▽来てほしい、君だから。
いつものように、俺はピアノを弾きに音楽室に向かった。
放課後の音楽室は俺の城。吹奏楽部は活動日が少ないから、火曜日と木曜日以外で俺の邪魔をする者は誰もいない。
窓からの夕陽を受ける黒い肢体が艶めかしい。そっと蓋を開ければ知的なモノクロの世界が広がっている。思わず撫でたくなるような美しさに、目を細めた。
俺はいつも持って来ている楽譜を開いた。この楽譜は曲の途中でページが破られていて、そこから先はわからない。父さんが気に入っていた楽譜なのだが、俺に作曲の楽しさを知ってほしかったらしく、わざわざ楽譜を破ったらしい。
父さんの狙い通り、それは俺の興味をひいた。ラストが想像できない曲、決められていない曲を自分で仕上げることができるからだ。作曲とまではいかないこの中途半端な作業が大好きだった。
「上手だね。」
「え?」
感情のままに曲を仕上げた俺の耳は、小さな呟きを捕えた。そちらに振り向くと、背の高い女子がようやく気付いた、と言いたげに笑った。
俺は鍵盤から指を離す。
「聴き入っちゃった」
「小さい頃に習ってたから。まあ、現役の人とは比べ物にならないけど…」
「そうかな?音楽に詳しくないから偉そうなこと言えないけど、すごく、心が揺さぶられる。感情が音になって伝わってくる。」
壁に寄りかかっていた彼女はゆっくりと背中を離すと、ピアノを撫でた。指先がピンと張り詰めている。光沢のある黒をなぞる白が、とてつもなく綺麗だった。まるで何かの芸術作品のよう。
ピアノに視線を落とす横顔は、つやのある垂れた黒髪で隠れている。対照的に肌は白くて彼女自身がピアノのようだ。顔立ちが特別いいとかスタイルがいいとかではない、非凡な美しさがあった。
「それに、自分の手で何かをつくりだすってすごいと思うけどな。曲、途中で終わってるじゃない。なのに作っちゃって。想像したの?」
「ああ、好きなんだよ。この曲の続きを考えるのがさ」
「そう。」
夕陽がじわりじわりとピアノを橙色に染め上げてゆく。ふと彼女の髪に視線をやると、やはり濡れたカラスの羽のような髪がぎらりと輝き、オレンジとも茶色ともいえない色に変わる。
彼女の横顔も赤みを帯びてしまい、思わずカーテンを閉めたくなる。せっかくの芸術が。俺が顔をしかめていたとき。
くす、と遠慮がちな笑いがこぼれたと思うと、シャッという軽い音とともにオレンジが遮断される。
「眩しいよね、ごめん」
ーーーそういうことじゃないんだけど。
俺はありがと、と笑いながらもまったく別の感情を抱く自分に嫌悪した。光が遮断され、どことなく薄暗くなった室内に彼女とふたりきりという事実が、別世界で起きているかのようだ。
ねえ。
俺の問いかけというか呼びかけに、彼女は摘まんでいたカーテンを離してくるりと向き直る。薄い唇が“あ”の形になるのを見て、俺は心臓を鷲掴みにされたような気がした。
「なに?」
「嫌だったらいいんだけど、よかったらまた、」