風船




〜いーくん 3歳〜


冷やりとしていた肌寒さが消えて 暖かい陽気に包まれる
最も快適に過ごしやすい季節 春の到来は
昆虫や草花 動物だけでなく 人にとっても嬉しいものだ
柔らかな日差しが注ぐ中 木々の葉を揺らし
通り抜けた風が 優しく肌を撫でるのを感じて目を瞑る
その心地良さを体内にも送るべく ひとつ ふたつと深呼吸をした

「ぱぱー」

呼び掛けと同時に ズボンを軽く引っ張られる
閉じていた瞼を持ち上げ 足元に顔を向けると
不思議そうな それでいて困ってもいるような
なんとも微妙な表情を浮かべるいーくんと目が合った

「ん? どした?」

「しゅーはー まだしゅるの?」

「いや もうしないよ」

自分を真似て 一緒に深呼吸をしていたいーくん
きっと いつまで続けるつもりなのかと思ったのだろう
早く広場を駆け回りたいのか 足先をちょこちょこ動かしている
「何して遊びたい?」いーくんへ問いかけると 遠くの木を指した

「あっちいく よーいどんしゅる」

「パパといーくん どっちが勝つかな?」

「いーくんかつ!…よいどん!」

「あっ! ずるいぞ!」

「きゃははっ」

よいどんってなんだ(可愛いな) フライングのつもりなのだろうか?
しかし 多少のフライングをされたとて 3歳児に追いつくのは容易い
追い抜く距離まで近づくと いーくんはきゃーきゃーと声を張り上げ
抜かれまいと必死になって走る姿に目を細めた


「たっち! いーくんのかちー!」

「あ〜ぁ パパの負けだ いーくんすごいなー!」

ゴール地点の木に触れたいーくんが 勝利のポーズ(バンザイ)をした
その流れでハイタッチをして 喜ぶいーくんの頭を撫でる
全力で走ったからだろう 息を切らしている様子に
お茶を飲ませようとトートバッグから水筒を取り出した
けれども いーくんは水筒に見向きもしないでトートを覗くと
青いボールを手にして にっこりと笑みを向けてくる
どうやら お茶はご所望ではなかったようだ
木の根元に荷物を置いて いーくんから距離を取ると
もっと離れるようにと指示が飛ぶ

「この辺?」

「もっと」

「ここでいい?」

「もっと!」

「…遠くないか?」

「いいの!」

ざっと5メートル以上はあるが この距離だと
いーくんが投げるボールは自分のいる場所まで届かない
そう考えていると 走ってくるいーくんに やはり
届かないと気づいて距離を詰めてきたかと思っていたら
ボールを構えている姿に おや?と首を傾げる

「う〜……やっ!」

変な掛け声と共に投げられたボールは 芝生の上を
てんてんとバウンドして なんとか俺の足元まで転がった
助走をつけて投げてくるとは 教えていない投げ方に舌を巻き
元の位置へ戻るいーくんの背中を見ながらボールを拾う
ここは いーくんに習って自分も助走をつけるべきかと
一歩 足を踏み出せば 秒の速さでお咎めを受けた

「はしるのは いーくんだけ!」

眉を釣り上げてぷりぷり怒るいーくんに 思わず噴き出した
最近流行りの自分だけの特権ってやつだろう
自己主張が激しくなってきたいーくんの『ぼくだけがしていいの』だ

「わかった パパは走らないよ」

走って投げては 走って戻るを繰り返すいーくん
全力で遊びに興じる姿は いつ見ても可愛いものだ
へらへらと親バカな思考で投げていたせいか
コントロールを失ったボールは いーくんの顔面に直撃してしまった

「いーくんごめん! 大丈夫?」

鼻を抑え痛そうにしているのとは裏腹に
いーくんは目を輝かせていた

「ぱぱ! いーくん おいもだした!」

「ふっ…それを言うなら"思い出した"だろ?」

まったく この子はどこから芋を出すのやら
可愛らしい言い間違いを指摘しながら いーくんの顔に手を添えて
ぶつけたところを確認する

「ん〜……よし 鼻血は出てないな
  それで? いーくんは何を思い出したんだ?」

「ふーしぇんつくる!」

「え?」

「おしょらになげたら ふーしぇんになるよ」

「空にボールを投げたら 風船になるって?」

「うん」

「……ボールが? 風船に?」

「うん」

いやいや…なるわけないだろう
己の聞き間違いかと思ったが そうでもないようで
当然だと云う表情で頷くいーくんに どうしたものかと眉を下げる
テレビ 又は本で得た知識なのだろうけど
ヒントが少なく その出どころが分からない

「えっとね いっぱいあしょんでくれたから ばいばいして
  ありがとうってしゅると ふーしぇんになるんだよ!」

俺にわかってもらえていないと気づいたのか
身振り手振りでボールが風船になる様を表現して
伝えようとしてくるいーくんの必死な動きに目が行ってしまい
肝心の内容はというと 耳から抜けてしまっていたので
もう一度説明してもらう羽目になった

「……ごめん これが最後だから もう一回言ってくれるかな?」

「もー!」

3度目となる説明に いーくんが怒り始めたので
今度こそ集中して耳を傾ける(頑張れ俺 可愛さに打ち勝つんだ!)


「…もしかして『トトのボール』のことじゃないか?」

「うん! ととのぼーる!」

『トトのボール』とは先週まで放送していた短編アニメで
その主人公である男の子 トトのボールが大切に扱われていたことで
心を宿して話せるようになり 冒険をする物語だ
冒険の最後には 風船になって飛んでいくという結末だ
そんなアニメの影響で風船になると信じ 何度も空へ向かって
ボールを投げるいーくんの姿に胸を打たれた俺は
どうにか風船にしてやれないかと本気で考えてしまう辺り
親馬鹿だなと自覚したところで ひとつ名案が浮かんだ

「いーくんの力じゃ まだお空まで届かないんだよ パパにかして」

「ん」

「じゃあ お空に飛ばすから よーく見てるんだぞ」

「うん!」

投げる構えの状態で空を指し いーくんの視線をボールから逸らした
横目でいーくんを伺うと キラキラさせた瞳に少しばかり緊張する

「いくぞ……3…2…1…それ!」

空へ向かって 思い切り腕を振り被ってボールを投げた
……と見せかけて いーくんからは見えない体の位置に隠したんだが
まだ空を見上げてる様子からして 気づいてなさそうだ


「……とんでった?」

「うん 飛んでいったよ 今頃は大気圏に突入してるかもな」

「たいき? ぼーるみえなかったよ?」

「んー……投げるのが速すぎて見えなかったんだろうな
  ボールが落ちてこないだろ? ちゃんと風船になった証拠だよ」

全く見えなかったボールに実感が湧かないのも
当然と言えば当然か それらしい説明を並べてやると
ぽけ〜っと空を見上げていたいーくんは 見えない風船に
向かって手を振り「しゅごいねー!」とはしゃいでいた



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あれから数週間が経ち
再放送されたトトのボールを観終えたいーくんが
おもちゃ箱のある部屋へ向かったのを 横目で追いながら
畳んでいた洗濯物をソファの上へ積み上げる

「ぱぱ いーくんのぼーるしらない?」

「ボールなら 広場へ遊びに行った日に風船になったよ」

「ふーしぇん?」

「そう 風船」

忘れているのだろう 子どもの記憶力なんてそんなものだ
その日の朝食でさえ 何を食べたか覚えていないこともある
記憶の引き出しは常に開けっぱなしで 日々 新しい情報を
膨大に得ている状態だから たとえ数時間前のことでさえ
引き出しが一杯になれば 古い順に追い出されていく
かと思えば 今みたいに何週間も前のできごとを
突然口にしたりするから 対応に困る時があるのだ

頭の中で記憶を掘り起こしているのだろう
ぽかりと口を開けている 今の状態がそうで
開いた口が閉じれば 思い出した合図なんだが
思い出せる確率も3割程度だから それができなかった場合は
泣くか怒るかで愚図りだすから 納得させるまでが大変だ

(あ 閉じた)

「しょだった ふーしぇんになったね」

なんとか思い出してくれたいーくんに ホッと胸を撫で下ろす

「しゃみしーね」

「そうだな 淋しいな」

ボールがないとわかった今 別のおもちゃで遊び始めたいーくん
その背中が哀愁を帯びているのを見て そろそろ潮時かと腰を上げる
これまでの経験上 こうなることは予測済みで
思い出せたかそうでなかったか どちらに転んでも
大丈夫なように 既に対策は考えていた

「いーくん お茶飲む?」

「のむー」

「じゃあ 座って待ってて」

飲み終えたらテーブルに置いておくようにと言いつけ
お茶を飲んでいる隙に 収納棚に仕舞っていたボールを出し
リビング側のベランダの窓を 気づかれないよう静かに開けた
あとは いーくんのいる和室から発見しやすい位置に置くだけだ

「いーくん やっぱりコップ持ってきてくれるかなー?」

返事をしたいーくんが こちらへ来るタイミングに合わせ
ベランダに置いたボールを 和室側へ転がして窓を閉める
それを知らずに とことこやって来たいーくんが
空になったコップを手渡してきた

「はい どーじょ」

「ありがとう」

受け取ったコップをシンクに下げながら
ベランダのボールにいつ頃気づくだろうかと
反応が楽しみで いーくんの様子を観察していたのだが
ベランダへ走ったいーくんが ゴスッと鈍い音を立てて
窓に衝突したのを見て 声にならない悲鳴が喉から飛び出た

「ぱぱ! ぼーるいた!!」

「いーくんおでこは?! 大丈夫か? 痛くない?」

絶対痛かっただろうに ぶつけた本人はけろっとしていた
痛みよりも驚きの方が勝っているのか 興奮した様子で
窓を開けるようせがむいーくんに少々心配しつつ
窓を開けてやれば 急ぎながらも律儀にサンダルを履く様子に
変なところでしっかりしているなと目を丸くする
ボールの前でしゃがみ込んだいーくんは不思議そうに
指でボールをつついたあと 首を傾げながらこちらを見上げた

「ぼーる ふーしぇんになれなかったの?」

「そうじゃないさ いーくんにまた遊んでほしくて
  こうして 戻ってきてくれたのかもしれないよ」

そう説明しながら隣にしゃがめば「…ふぅん」と
理解しているのかしていないのか 気の無い返事をするので
あたかも今拾いました風を装って 50センチほどの長さの
たこ糸をいーくんに見せてやった

「なーに? …あっ ふーしぇんのひも!」

「ほらな ちゃんと風船になってただろ?」

ようやくピンときたのか 俺とボールを何度も交互に見ては
にまにまと口元を緩めていくいーくんに
あぁ 喜んでるんだなぁと思いながら見つめる

「しゅごいねー! かえってきたんだね!」

一気に上がったテンションに よしよしとボールを撫でては
おかえりのハグをするいーくん

「あのね いーくんね ほんとはしゃみしかったんだよ」

さっきまで忘れておいて 何を言ってるんだか
抱えられているボールに感情があったのなら
きっと そう思っていたに違いない
そんなことを考えていた俺は 聞いても無駄だろうけど
念のためにと室内へ戻るいーくんに訊ねた

「いーくん おでこは痛くないのか?」

「…おでこ?」

何のこと? と目をパチクリさせるいーくん
ぶつけた記憶は ボールとの再会で吹き飛んでしまったようで
やはり忘れてしまったかと 苦笑いを浮かべた俺は
いつものおまじないをしても きょとりとしているいーくんに
可愛い子だなぁと ぷっくりした頬を指でふにふに押した




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