毒薬 -Love is a Poison...-(ジャーファル) | ナノ


七日(016)


「もう無理〜!」



王宮料理人としてシンドリアで働き始めて一週間。誰もいない自室で叫び、わたしは寝台に潜り込んだ。ここ数日、わたしは仕事終わりも厨房での自習に明け暮れている。

シンドリアは現王が興して十年に満たない新興国家。海を隔てた立地もあり、南国の文化は国外に知られていない。いや、国外にも知られた文化はあるものの、それは氷山の一角にすぎなかった。他国と一線を画す独特なシンドリアの食文化に、王宮料理人として覚えることは予想外に多い。

ルルムちゃんから教わったことをヒナホホさん一家に伝える仕事は、三週間後から始まる。すぐに始まらないのは、王宮料理長が掲げた条件が理由だ。それは、"シンドリアの王宮料理人として基礎を学ぶのが先"ということ。

今までの国と大きく異なるシンドリアでの仕事は、十八歳から王宮料理人として働くわたしにも新鮮に映る。今は覚えることが多く大変だが、やりがいがあって楽しい。しかし、仕事に忙殺されているのが現状だ。

今は先輩たちに食らいつかなければいけない時期。自室と厨房の往復に終始する生活もやむを得ないのはわかっている。しかし、せっかく友達になったヤムちゃんやピスティちゃんとは、あれ以来顔すら合わせていない。この一週間、厨房の人間以外とは一切口を利いていないはずだ。

「明日働けば、二日連続で非番…」

呪文のように呟いて瞼を閉じると、そのまま意識が遠くに消えた。



「ゴンベエさん、おはようございます」

翌朝。食堂に入る前に購入した巻物を眺めながら、わたしは一口大のパパゴレッヤを口に運ぶ。声をかけられて顔を上げると、視界に緑のクーフィーヤが映る。相席していいかと問われれば断る理由はなく、巻物を小さく巻きながらわたしは頷いた。

「この時間にジャーファル様が朝食とは、珍しいですね」

王宮料理人の朝番は、早朝三時半から働き始める。朝早くから活動する官職の朝食を作るのが目的で、その代表が目の前の政務官だ。朝五時の食堂の開場とほぼ同時に政務官が朝食を摂ることは、先輩たちから聞いている。ちなみに、"この時間"といってもまだ六時半。朝早いことには変わりない。

「今はシン…王が外交で国を留守にしているので、多少ゆっくり寝られるんです」

仕事のサボり癖がある国王に手を焼いている。そうジャーファル様は続けた。つまり、手のかかる主が不在の今だけは自身の仕事に全力投球できるのだ。

それでもジャーファル様が忙しいことには変わりなくて。ゆっくり寝たところで、この時間には朝食を摂らねばならない。そう言ってから、政務官は調味料をかけることなく目玉焼きを口に含んだ。

「ゴンベエさんはシンドリアの仕事に慣れましたか?」

「正直なところ、こんなに忙しいとは思ってなくて。"就労許可が下りれば嫌というほど料理するのだから、今くらい観光すればいいのに"と、かつてジャーファル様の仰ってた意味がようやくわかりました」

もちろん仕事は楽しいんですけどね、とわたしは笑いながら付け加える。しかし、不安そうな顔でジャーファル様はわたしの顔を覗き込む。

「ゴンベエさんもお疲れのように見えます。ちゃんと休みを取れていますか?」

今日の仕事が終われば、明日と明後日は非番。そう伝えると、政務官の表情は柔らかくなる。わたしの疲労を気遣いながら、頬を赤くするジャーファル様。普段の色白肌とはかけ離れた頬の染まり方に、わたしは違和感を覚える。

働き詰めの夕方ならまだしも、今は体温の低い早朝だ。しかも、"多少ゆっくり寝られた"早朝。体調が悪そうなのは過労のせいではないか、と一人で気を揉んだ。しかし、わたしは言いたいことを喉元で飲み込む。それを口にするのはお節介な気がした。

何より、ジャーファル様は慢性的に寝不足な可能性が高い。出会って日の浅いわたしが知る限りの情報をかき集めただけでも、そう思えるだけの根拠はある。

「今夜は三徹の可能性もある」と口にしたのは、とある日の政務官の部下。部下が二徹しているなら、上司も当然二徹以上していたはずだ。少なくともわたしの知るジャーファル様は、部下に仕事を押しつけて自分だけ眠りにつく方ではない。

「それなら明日と明後日はゆっくり休んでくださいね」

この一週間、わたしたちはまともに顔を合わせていないはず。それなのに、わたしの疲労をよく見抜けたものだ。シンドリアのナンバーツーの洞察力が秀でているのか、よほどわたしの顔に疲労が色濃く出ているのか。疑問に思いつつ、わたしは政務官の気遣いに舌を巻く。

「ありがとうございます」

わたしがパパゴレッヤの最後の一切れを竹串に刺すと同時に、どこからかジャーファル様を呼ぶ声がした。

「すいません、私は失礼いたします」

わたしに一礼し、政務官は声のした方に向かう。一度離席してコーヒーをマグカップに注いだわたしは、相席で中断した巻物に再び目を通し始めた。



「お先に失礼いたします」

昼番の勤務時間後。先輩たちに挨拶し、わたしは厨房の扉を閉める。待ちに待った、シンドリアで迎える最初の非番がやってきた。

わたしは鼻歌を歌いながら、自室へ繋がる廊下を一人歩く。明日と明後日の過ごし方は決めていない。しかし、今日もあと五時間以上残っているわけで。わたしは部屋に戻るなり、この一週間一度も開けていない洋服箪笥を開けた。



「食用の砂漠ヒヤシンスがシンドリアでも食べられるなんて知らなかった…何年ぶりだろう、幸せ…」

迷った挙句、市街地に出たわたしは趣味の食べ歩きに興じている。バルバッド最後の一年は日に日に生活が貧しくなり、食べ歩きをする金銭的な余裕がなかった。

シンドリアでは勤務日に賄いが出るし、勤務時間外でも王宮食堂ならかなり安く飲食できる。そのため、お金には余裕があるのだ。今朝のジャーファル様との会話で観光しておけばよかったと思ったのも、食べ歩きを決めた理由だった。もちろん観光は食べ歩きの二の次になっているのだけど。

「砂漠ヒヤシンスをラム酒漬けにしてるのは確実だけど、ほのかに葡萄酒の酸味もするような…」

砂漠ヒヤシンスのラム酒漬けはチーシャン時代に好んで食べていた。しかし、あのとき食べたものとは違う味がする。もちろん作り手による違いはあるのだけれど、それだけでは片付けられない隠し味があるはず。

ああでもない、こうでもない、と羊皮紙に筆を走らせながら、わたしは独り言を口にする。そこに、注文していたアバレオトシゴの唐揚げを持った店主がやってきた。

「弱らせるときに葡萄酒を浴びせて、ラム酒で漬けるんだよ」

自分の味覚の鋭さと思わぬ助け舟に感激しながら、わたしは筆を執る。観光客かい?と聞かれ、わたしは端的に職場を答えた。軽く雑談をしたあと、厨房に店主は消える。熱いうちに食べようとアバレオトシゴの唐揚げに箸を伸ばすと、大きな声が店内に響いた。

「アバレオトシゴの唐揚げを楽しみに終業時間まで耐えてたのに…!あんまりだァ」

「申し訳ありません、先ほど最後のアバレオトシゴを出してしまいまして」

声の方を振り返るとシャルルカン様。ピスティちゃんとマスルール様の姿も見えた。

「シャル…アバレオトシゴは次回にしよう。今日はヤムもスパちゃんもいないし」

「アバレオトシゴの唐揚げで、もう口がいっぱいなんだよォ…」

シャルルカン様とピスティちゃんのやりとりに、目に見えて店主がオロオロしている。他の卓の料理など見ていないにせよ、料理が運ばれてきたタイミングを考慮すれば、"最後のアバレオトシゴ"がわたしの目の前にあるのは明らか。

「あの…よろしかったら一緒にいかがですか?」

耐えかねたわたしは、シャルルカン様ご所望のお皿を見せながら四人に声をかけた。

「ゴンベエちゃん!」

「お客様、しかし…」

「…ゴンベエちゃん、ありがとう!」

戸惑う店主をよそに、麦酒の樽を持ったシャルルカン様はわたしに縋りつく。かと思えば、シャルルカン様はせっせと麦酒の樽を一つわたしの卓に運び込んで。あっという間にシャルルカン様は、アバレオトシゴの唐揚げの共有を既成事実化した。

店主に目配せすると、彼はわたしに謝意を告げて厨房に戻る。マスルール様とピスティちゃんも、遅れてわたしたちに合流した。

「ゴンベエちゃん、一人で飲んでたの?」

「ううん、食べ歩きだよ。今日は昼番だったから時間があって」

「せっかく友達になったんだから、誘ってくれればよかったのに…」

しょんぼりするピスティちゃんを宥めていると、厨房にいたはずの店主が戻ってくる。先ほどのお礼と言って、店主が一枚の紙をわたしに手渡した。開いた紙に書かれていたのは、砂漠ヒヤシンスのラム酒漬けのレシピ。

「ありがとうございます…!」

新たな宝物を急いで腰の巾着にしまううちに、シャルルカン様が持ち寄った麦酒がわたしのグラスにも注がれる。遠慮する間もなくグラスは麦酒でいっぱいになって、わたしは三人に謝意を伝えた。

「冷めないうちに食べましょう!」

アバレオトシゴの唐揚げを四人で味わう。先ほど"アバレオトシゴの唐揚げを楽しみに終業時間まで耐えた"と話していたシャルルカン様。その言葉通り、薄っすら湯気の立つ唐揚げに彼はキラキラした眼差しを向けている。

たまたま入った店でたまたま目についた料理を注文したばかりに、シャルルカン様の楽しみを奪ってしまった。しかし、そんなわたしにシャルルカン様は何度も何度も謝意を伝えてくれる。

そしておいしそうにアバレオトシゴの唐揚げを頬張るシャルルカン様に、わたしまで嬉しくなってしまう。おいしそうに料理を食べる人の姿を見るのは、料理人としてのやりがいを感じるのだ。たとえ自分で作った料理でなくても、食べているのが見ず知らずの人でも。

このあとも八人将三人との会話が弾んで。わたしはシンドリアで働いてから初めて、明日の仕事を気にしなくていい夜を過ごした。



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