Short | ナノ


1/365【side him】(練紅明)


この日は三百六十五日で平凡な一日。

十二月某日。テレワーク中の自宅で、スマートフォンが鳴り響く。相手は幼少期からの専属護衛で、今は秘書でもある忠雲。緑のアイコンをスワイプして通話を始めると、"例の物をお渡しできます"と秘書は言う。

"例の物"の正体は婚約指輪。父や兄弟のコネクションを最大限に駆使し、トルコの宝石商から直接石を買いつけ、別の貴金属工に特注で作らせたものだ。貴金属工から婚約指輪ができたと連絡が入ったのは十一月末で、現地に取りに行くよう忠雲に頼んでいて。トルコに一泊の弾丸出張から秘書が帰国し、今日で十六日目。

「じゃあ、今から私の家に持って来てください」

「え、予定ではご主人様が取りにいらっしゃるんじゃ」

「外は寒いので」

当初の計画では、秘書の言うように私が取りに行く予定だった。しかし、すでに計画は頓挫している。衝動的に権兵衛にプロポーズしてしまったから。それを忠雲に告げれば、「はぁ?」と呆れ声を彼は漏らす。

「家を空けて怪しまれないようにって俺に出張を命じたの、ご主人様でしょう?…まあいいや、何はともあれおめでとうございます」

「いえいえ、指輪の受け取りだけでなく隔離期間もありましたし、忠雲には苦労をかけましたね。…ということで、もう一苦労を」

「まあ陰性でしたし、リモートでできる仕事はやってたんで。そちらに向かうのは構いませんが…今から家に行ったら権兵衛さんがいるでしょう?」

二十五日に婚約指輪を渡すことは明言していたが、指輪自体は当日までのサプライズにしたくて。二人揃ってテレワークしていることを知っている忠雲は、権兵衛に指輪がバレることを懸念していた。

「大丈夫です。権兵衛、今日は出社日なので」

月一回の出社日で、年内最後の出社日。オフィスの大掃除もあると聞いていて、すぐには戻らないはず。それを聞いた忠雲は、すぐに行くと言って通話を切った。

幼少期から気心知れた仲の忠雲とはいえ、さすがに上下スウェットで相手するわけにはいかない。プライベートならまだしも、私の私的な目的で海外出張してもらったあとだ。それくらいは弁えている。

面倒と思いつつ、着替えるために部屋に暖房を入れた。部屋が暖まるまでに、シンクに沈めた昼食の皿を洗う必要がある。もこもこの冬用スリッパをペタペタと鳴らし、キッチンに私は向かった。



「まさかとは思ってましたけど、本当に三兄弟で一番最初にご主人様が結婚するとはねえ」

「どういう意味です?」

リビングに忠雲を招き、インスタントのドリップコーヒーで淹れたコーヒーを啜る。私の視線の先には、深紅のリングケース。秘書から受け取った指輪は想像以上だ。

石は大粒のブラックオパール一つだけ。宝石こそ使っていないが、主役を最大限引き立てるための繊細な装飾が土台に施されていて。指輪を見た婚約者がどんな顔を見せるか、今から期待が膨らむ。

「紅炎様も紅覇様も結婚願望はあるけど、紅明様はそうじゃなかったでしょう?でも権兵衛さんがいるし、二人がくっついたら結婚は早そうだなって思ってたんですよ」

「…"権兵衛さんがいるし"、とは?」

「…本気で言ってます?」

頷けば、「あんなに好き好きオーラを権兵衛さんが出してたのに、あんたは鈍すぎる!」と何百回目かわからない話を忠雲が切り出す。

「てっきり権兵衛は兄上を慕っているとばかり」

「またその話ですか?…あれは紅明様との関係を相談してたんですよ」

兄上と権兵衛の仲は、ずっと気に揉んでいた。兄上の隣にいる権兵衛は頬を赤らめていたし、二人に割って入ろうとしても「紅炎さんとの秘密だから!」と制されたこともある。

なかなか交際宣言しない二人を疑問に思いつつ、二人の関係を明らかにするのが怖くて。現実から目を逸らすように興味のない女性と付き合うこともあった。年齢のわりに交際人数は多いほうだが、一年以上続いたのは権兵衛だけ。

私から告白したのも今の恋人だけで、他の全員が判を押したように同じ理由で私との関係に終止符を打ってきた。"あの子が好きなんでしょう?"、"紅明は幼馴染の子しか眼中にない"、"権兵衛さんには勝てないから"。どれも別れ話で過去の女性に言われた言葉だ。

「権兵衛さんを好きなのに、クラスで彼女作って。"本当はご主人様も権兵衛さんを好き"って言うわけにもいかないし、泣きじゃくる権兵衛さんを青秀と宥めるの大変だったんですから」

「はいはい、私が悪うございました」

何十回繰り返したかわからない昔話の応酬を続けていると、リビングのドアが開く。二人でドアに顔を向ければ、何かを抱えた権兵衛。彼女の視線がこちらに向かないうちに、慌ててチノパンの左ポケットにリングケースを突っ込む。

「ただい…忠雲さん!お久しぶりです」

「どうも、お邪魔してます」

ゴトリと音を立てながら、両手に抱えていたものをダイニングテーブルに権兵衛が置いた。それは赤い葉のなる鉢植え。

「どうしたんです?それ」

「駅前のお花屋さんで買ったの!ポインセチアがあれば、この家も少しはクリスマスっぽくなるでしょう?あとシュトーレンもお取り寄せしたから!」

満天の笑みを浮かべた権兵衛はマフラーと手袋、バッグをソファーに置き、洗面所に向かう。扉が閉まった先からは、"赤鼻のトナカイ"の鼻歌が聞こえる。

「権兵衛さん、ご機嫌ですね」

「ええ。プロポーズしてからこうなんです」

二十代半ばにもなって子供のようにクリスマスを楽しみにしている権兵衛が、可愛らしくて仕方がない。思えば恋人は幼少期からクリスマスが大好きな子だった。

毎年サンタクロースに手紙を書き、聖夜だけ枕元に置かれる大きな靴下を翌朝ひっくり返す。三百六十五分の一の朝の、一瞬に過ぎないイベントにはしゃぐ幼馴染が可愛い、とは物心がついた頃から思っていた。

しかし、初めて権兵衛を泣かせたのもクリスマス絡みで。サンタなどいない、正体は両親と権兵衛に告げた小二の冬。このときは兄上にもこっぴどく叱られたのをよく覚えている。

「またインスタント?ダメだよ、忠雲さんが来てくださってるのに」

洗面所から出てきた婚約者は、ミルに詰めた豆を挽きはじめた。コーヒーチェーンで学生時代にバイトしていた権兵衛はコーヒーに一家言あり、いつも自分で豆を挽く。しかし、コーヒーを飲めさえすればいい私はインスタントで十分なのだ。

「挽きたてコーヒー、忠雲さんもいりますか?」

「せっかくなんでいただきます」

しばらくすると豆の砕かれる音がキッチンから消え、コーヒーの香りとともに"ジングルベル"の鼻歌が漂う。湯を注ぐ音が聞こえはじめると、権兵衛に聞こえない声で秘書が私に問う。婚約を知ってる体でいいのか、まだ知らないふりをしたほうがいいのか。答えを告げて間もなく、三人分のコーヒーを権兵衛が持ってきた。

「ありがとうございます、私の分まで…」

「いいえ…ねえ、紅明。もう忠雲さんに言った?」

タイムリーな話題を振る恋人に、私は首を振る。対面の忠雲も「えっ?何を?」と話題を気にする素振りを見せて。忠雲に伝えてもいいかと尋ねる権兵衛に肯定の意を示せば、ソファーに座った彼女はぐっと私との距離を詰める。

「わたしたち…婚約したんです」

「へえ、おめでとうございます!」

本物の婚約指輪の在処を知っているのに、「婚約指輪は?」と秘書は問う。恋人の反応が気になって右隣に顔を向けると、嬉しそうにはにかむ彼女が答える。

「クリスマスにくれるんですって」

それならクリスマスにプロポーズでよかったのではないか。計画を崩された恨み半分の指摘への返答に困っていると、助け船を出したのは権兵衛。

「本当は紅明もそのつもりだったらしいんですけど…気が変わったみたいで。でもプロポーズ記念日と婚約指輪記念日で、特別な日が増えるからいいんです」

とびきりの笑顔で答えた婚約者は、自身の左手薬指を愛おしそうに眺めている。婚約だけでここまで喜ぶとは、予想もしていなくて。

元々私は記念日なんて面倒派で、互いの誕生日だけ祝えば十分。クリスマスはもちろん、ホワイトデーが面倒だからバレンタインデーも邪魔なくらいで。それでも、記念日一つで権兵衛がご機嫌でいてくれるなら、それも悪くないと思えてくる。

「クリスマスに紅明様がプロポーズだなんて、想像もできなかったな。だってご主人様、クリスマス嫌いでしょう?」

「嫌いではありません。ただ…理解できないだけです」

一男性の生誕祭が恋人の日になる意味が。わざわざ寒いなか割高な料金を払って、さほどうまくもないコース料理を雰囲気だけのレストランで食べたり、安いシャンパンのついたプランでホテルに泊まったりする理由も。

"クリスマスだから"というだけで、当たり前のように贈り合うプレゼントだって。日頃の感謝なら他の日でいいはずで、日付に必要性がないならディナーやホテルなんて余計にごめんだ。私にはすべてが理解できないし、これから理解する気もない。

「あんなこと言うの、紅明くらいですよね」

「そうそう。権兵衛さんじゃなければ、とっくに愛想尽かしてますよ」

「わたしもそう思います。でも…昔から本当にいいものを紅明が見たり食べたりしてきたのを知ってるから、雰囲気だけとか安いシャンパンとか思っちゃうのもわかるんです」

これには私も賛同する。とはいえ、破局寸前の大喧嘩まで発展した去年の口論で、それなりに私も懲りていた。今思えば一年前に終わっておかしくない関係だったと思うし、婚約に漕ぎ着けたことすら奇跡的に思えてくる。

大喧嘩を経てもそばにいてくれる権兵衛を失いたくないからこそ、二十五日に何かできればと思った結論がプロポーズだった。それでも、家から出たくない気持ちは変わらず、今年は家でのクリスマスにしてもらっている。いくら昨年の大喧嘩で懲りたとはいえ、譲れないものはあるのだ。

「じゃあ、本当にいいレストランやホテルにご主人様が連れて行ってあげれ」

「寒いから嫌です」

このやり取りも、数えきれないほどしてきた。"やっぱり"と顔に書いてある忠雲と権兵衛は、二人顔を合わせて苦笑いしている。

「じゃあ、俺は帰りますね。本社に寄らないといけないので」

腰を上げた客人を目で追うと、窓の外にはすっかり暗くなった空。忠雲がやって来たのは午後イチで、思いの外権兵衛と三人で盛り上がっていたらしい。切らした粉チーズを買いにコンビニに行く婚約者と秘書を玄関まで見送ったあと、指輪をしまうべく私室に戻った。



十二月二十五日。棚の上に飾れるサイズのクリスマスツリーが置かれたリビングで、権兵衛の笑い声がこだまする。

兄上にいただいたセーターに着替え、ユニクロのスウェットのポケットにリングケースを忍ばせてリビングに向かった私。扉を開けるや否や、同じく兄上から贈られた赤いセーターに身を包んだ婚約者は私を見るなりカーペットに転がった。

「こ、こうめ…っ、がっみ、見てっな…の」

どうやら私の姿が恋人のツボに入ったようで。身体を震わせながら、浅い呼吸の合間に短い言葉を権兵衛は紡ぐ。

「紅明のけだ…まっ…見たの、い、つぶり…かなっ」

言われるがまま洗面所に行けば、扇のごとく広がった左右対称の紅い毛玉。確かに頭を潜らせるとき、バチバチとすごい音がするとは思っていた。しかし、手鏡もない自室では格好を確認する術もなくて。

言われてみれば、いつもより右目を覆う髪の分量も多い気がしないでもない。頭皮の凝りが取れると毎日権兵衛が使うブラシをこめかみから少し離れたところに宛がい、ぐっと耳の後ろに引き寄せる。

「あいたっ!」

当然ブラシに髪が絡まって。ブラシを洗面台に置いて手櫛で髪を解いていると、洗面所の扉が開く。

「ごめ…笑いすぎた。わたしがやるから、リビング行こうよ」

まだ目尻に涙を残したままの権兵衛に手を牽かれるがまま、リビングに戻った。背中を丸めて繋がれた手に視線を向けると、違和感を私は覚える。差し出された恋人の左人差し指には、定位置にあるはずの指輪がない。

就職した四月から毎月貯金し、社会人二年目に入るときに憧れのブランドで買った権兵衛の宝物。その指輪にはかなり気を遣っていて、手が汚れる場ではチェーンに通して首にかけている。

さらに「指輪が主役だから」と、人差し指の指輪以外の宝飾品を左手には着けたがらない。宝飾品に留まらず、右利きなのに腕時計すら右手につけるほど。空港のX線検査や健康診断以外では、言葉通りその指輪を権兵衛は肌身離さない。

恋人の印でさえ右手の薬指が定位置で、目を凝らせば今はそれすら外されていることに気づいた。第二の定位置である首元にも、指輪はない。その意味がわかるからこそ、暖かい部屋に戻った私の背筋は伸びる。

指示に従ってカーペットに腰を下ろせば、手際よく毛玉にブラシが通されていく。しばらくして髪を結うか、ソファーに座る権兵衛に問われて小さく頷くと、間もなくして項に空気が触れた。

権兵衛にとって今日は特別な一日かもしれないが、婚約指輪記念日だろうと私にとっては普通の一日で。着飾って外出しなくてもイルミネーションなど見えなくても、こうして平穏な日々を二人で過ごせればいい。

「できたよっ」

そう言って肩の上から私の前に回された権兵衛の右腕を、身体を右に捩りながら解いて。ごく短時間で終わったスキンシップに呆然とする恋人の右手首を掴んでソファーから下ろして引き寄せ、唇を重ねる。左腕を背中に回しつつ顔を離して権兵衛の表情を窺ったとき、インターホンの音がリビングに響いた。

「…あっ、シュトーレンだ!」

受け取りにいかなきゃと私の胸を押して、一階のエントランスを権兵衛が開ける。玄関に向かう婚約者の背中を眺めながら、手持ちぶさたになった右親指の腹を軽く唇に当てれば、外出予定のない休日にかかわらず薄く施された化粧の痕跡。

床暖房に張りついていたい気持ちを堪えて腰を上げ、箱ごと抱えて床暖房に寝転がり、ティッシュで紅を拭き取った。あのまま渡す予定だった婚約指輪は、依然としてリングケースともどもスウェットの中。リングケースを潰さぬよう、右半身を下にして床から温もりを享受して。

どう指輪を渡すか考えていると、"要冷蔵"シールの貼られた段ボールを手にした権兵衛がリビングに戻ってきた。お取り寄せグルメにほくほく顔の恋人を呼べば、シュトーレンを手にした彼女が身体を起こした私の隣に腰を下ろす。

「先ほどの続きと指輪、先にどちらが欲しいですか?」

好きなものほど最後に残す権兵衛のことだ、おそらく指輪が後。しかし、なかなか答えを恋人は口にしない。静観に飽きてもう一度声をかけようとしたとき、立ち上がってテーブルに段ボールを置く権兵衛。私の正面で足を止めた彼女は、膝立ちで私に向き合う。

「まずシュトーレン!そのあと婚約指輪がいいな」

予想外の答えに驚きを隠せずにいると、途端に視界が暗くなる。一瞬温もりを感じた部分に右手を宛がうと、指の腹には再び紅の跡。

「これでさっきの続きはおしまい!早くシュトーレン食べよっ」

段ボールの伝票をはがしつつキッチンに向かう権兵衛は、開封作業をしながらカトラリー類や皿の用意を私に依頼する。床暖房に張りついていたい気持ちを堪えて腰を上げ、"サンタが町にやってくる"の鼻歌が聞こえるキッチンに私は向かった。



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