男女、伝えたいこと。これらの三要件が揃ったときに起こることは想像がつくし、十七年間の人生でその経験が私になかったわけではない。

昨日ここに呼ばれた時点で、それが頭をよぎらなかったと言えば嘘になる。しかし、近々権兵衛が結婚すると判明した以上、実現してはいけない。願っても叶うとは思いもしなかったことが叶わぬよう、強く瞼を閉じて私は祈った。

「わたしは…紅明様をお慕いしております」

最悪だ。一番願わぬタイミングで、一番願わぬ状況で、半刻前まで強く願っていたことが叶ってしまった。ぷるぷると震える権兵衛を今すぐ抱き締めてやりたい気持ちはあるのに、それすら今は叶わない。

「…紅明様!わたしの口を吸ってくださいませ」

この期に及んでこの女は何を言うのか。いくら想い人が相手だろうと、そう思わずにはいられない私は目を丸くして彼女を凝視する。どう宥めるかを考えている私など意に介さず、さらに権兵衛は畳みかけた。

「一度だけでいいんです、冥土の土産にいたしますから…」

「自分が何を仰ってるかわかってますか?」

「もちろんです。…褥をともにするのと比べたら、口吸いなど紅明様にとって朝飯前でしょう?」

そんなわけあるか。一度きりとわかっている想い人との口づけなど、朝飯前なわけがない。しかも他の男に嫁ぐと知ったうえでの接吻が一人の男としてはもちろん、第二皇子として絶対に許されないのは権兵衛も知っているはずだ。

「わたしとの口づけが嫌ですか?」

嫌なはずがない。ただ、こんな状況での口づけは望んでいなかった。言葉にする代わりに深くため息をつけば、再び権兵衛の瞳は潤いを帯びはじめる。

「…何か仰ってくださいませ、紅明様。まやかしでも呪術でも構いませんから」

まやかしでも呪術でもいいとわかっていても、言葉が出てこないのだ。自分の気持ちを吐き出して、権兵衛の望みを叶えられたらどんなに楽か。それができないから悩んでいて、想い人を傷つけたくないから言葉選びに苦慮しているのであって。

「市井の人間が皇子に想いを告げるなど…切腹ものだとわかっております。それでも…告げずにいられなかった女の覚悟をご理解くださいませ」

私の知る権兵衛の性格上、誰かの横槍でも入らない限り絶対に引かない。

「…はいはい」

観念した私が白旗を揚げれば、ぱっと権兵衛の顔が華やぐ。"女の覚悟をご理解くださいませ"などと言われようと、理解する筋合いはない。他の女だったら、女官の言葉を借りればこの場で腹を切っていただろう。

しかし、たった一度のそれで権兵衛が前を向けるなら。呉服屋の長男坊を好きになれるなら、未練を抱えずに幸せになれるなら、それでいい。どうせ慕う女との未来など、初めから私の手中にはないのだから。

権兵衛の言う通り、口づけそのものは初めてではない。しかし、想い人を相手にするのは初めて。行為そのものは同じとわかっていても、心積もりが違えばどう対峙していいか迷うわけで。

承諾しながら動かない私に痺れを切らせた権兵衛が、色々なところに思考を巡らせている私を呼ぶ。よほど私が甲斐性なしに見えるようで、元女官の顔には不安が色濃く見えた。

「紅明様から口づけるのが嫌でしたら、わたしが」

そう口にした想い人は、勢いよく私の顎下に両手を添える。

「お止めなさい」

私の輪郭を覆うように宛がわれた権兵衛の手を払えば、眉尻を下げた彼女は顔を歪めた。こういうときに"女に恥をかかせるな"とはよく言うが、ここで止めなければ恥をかくどころでは済まない。

「権兵衛から致せば、"女官が皇子に手を出した"ことになります。ほかに誰もいないとお思いかもしれませんが…他国の密偵が潜んでいる可能性もありますし」

私の発言に、元女官の顔が強張る。密偵などと発したからか、左右に首を捻って権兵衛は周囲を窺う。しかし、我々を囲むのは桜の木々と風に舞う葉桜だけ。本当に密偵がいれば、遠巻きに周囲を見渡しただけの素人に見つかるヘマはしない。

「あなたが仰ったような"切腹もの"の行為を誰かに知られれば、あなた一人の問題ではなくなります。実家の反物屋はもちろん、呉服屋の婚約者一族ともども洛昌どころか煌をも追われるでしょう…たとえ私たちの間に合意があっても、です」

ここまで言えば、いよいよ自分から口を吸わずにはいられなくなった。"真綿で首を絞める"という言葉の意味を今ほど痛感したことはない。

「…しかし、本当にいいんです?城を出たら呉服屋に行くのでしょう?紅や白粉が落ちても知りませんよ」

「…構いません!呉服屋に向かうのは事実ですが、この化粧も反物も香水も…すべて紅明様にお会いするために用意いたしました。好きな殿方の眼に最後に映る自分は、今までで一番綺麗なわたしでいたいのです。わたしのわがままを聞いてくださった証拠の化粧が紅明様に移るなら…本望でございます」

本当にこの女は。私の想いを察する素振りすら見せない想い人に、だんだん腹が立ってくる。

「…いつまで目を開けているつもりです?さっさと閉じなさい」

この直後、今まで無風だったのに突然強風が吹いた。権兵衛の背後から吹く風で彼女の顔周りの髪が舞い上がり、私の頬を掠める。頬から滑り落ちた髪を両手のひらで掬うと、初めて嗅ぐ香水の匂いが立ち上った。少し膝を曲げて掬った髪を権兵衛の耳にかければ、ようやく彼女は瞼を閉じる。

葉桜の下でキスをしよう。先ほどの突風で少し肌寒さを覚える私にとって、唇から伝う温もりは非常に心地いい。このまま抱き寄せて愛の言葉を囁ければどれだけよかっただろう、という本音を胸の奥底にしまい込んだ私は、衝動のままに権兵衛の口内を抉った。

「ちょ、何す」

「権兵衛」

力いっぱいに私の胸を押した権兵衛の問いを、彼女を呼ぶ第三者が遮る。視線だけを動かして声の主を確認すると、例の呉服屋の法被を着た男が見えた。

念のために「あれが旦那ですか?」と問えば権兵衛は頷き、「見られたかもしれない」と肩を震わせる。遠目から長男坊を見る限り、見ず知らずの男に花嫁の唇を奪われたことには気づいていなさそうだ。

「…いいですか、権兵衛。先ほどのあれは"気まぐれで皇子が女官に手をつけた"だけです」

この言い訳のためにも、私から口づけしなくてはならなかった。それを理解できないほど権兵衛は愚かではないが、彼女からの返事はない。

「早くお行きなさい。私は忠雲を呼ぶので彼が来るまでここにいます」

「そんな、紅明様をお一人にさせるなんて」

「いいから早く彼をここから遠ざけなさい。…あの呉服屋の人間とはいえ、市井の者に皇族が姿を晒すのはよくありません」

市井の民に皇族が姿を見せるのは、国慶節や春節などの限られた機会だけ。いくら城内に出入りする"禁城御用達"の人間だろうと、皇族の私生活を垣間見ることは許されない。

「承知いたしました。…紅明様。わたしのわがままを聞いてくださり、ありがとうございました。またど」

「もう二度と会うことはないでしょう。お元気で」

私に深々と頭を下げた権兵衛は、小走りで長男坊の元に向かった。右手の人差し指と中指、人差し指で唇を軽くなぞると、指の腹にはいつもより濃い色の紅。葉桜が舞うこの場所に私は一人立ち尽くし、紅の残る右手を握り締める。叶わないとわかっていても、また会えますようにと願うほかないのだ。



[ << prev ] [ 36 / 44 ] [ next >> ]
[ Back ]
[ Bookmark ]



2020-2024 Kaburagi.
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -