▽エスケープキーが欲しい
パソコンを触るひとならば、たいていは使ったことのあるエスケープキー。
言い間違えたり口が滑ったとき便利だろう、すべてがなかったことに出来てしまえば。
佐記はぼんやりとそんなことを考えていた。
バイトで先輩に叱られたとき、嫌いな授業のある日、そんな法則を無視したことは不可能とわかっていても、故に惹かれてしまう。
女の子が魔法を使うヒロインに憧れるのと似たようなもの。
現実にはリセットボタンもない。エスケープキーもない。
(あーあ)
とはいえ、佐記は心の底からそれを欲していたのではなく、あったらいいな、便利だろうなとそんなレベルでだった。
「あ、プリント出してない」
放課後の廊下を歩きながら、突然はたと思い出した。今日が提出期限の数学のプリント。
提出しなければ大量の課題が待っている。
数学は佐記の嫌いな授業ベスト3に入るものだったから、課題だけはごめんだと元来た道を引き返して職員室に向かった。
――佐記が準備室の前を通り過ぎたとき、それはドアの隙間から微かに見えた。
ふたつの人影、それはゆっくりと目の前で重なり合って、
「………っ!」
足が反射的に動いた。けれど佐記の意思とは反対に、目はじっとその光景を捉えようとしてその地点から動かなかった。
階段をまさしく転がるように駆け下りながら、佐記は強く思った。
ああ、今まさにエスケープキーがほしい、と。