Short | ナノ


人魚姫(スパルトス)


故郷から遠く離れたシンドリア王国。標高高い山麓に建造された内陸国と異なり、青く澄んだ海がシンドリアの国土全体を囲っている。この国に移住するために生まれて初めて国を出たとき、どこまでも続く海の広さと膨大な水の量にいたく私は驚いた。シンドリアに着くまで、甲板から飽きずに海を眺めていたのを思い出す。



それから数年後の私は、シンドリア王宮の食堂で二人の女性に童話を聞かせる。その童話は、バルバッドやレームに伝わる『人魚姫』。人間の王子に恋をした人魚の少女の悲しい物語で、私にとって思い入れのある童話だ。

敬虔な宗教国家の故郷では、"穢れた世界の物語"として異国の童話は禁書扱いになっている。そんな祖国で育った私が『人魚姫』を知ったきっかけは、外界に憧れた兄上だった。

父上の目を盗んでは市井で異教徒と交流を持った兄上が、土産話の一つとしてこっそり私に聞かせたのが『人魚姫』。内陸国育ちで泳ぎに苦手意識のある私も、幼少期は人魚に憧れたものだ。

「わたしも人魚になって泳いでみたいな…」

『人魚姫』を聞き終えてため息をつくのはゴンベエ殿。一年前に移住した元難民の彼女は、王直属の歌手として王宮で暮らしている。

ゴンベエ殿の歌唱力をいたく気に入った王が、反対するジャーファル殿を押し切って彼女をそばに置いた。それ以降、晩餐会や国の行事など、さまざまな場面で透き通るような美声をゴンベエ殿は披露している。

そんなシンドリアの歌姫は、泳ぎが苦手どころか水に浸かるのすら怖いという。幼少期にバルバッドで遭った水難事故がトラウマになっていると聞く。成人した今も、浮遊具があっても泳げない。湯殿にも浸かれず、足湯ですら終始震えながら三歳年下のピスティに抱きついていたくらいだ。

「ゴンベエったら、スパルトスの話聞いてなかったの?人魚になったら歌えなくなっちゃうんだよ」

「逆だよ。声を犠牲にしたから、人魚姫は人間の脚をもらえたの。ヤムこそ、スパルトスくんの話聞いてないじゃん」

「…じゃあ、声を引き換えにしてもゴンベエは人魚になりたい?」

話を聞いてなかった旨を指摘するゴンベエ殿をスルーして、ヤムライハが問う。昼食後に注文したパパゴレッヤのラッシーをストローで吸いながら、歌姫は小首を傾げて考える。

「…それで王子様が振り向いてくれるなら、人魚になってもいいよ」

頬を赤く染めたゴンベエ殿は、恍惚として右手の人差し指でストローをくるくる回す。

「ゴンベエ、王子様って誰?好きな人いるの?」

ニタニタしながらヤムライハが問えば、首や耳までゴンベエ殿は紅潮させた。イエスともノーとも言わないが、あまりに反応が露骨すぎる。その反応に、私の視線はシンドリアの歌姫に釘づけになった。

ササンの近くで育った一歳年下のゴンベエ殿に密かに想いを寄せる私は、彼女の脳裏に浮かぶ男性が気になって仕方ない。もっとも、異性関係に厳しい祖国の教義もあり、本人に気持ちを悟られないよう私は振る舞っている。

王やシャルルカンと違って、私は自分を異性として魅力的に見せる努力をしていない。つまり、ゴンベエ殿が異性として私を意識している可能性は皆無に等しかった。

「あのバカやピスティには黙っててあげるから、スパルトスと私に言ってごらんなさい!」

とても悪い笑顔で唆すヤムライハに、瞳に涙をためた想い人は首を振る。ふるふると首を振ってヤムライハに抵抗しつつ、チラチラと私に目配せしては助けを求めるゴンベエ殿。

捨てられた子犬のような目で助けを乞われ、思わず視線を逸らしてしまう。教義上、家族や許嫁以外の女性とみだりに目を合わせるのは好ましくない。そもそも許嫁などいたことないし、男兄弟育ちで女性の潤んだ瞳には元々免疫がないわけで。自分に向けられる視線が想い人のものとなれば、とても直視できなかった。

「もしかして王?お披露目の機会がなくても毎日呼ぶくらいゴンベエのこと気に入ってるもんね!それともジャーファルさん?年下キラーだし、女官にも隠れファン多いから競争率高いよ。違うの?それじゃあ…」

「…」

一人でぶつぶつ推理するヤムライハの声は、私の頭をすり抜けていく。自分の顔に集まった熱を冷ますのに必死だった私は、背中の向こう側で私の仕草に傷つくゴンベエ殿に気づかなかった。



それから数日後。シンドリアとの長きにわたる良好な関係の礼として、"トランの民の島"で小さな宴を開くことになった。王たっての依頼により、宴でゴンベエ殿が歌声を披露することになっている。すでに"トランの民の島"に向かう船は出港していて、船の警護を兼ねて甲板に私は出ていた。

「スパルトスさん、ゴンベエと何かあったんすか?」

そう問うのはマスルール。今回、八人将では私たち二人が王に帯同している。マスルールの問いに、即座に私は首を振った。

「ゴンベエ、スパルトスさんを見るとすごい速さで逃げて行きますけど」

「…何をしたか、まったく身に覚えがないんだ」

はっきり第三者に口にされると傷つくが、ここ数日のゴンベエ殿は明らかに私を避けている。しかし、原因はまったくわからない。ヤムライハと三人で『人魚姫』の話をしたときまでは、想い人の反応が普通だったと記憶している。その数時間後に王宮の中庭で視線がぶつかると、そそくさと視界からゴンベエ殿は消えてしまった。それ以降、歌姫は私から逃げている。

「何かゴンベエが勘違いしてるだけだと思いますけどね。スパルトスさんがゴンベエに何かしたとは思えませんから」

先輩じゃあるまいし、とマスルールが口にしたところで、近くの部屋から女性のすすり泣きが聞こえた。"トランの民の島"に向かうこの船に乗る女性は、シンドリアの歌姫ただ一人。ゴンベエ殿のすすり泣きが聞こえてくるのは、あろうことか王に宛がわれた部屋だ。マスルールと顔を見合わせ、意を決して王の部屋に突入する。

「王!ゴンベエ殿!」

「シンさん、ゴンベエに何やってんすか」

扉を勢いよく開ければ、ゴンベエ殿を抱き寄せた王が彼女の頭を撫でていた。私たちの入室に気づいた王は歌姫の頭に乗った手をぱっと離し、無実だと言わんばかりに両手を挙げる。私たちの突然の入室に驚いたのか、ゴンベエ殿はすすり泣きを止めた。

「…違う、誤解だ!おまえたちも聞いてくれよ!」



王曰く、ゴンベエ殿を連れ込んだというのはまったくの誤解。正しくは、王の部屋にゴンベエ殿が自らやって来た。王に悩みを相談するために。

「…"トランの民の島"に着くのは明日の朝で、歌の披露は夜だろう?まだ時間はある」

視線をゴンベエ殿に合わせた王が、宥めるように彼女に声をかける。ゴンベエ殿曰く、"トランの民の島"に向かう船に乗ってから、喉の調子がおかしいという。

マスルールと私に状況を説明するゴンベエ殿の声は枯れていた。時折苦しそうに喉に手を当てては、乾いた咳をして顔を歪める。ゴンベエ殿の涙は、喉が本調子でない申し訳なさから来ていたようだ。

「とにかくゴンベエは喉のケアが最優先だ。できるだけ潮風に当たらないよう、船の中にいるんだぞ」

王の言葉に、こくりと歌姫は頷く。完全に涙は引いたものの、ゴンベエ殿の目や鼻にはまだ赤みが残っている。

「ゴンベエ殿、大丈夫か?」

心配になって歌姫に声をかければ、乾きはじめていた彼女の瞳は再び潤い出す。右手で目を覆いながら、ゴンベエ殿は王の部屋を飛び出してしまった。想い人に避けられている事実を今一度突きつけられ、私も呆気に取られてしまう。

「…」

呆然とする私を何度も呼ぶマスルールや王の声は、私の耳には届かなかった。



翌朝。あと三十分ほどで"トランの民の島"に着くと操縦士から声がかかり、荷物を甲板に集め始める。"トランの民の島"に一泊するため、宴のために持ち寄る荷物だけでなく、個々の私物も甲板に出していた。

私物を運ぶ列にはゴンベエ殿もいる。喉の復調を最優先する彼女は、王の計らいで食事も室内で摂っていて。もちろん酒宴には参加せず、ずっと部屋に引き籠っていた。甲板に出るゴンベエ殿を見るのは乗船時以来だ。

理由もわからないまま一週間近く想い人に避けられるのは、予想より遥かに身に応える。我慢の限界に達した私は、私物を置いたゴンベエ殿の左腕を背後から掴んだ。

「ゴンベエ殿、話がある」

唐突に私に話しかけられたゴンベエ殿は、明らかに狼狽していた。理由がわからないとはいえ、そういう表情を想い人にさせたのが自分だと思えば、ため息の一つや二つつきたくなる。しかし、ここでため息をつけばゴンベエ殿がさらに怯えてしまう気がして、ぐっと堪えた。

「その…『人魚姫』の話をしたとき、私が何かしたか?自分でも原因はわからないんだが…嫌な思いをさせたならすまない。今は無理しなくていいから、喉が治ったら私から逃げる理由を話してほしい。ゴンベエ殿の嫌がることはしたくないんだ。あと、無視されると私も傷つく」

膝を曲げて視線の高さをゴンベエ殿に合わせ、いつもよりゆっくり思いの丈を伝える。それを聞いた歌姫の瞳は潤いはじめ、何かを言いたそうに口をパクパクさせていた。

まだ喉は本調子ではないようで、声なき泣き声をあげるゴンベエ殿。彼女の瞳にたまった涙が、ポタポタと甲板に落ちる。その涙を指で拭おうとすると、私たちの頭上に大きな影が落ちた。視界が影に覆われると同時に、ふわりとゴンベエ殿の身体が持ち上がる。

「南海生物が出たぞー!」

「乗組員の誰かを、アバレウツボが飲み込んでます!」

周囲の声で、はっと我に返った。ゴンベエ殿を咥えたアバレウツボが、そのまま海中に沈もうとしている。アバレウツボの牙の奥で、足湯ですら震えるほど水が苦手なゴンベエ殿は顔を真っ青にしていた。

緊急事態にもかかわらず、やけに頭は冷静で。万が一に備え、四肢と胴の鎧をさっと外す。背負う槍を右手に持って数歩の助走をつけ、アバレウツボの頭をめがけて私は槍を投げた。

槍はアバレウツボの頭に命中し、南海生物は呻き声をあげる。痛みから逃れようと首を振る南海生物の口からゴンベエ殿が弾き出され、重力に従って彼女は落下していく。

私とて泳ぎは得意でないが、そんなことは言っていられない。考えるよりも先に、身体が動いていた。ドポンと大きな音を立てて海に沈んだゴンベエ殿に追随するように、私も海に飛び込む。

水中で目を開けると、遥か下方にゴンベエ殿がいた。水泳の練習を怠ってきたことを、今ほど恨んだことはない。ヒナホホ殿やマスルールのように泳げたら、すぐにでも深く潜ってゴンベエ殿を救えるのに。異国の童話を兄上から聞いたとき以来、久しぶりに人魚になりたいと思った。

上がってこないゴンベエ殿の気泡に一抹の不安を感じていると、気を失った歌姫がゆっくりと浮上してくる。おそらく肺に空気が残っているのだろう。体内の空気まで吐ききってしまえば、歌姫の命が危ない。浮上途中のゴンベエ殿を左腕で掴んだ私は、彼女に口伝いで酸素を送り込んだ。

「…!」

気絶していたはずのゴンベエ殿が目を開け、パニックから脚をジタバタさせる。このまま歌姫に身動きされれば私の命も危うくて、急いで海から顔を出した。

「むやみに動くな。動くと二人とも沈んでしまう」

私の首にしがみつきながら肩で息をするゴンベエ殿に、少しきつめに言う。想い人の脚の動きが落ち着いたのを見計らい、私は彼女の背中に腕を回した。

「…スパルトスくん。なんで、キス…」

「あれは人工呼吸だ。…それよりゴンベエ殿、声」

私の指摘で声が出たことに気づいた歌姫は、自身の口元に左手を当てる。あー、あー、と発声して美しい声を確認すると、ようやくゴンベエ殿は笑顔を見せた。

「よかった…」

「よかったって?スパルトスくん、わたしのこと嫌いなんでしょう?」

事実と真逆のことを問うゴンベエ殿に、どういうことかと思わず聞き返す。苦手な海の中にいるのを忘れている歌姫は、顔を赤くしながら答えた。

「スパルトスくんが『人魚姫』の話をしてくれたとき、ヤムがわたしの好きな人を聞こうとしたでしょう?スパルトスくんに助けを求めたのに無視されたから。てっきりわたしのことを嫌いなんだと…」

そんなことがあった、とゴンベエ殿の言葉で思い出す。想い人に涙目で助けを乞われ、恥ずかしくなってつい視線を逸らしただけだ。とんだ勘違いと思えば、大きなため息をつかざるを得ない。

「ゴンベエ殿を嫌いになんて、なるわけがないだろう?…この数日、そんな勘違いで想い人に逃げられたとは」

「想い人…?」

「ああ。好きだ、ゴンベエ殿」

小さい声で私の発した言葉を確認するゴンベエ殿の目を見て、想いを伝える。身体を冷やさぬよう二人で抱き合っているとはいえ、海水は我々の体温を奪っていく。それにもかかわらず、ゴンベエ殿の身体は熱い。

「…わたしも、スパルトスくんが好き。好きだったから、嫌われたと思ってすごくショックで、顔を見るのも辛くて…。勘違いしてごめんなさい」

「もう何も言わなくていい」

「スパルトスさん!ゴンベエ!二人とも無事ですか?」

声の方を見上げれば、船の甲板からマスルールが私たちを見ている。ようやく水中にいるのを気づいたゴンベエ殿は、ひぃっと小さな悲鳴を上げながらより一段と私に身体を密着させた。

海水で身体に服の生地が張り付いていて、鎧もなくて。よりダイレクトに伝わるゴンベエ殿の体温にどぎまぎしながら、平然を装ってマスルールに合図を送る。こんなとき、思考の出にくい顔でよかったと思ってしまう。

「今から浮き輪を持ってきますから」

そう言って、私たちの視界からマスルールは消えた。現在地が水中だと気づいてからカタカタ震え続けたゴンベエ殿の身体は、ようやく振動を止める。怖くないかと尋ねれば、満面の笑みで歌姫は答えた。

「スパルトスくんがいるから怖くないよ。海の泡になるところだったわたしを助けてくれて、声を取り戻してくれたスパルトスくんは…わたしの王子様だから」

「…『人魚姫』か」

恥ずかしげもなくそんなことを言うゴンベエ殿に、こちらの顔が赤くなる。王子様と結ばれても脚の代償に人魚姫が失った声は戻らないし、そもそも二人が結ばれたら『人魚姫』ではない。しかし、そんなことはどうでもよかった。

照れ隠しで再び歌姫から顔を逸らそうとすれば、船から王が私たちを呼ぶ。浮き輪を投げて引き上げるから、浮き輪に届く場所まで泳ぐよう王は指示する。ゴンベエ殿はまったく泳げないため、私一人の力で彼女を連れて行かなくてはならない。身体の力を抜くよう想い人に告げれば、私に彼女は身体を預ける。

浮き輪のそばに着いたとき、私たちの顔より少し高さのある波が近づいてきた。このまま波にぶつかれば、海水が顔に直撃してしまう。どうせ濡れるなら。

「人魚姫なら、少しは潜れるな?」

「えっ」

戸惑うゴンベエ殿の両肩に手を乗せ、ぐっと海中に引き寄せた。王やマスルールからは見えない水中で、シンドリアの人魚姫に唇を重ねる。今度は人工呼吸などではない。

それに驚いた歌姫があまりに脚をジタバタさせるため、両手の力を緩めて水面から顔を出した。口で酸素を取り込むゴンベエ殿を確認し、左手で掴む浮き輪に打ちつける波に合わせて、再び彼女の肩を押す。息継ぎをしたら、もう一度水中でキスをしよう。



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