▽嘘はついてない
――これで殺して。いい?
彼女はぼくの目を見て言った。その白い手にはすらりと伸びたナイフ。鈍い光沢を放ち、まるで獲物を狙う猛獣の瞳のようにぎらぎら輝いている。
ぼくはそっとナイフを受け取った。鉛のように重たく感じる。どくん、と心臓が鳴る。ぼくの視線は勝手に彼女の胸に注がれた。彼女の脈打つ心臓にこれを突き立てるなんてそんなこと、
――お願い。
彼女はぼくの顔を覗き込み、眉を八の字にしながら言った。ぼくがその表情(かお)に弱いのを知りながら、そうやってお願いするきみはずるいよ。
「…わかった…」
ぼくが呻くように応えると、彼女は嬉しい、と笑う。ああ、これがきみの最後の笑顔になるなんて。あの華がほころぶような笑顔がこの世から消えてしまうなんて。
彼女はフと笑んでから目を閉じた。カールされた長い睫毛も、ルージュの塗られた唇も、カタカタと震えている。やはり緊張しているのだろうか。
「大丈夫だよ…大丈夫」
ゆるく巻かれた髪の毛を撫でると、こくりと彼女が頷いた。するりと両手がぼくの右手を握る。ぐ、と力が入ったのを感じ、ぼくも唇を噛み締めた。
突然心中しようなんて言いだすから何事かと思ったけれど、この先生きていても希望は見つからないのは見え見えだった。仕事を失いつつあるぼくと、体が弱い彼女。支え合えるはずもなかった。
――さよなら。
彼女は嬉しそうに言った。愛してるよ。ぼくは呟いてから彼女の心臓に刃先を向ける。これで彼女を刺すんだ。ああ、ああ
『ドス』
…え?
「さよなら」
彼女が優しい笑みを浮かべて言った。ぼくが刺そうとしたはずの彼女には、かすり傷ひとつついていない。そのかわりにぼくの腹に、ナイフが突き立っていた。
どうして、という言葉も紡げない。彼女が口角を上げながら、ぐり、とナイフを捻った。絵の具のチューブを思いきり踏んづけたように、赤が飛び散る。
「わたしはちゃんと確認したわよ、殺していい?って」