Short | ナノ


紐(練紅明)


大学生活二年目の六月。沈むところまで沈みきったテンションで、一覧の一番上に固定した相手にLINE通話を始める。付き合って二年半を迎えようとしている彼氏・練紅明の声が聞こえたのは、五コール目の途中だった。

「もしもし。…もしもし、権兵衛?」

「紅明…聞いてよ」

高校の同級生だった紅明とわたしは、大学から遠距離恋愛をしている。地元・東京の大学に紅明は進学したが、わたしの進学先は地方都市の大学。国内でもユニークなカリキュラムに惹かれたわたしは、望んでこの都市で生活を始めたのだ。

毎日のように顔を合わせていた高校時代に比べ、彼氏と会う頻度はぐっと減っている。しかし、東京にいた頃も四六時中べったりだったわけではない。それでも、週に数日はLINE通話で近況を報告しあっている。

「…なるほど。盗られたのは上下両方ですか?」

「うん」

先ほど発覚した件について愚痴をこぼせば、電話口の紅明は小さくため息をついた。きっと怒ってくれるのだろうと思いきや、彼氏の口から飛び出したのは予想の真逆。

「下着くらいで…」

「え?」

「大事なのはその中で、下着なんてただの布ですから」

思わず問い返すと、輪をかけて身も蓋もない言葉が返される。下着泥棒にあった恋人を相手にあんまりだ、と返すものの、紅明は意に介さない。

「"ただの布"は言い過ぎましたね。…それでも下着なんて、せいぜい行為前に焦らしを生む興奮装置の一つにすぎませんから。まあ本来の衛生維持の役割もありますが、下着泥棒にとってそれは無意」

「…紅明のバカ!もう知らない!」

怒りに任せてLINE通話を終了させたわたしは、部屋の角で三角座りになってため息をつく。下着が布でしかないのは事実とはいえ、恋人の対応はあまりにひどい。紅明とは二年半でそれなりに喧嘩もしてきたが、今回ほど真剣に破局を考えるのは初めてだ。

とはいえ、わたしも冷静さを欠いている自覚はあって。買ったばかりのちょっと高価な下着がなくなったパニック状態のまま、スマートフォンを手にしてしまった。

通話の相手が恋人だろうと友人だろうと、落ち着いてからわたしも連絡すべきだったのは事実。紅明との関係の清算は一晩置いてからでも遅くないと判断したものの、心細さを拭えないままわたしは眠りについた。



翌朝。とても大学に行く気になれないわたしは、今日の講義の欠席を決める。体調不良で休むことはあっても、いわゆる"ズル休み"は長い学生生活で初めて。

とはいえ、どんなに登校する気が起きなくても、ゴミ捨ての日は変わらない。昨晩のうちに玄関に置いた可燃ゴミの袋を手にアパートの外に出ると、目につく人の多さに気づく。ここは仙台や博多とはかけ離れた田舎で、祭でもなければこんなに人が集まらないのに。

ゴミ捨て場で居合わせた人にそれとなく問うと、近所の広場にヘリコプターが停まっているという。この街に来て一年と少しが経つものの、ヘリコプターが停まるなんて初耳だ。

テレビのロケではないかと騒ぐ人もいるが、その割には有名人の名は野次馬から聞こえなかった。ヘリコプターなんて現実味のないものを目にすれば、下着泥棒にあったうえに恋人と破局寸前の現実から、短時間でも逃避できるかもしれない。そう思いながら、ゴミを捨てたその足でわたしは広場に向かった。



「権兵衛!」

ヘリコプターの操縦席と助手席に座る二人を見て、ようやく野次馬騒ぎの元凶にわたしは気づく。わたしを視界に捉えるなり、助手席から飛び出したのは紅明だった。

わたしの恋人は、世界的な大企業・煌々商事の次男坊。新幹線の距離だろうと軽々と越えてくるところは、実にお金持ちらしい。野次馬たちなど眼中にない紅明に、きつくわたしは抱き締められる。

「何しに来たの?」

昨日の怒りがマグマのごとく噴出しそうになるのを堪え、不機嫌を隠さずに恋人に問う。視線を上に向ければ、やけに強張った顔の彼氏と視線が絡む。

「…さすがに私が配慮に欠けていました。布切れ一枚だろうと何だろうと、泥棒に入られたら気分が悪いのは当然ですから。すいませんでした」

紅明の声色や表情からは、心からの反省が見て取れる。とはいえ、ここで絆されないくらいにはわたしも苛立っていて。まだ怒っていると主張する代わりに彼氏を一睨みしていると、彼の背後からわたしを呼ぶ声がした。

「紅明様、本当なら昨日のうちに権兵衛さんの家に行きたかったみたいだけど、なかなかヘリの発着場の許可が取れなかったんです。許可を取れたのが今朝で、これでも航空法に抵触スレスレのスピードで飛ばして来たんですよ」

「忠雲さん…」

操縦席から出てきたのは、紅明専属の付き人・忠雲さん。彼曰く、昨晩のLINE通話のあと、ヘリを飛ばすよう忠雲さんに紅明がかけあったという。自分を棚にあげて紅明の学業を気にかければ、ようやくわたしの欲しかった言葉をくれた。

「講義なんかより、あなたのほうがずっと大切ですから」

嬉しくないと言えば嘘になるが、今更感は拭えない。きつく恋人に抱きしめられながら大切と言われようと、昨晩スマホ越しにその言葉を聞ければどんなに心強かったことか。わたしも意地になってそっぽを向くと、またしてもわたしに忠雲さんが話しかける。

「昨日のご主人様の発言には、正直男の俺も引いたんで…権兵衛さんが許せない気持ちはわかります。ですが…権兵衛さんを心配してるご主人様の気持ちは、一応本物ですから。せっかく男手があるんだし、どうせ紅明様を振るなら、犯人を捕まえてからにしません?」

わたし以上に紅明を理解している忠雲さんにそこまで言われれば、断る選択肢はない。今朝のニュースを見た限り、まだ犯人は捕まっていないはず。犯人が捕まらなければ、乾燥機付きの洗濯機が家にないわたしは安心して洗濯物も干せないわけで。ひとまず忠雲さんの提案を受け入れ、二人を自宅に案内した。



「…じゃあ、電気を消しますね」

その日の夜。下着泥棒を捕まえるべく、わたしたち三人はある作戦を立てていた。ダミーの下着をベランダに干し、再び下着を盗みに来た犯人を現行犯で捕まえる作戦だ。

盗まれてもいいダミーの下着は、昼間に忠雲さんが買ってきてくれたもの。「犯人の性癖はわからないので、とにかく男好きするデザインの上下を…別に忠雲の趣味でも構いませんよ」という紅明の命令で。その命令のせいで忠雲さんが家に戻ってからは気まずくて、忠雲さん自身や彼が選んだ下着を直視できずにいた。

そもそもダミーの下着はわたしが買いに行くと言ったのに、忠雲さんに行かせようと紅明はきかなくて。渋々忠雲さんが出かけて二人きりになると、滾々と紅明は謝罪を口にした。まだ許す気にはなれないものの、このまま別れるのもどうかと今のわたしは考えている。それくらい、紅明の謝罪は胸に迫るものがあった。

「…」

真っ暗な部屋の窓際で、いい年した男女三人が身を伏せている情景は、端から見ればすごく滑稽だろう。そんなことを考えていれば、ベランダから大きな物音が聞こえた。左隣の紅明に肩を叩かれたわたしがベランダに飛び出すと、ピンチに吊るした下着に頬を寄せる男性と目が合う。

実物の下着泥棒と対峙したショックや気持ち悪さから、わたしは悲鳴をあげてしまった。悲鳴をあげると犯人は逃げるから、大声を出すな。昼間から紅明と忠雲さんに口酸っぱく言われていたのに。

しかし、そんなわたしたちの予想を、大きく犯人は裏切った。わたしに気づくなり、犯人は下着をベランダに捨ててわたしに抱きつく。鼻の穴を大きく膨らませた中年男性は、そのままわたしの首筋に顔を寄せる。

すんすんと首元の匂いを嗅がれて身体が震えるものの、怖くて声が出ない。首元に伝う荒い鼻息とその音があまりに気持ち悪く、現実から目を背けようと瞼を閉じた瞬間。すぐそばで大きな音がした。



「本当に感謝してるけど…あんなことはもうしないで」

一時間後。警察署を出たわたしたち三人は、家への道を歩いている。わたしの隣を歩くのは、分かりやすくいじけた様子を見せる紅明。

あのあと恋人によって取り押さえられた犯人は、警察に通報してくれた忠雲さんのお陰で現行犯逮捕された。ベランダに出た紅明の手にあったのは、護身用で家に置いていたプラスチック製のバット。

いくらプラスチックとはいえ、バットを手に血相を変えて犯人に襲いかかる紅明は、明らかに正当防衛の域を超えていた。忠雲さんが止めてくれなければ、紅明も厳重注意では済まなかったかもしれない。

「紅明…本当に感謝してるんだよ。それでも、わたしのせいで紅明まで」

「私のことなんかいいんです。昨日の時点で私が配慮していれば、権兵衛は傷つかずに済みました。それに今日だって。最初から忠雲か私がベランダに出ていれば、権兵衛に怖い思いをさせて泣かせずに済んだのに」

確かに紅明の発言は一理ある。それでも、東京から朝一番で駆けつけてくれたことや、犯人捕獲の計画を立ててくれたことが、わたしにとっては何より重要だった。

「じゃあ、俺はスーパーに寄るんで」

夜ご飯は忠雲さんが作ってくれることになり、買い出しに向かう彼と別れて恋人と家路を進む。忠雲さんの背中が見えなくなって少ししてから、右手の指の間に紅明の左手の指が絡んだ。しかし、犯人に触られた恐怖が残っていて、思わず彼氏の手を振り払ってしまった。

すかさず恋人に視線を移せば、何かに怯えているような様子を紅明は見せる。常に冷静沈着で、取り乱すことなど滅多にない恋人とは、とても同一人物と思えない。

「…あ、違うの、紅明が嫌なわけじゃなくて、その…」

事情を説明すると、警察署を出てから強張っていた紅明の表情が次第にやわらかくなる。今日は朝から紅明と一緒にいるのに、こんな表情を見たのは初めてかもしれない。

「…てっきり、このまま振られるのかと」

ぽつりとつぶやいた紅明は、その場でへたり込む。先ほど紅明が見せた表情は、わたしに振られることへの不安の表れだった。それに気づけば、自然とわたしの頬は緩んでしまう。

告白も付き合って初めてのキスも、全部わたしからで。遠距離恋愛が始まってからも長い時間をかけて会いに行くのはわたしだけで、わたしばかりが好きなのだと思っていた。"彼女"だとしても、わたしを紅明はたいして好きじゃない。だから電話口であんなことを言われた、と思ったくらいだ。

しかし、そうではなかったらしい。少なくとも、へたり込んで動けなくなるくらいには、わたしとの交際続投に紅明は喜んでくれている。わたしも彼氏に向き合うようにしゃがみ、彼の手を取った。いつもわたしより幾分冷たい紅明の手が、今はやけに温かく感じる。

「そんなこと、一言もわたしは言ってないでしょう?」

先に立ち上がったわたしは、握った彼氏の左手をぐっと上に引っ張った。今朝は別れる気でいたが、そんな気持ちはとうに消えていて。今度は紅明の指の間にわたしから指を絡め、ゆっくりと家路を進んだ。



翌日。紅明とわたしは今日も警察署に来ていた。犯人は逮捕されたし、東京に戻って紅明は大学に行くべき。そう言ったにもかかわらず、再び警察署に行くと伝えると、ここに残ると言って恋人は聞かなかった。

「返されても困るんだけどな…」

警察署に来た今日の目的は、盗られた下着の返却。盗まれた物は持ち主に返すのが警察のルールらしく、警察で捨ててほしいと頼んだものの、取り合ってもらえなかったのだ。

「権兵衛、その下着見せていただけませんか?」

平日日中の路地での会話としてあまりに不相応な要望に、わたしは呆気に取られた。わたしが黙っていれば無言の肯定と解釈したのか、手にある遮光性のビニール袋を紅明がもぎ取る。袋から出さずに中身を確認した紅明が振り返ると、なぜか彼の顔は不機嫌を色濃く映していた。

「こんなの権兵衛が着けてるなんて…私は知らないんですけど」

「えっ…」

「私といるときに着けたことないでしょう?」

確かに盗まれた下着は、紅明といるときに着けたことはない。最後に紅明に会った日よりあとに買ったのだからそれは当然として。下着を"ただの布"呼ばわりしていた彼氏とは思えない剣幕に、わたしは狼狽えてしまう。

「でも、"色も柄もいちいち覚えちゃいない"って…。何でそんなことを…」

「確かにそう言いましたし、覚えていないのは事実です。それでも、紐を解いた覚えはありませんから」

盗まれた下着の特異性を示す単語に、わたしの顔に熱が集中する。自分の知らない下着を所持する理由を求める紅明の圧に屈したわたしは、彼から顔を反らして渋々口を開いた。

「…夏休みに紅明と会うときに着ようと思って、この前の土日に買ったやつだから…」

自分のための下着だとわかれば、紅明も追及の手を緩めるはずだ。そう思って白状したものの、すぐにその判断は誤り、むしろ逆効果と突きつけられる。

「まだ六月なのに干していた理由は?権兵衛の帰省なんて、早くて八月でしょう?」

「買ったばかりだからだよ。店頭に置いてあるものなんて、誰が触ったかわからないでしょう?」

煌々商事の御曹司の世間知らずは、交際前からわかっていたのに。紅明の場合、住み込みのメイドさんがタグの取り外しから洗濯、収納までやってくれるのだろう。わたしの説明に納得したようで、遮光性のビニール袋をわたしに紅明が返却する。

「…で?いつそれを権兵衛は着てくれるんです?」

「着るわけないじゃん!あの泥棒が着けたかもしれないし、頭に被ったかもしれないんだよ?」

警察で捨てて欲しかったと言ったのを、もう忘れたのか。そう返せば、罰の悪そうな顔で自身の後頭部を紅明は掻く。不満気な顔には、"洗濯すればいいでしょう?"と書いてある。

「未使用品でも気持ち悪いし、手袋越しでも警察にも触られてるし。紅明のために買ったのに、紅明以外が触った下着なんて…」

わたしの言葉に、普段の紅明からは想像できない速さで、返却したばかりのビニール袋を彼が奪い取った。きつく口を縛った袋を、アンダースローでゴミ捨て場に恋人が投げる。運動はあまり得意ではないはずなのに、紅明が投げたビニール袋はきれいな弧を描いてゴミ捨て場に着地した。



忠雲さんの操縦するヘリで東京に紅明が帰ったのは、その日の夕方。わたしたちが捕まえた下着泥棒には幾重もの余罪があったようで、近隣の女性にひどくわたしは感謝された。

今回の件で娘の身を案じた両親によって、わたしは大学の女子寮への転居が決定。安全が最優先とはいえ、今回の転居には寂しさも募る。あのアパートでは怖い思いをしたものの、紅明や忠雲さんとの楽しい思い出もあるから。

そうでなくても、初めての一人暮らしの家に思い入れがあるのは当然だ。しかし何よりも、二年半の半分が遠距離恋愛なのに、紅明が会いに来てくれたのはこれが初めて。恋人が来てくれた家というだけで、わたしにとって特別だった。

LINE通話の一件は、無条件で許したわけではない。許す代わりにもっと会いに来てほしいと伝えれば、寮の規則で男性を家にあげられない点を指摘しつつも、規則の抜け穴を掻い潜ると言ってすぐ紅明は承諾してくれた。

その夏に東京駅で再会した紅明から開口一番に飛び出したのは、「今日は紐ですか?」。二月ぶりの恋人との再会にもかかわらず、その日のわたしがご機嫌斜めだったのは言うまでもない。



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