気づいてる 〜胸の内〜





学校から帰宅して 今朝 父親に言われた内容と同じことが
書かれたメモに目を通した樹は その紙を弱く握り
そっと テーブルへ戻した
もう何日目だったか 壁に掛けられたカレンダーへ視線を流しては
これまでの日数を 頭の中でぼんやりと数え
随分前にも こんな日があった事を思い出していた

あの日は3日間 父におやすみと言ってもらえず
自らも おやすみと言ってあげることができなかった
3日目の日に 心細かった樹は 父親が帰って来るまで
眠たい目を擦りながら 頑張って起きていた事があった
深夜 開錠する音を耳にして 寝室から飛び出し
帰ってきた父へ おかえりなさいと抱きついた
日付は変わったけれど おやすみを言い合えることに
喜んでいた樹は 父が悲しそうな表情だったのを
理解することができず 困惑していたのだ
普段から 些細な事でも疑問に思ったことは その場で
聞いている樹にとって 聞かない選択肢はまだ選べなかった
その質問に 顔をくしゃりと歪めた父親は 子どもを強く抱き締め
その子が 辛うじて聴き取れるか取れないかの声で
何度も ごめんな と呟くことしかできなかった
謝るだけの父には 何も教えてもらえずにいたが
ただ なんとなく 理解できた樹は その日から
時々 父の帰りが遅くなる日が続いたとしても
起きて待つようなことは しなくなっていた
今日も 一人で夕飯を食べ 一人でお風呂に入り
一人で寝るには 広過ぎるベッドで横になり
いつもしているように 眠りのおまじないを唱える

おやすみ 樹

そのまじないを唱えた後 すぐ夢の中へ旅立つ子どもが
どんな夢を見ているかだなんて 誰もわかりやしない
それが 本人でさえもわからないのだから 些か不思議だ
ただ 朝になれば 父からおはようと言ってもらえるのを楽しみに
子どもは眠りに落ちる わかっているのはそれだけだ


ぱちりと瞼が開いて 最初に視界へ移ったのは寝室の天井
頭を横に向ければ ぐっすり眠っている父親が眼に入り
顔を綻ばせながら 起こさないよう 静かに擦り寄った
今日は 休日で学校もないから まだ起きなくて済む
けれど父は また今日も仕事に行くのかもしれない
目を覚ました父に 今日は休みだと言ってもらえるのを期待して
やっぱりやめて また期待する
そんな気持ちで 父の寝顔を静かに見つめていると
ゆっくり開かれていく瞼に 胸をドキドキ震わせながら
紡がれる言葉を待った

お決まりの挨拶のあと おでこにそっと唇が触れる
たったそれだけの事なのに 身体の芯からじんわりと
温かくなっていくのを感じた樹は 父の背に腕を回し
目の前の広い胸板に 顔をぎゅーっと押しつけた
その行動に 父親は甘えられているのだと感じ取り
片腕で抱きしめた体制のまま ごろんと上を向き
胸に乗る幼子の髪を指で梳いては 優しく撫でる
あ そうだ──ぽつりと そう呟いたかと思えば
上体を起こした父が 今日は休みなんだ と嬉しそうに話す
父が嬉しそうにしていると どうしてだか
自分も同じように 嬉しくなる樹は
相手に負けないくらいの とびきりの笑顔で微笑んだ


「まだ 寝てるー?」

「ん…起きようかな」

ぐーっと伸びをして 白いスウェットを脱ぐ父に習い
樹も パジャマのボタンを外しながら
今日 一日中 父と過ごせることに胸を躍らせていた
樹は 話したい事が山ほどあった
学校で新しく習い始めた授業のことや 友達とのこと
外で小さな発見をしたこと 近所の人達のことなど
数日分の出来事を 話したくて仕方がないのだ


「──それでね ぼくの投げたボールが
  木に引っかかったんだけど 翔ちゃんがすぐに
  ひょい ひょいって登って 取ってきてくれたんだ」

「へぇ すごいな」

「すごいよね! 翔ちゃんは高い所平気なんだよ
  この前も 公園で─「樹」

殆ど 息継ぐ間も無く喋る子に 一旦制止をかけ
顎に付いた米粒を摘んで 樹の口元へ運ぶ
舐め取られたのを確認すると その唇を親指でそっと撫でた
食事中に喋るのは多少なりとも構わないが 手を止められるのを
あまり好まない父は そのことを軽く指摘する
言われた子は 自分のおかずと相手のおかずを見比べ
自分が話すのに夢中で 殆ど箸をつけていなかったことに気づいた
冷めたら美味しくない 父がよくそう話していたのを
思い出した樹は小さな声で ごめんなさいと呟く
それに対して父は首を緩く振り にこりと微笑んだ

「樹が話したいこと沢山あるの ちゃんとわかってるよ
  俺も樹と同じで 聞きたいことが沢山あるから
  食事の後で じっくり聞かせて欲しいんだ…いいかな?」

怒っているわけでも 咎めているわけでもない事を伝えられると
しょんぼりとしていた表情に ぱっ と明るさが戻る
止まっていた箸も お皿と口とを行き交うようになり
それに気を良くした父は ぬるくなった味噌汁を啜った

もこもこの泡を水で流し よくゆすいで指で擦る
キュッキュッと 小気味の良い音が鳴る食器を洗いかごに入れた
それを父に拭いてもらいながら またお喋りを始め
その後も 一緒に部屋の掃除や 洗濯物を干している最中に
樹の話がひとつ またひとつと消化されていく
休みの日には毎回恒例の 物干し勝負が今日も行われたが
この勝負で 一度も勝った試しがない樹は いつも通り惨敗の結果に
目に見えて悔しそうにしていた
洗濯物を干し終えて 父から手伝いの感謝をされると
なんだか照れくさくなり モジモジしてしまう
そんな樹をまた褒めては 頭を撫でる父の胸に
照れ隠しで 頭をぐりぐりと押しつけていると
今から出かけようかと 話すのが聞こえた
何をするにもどこに行くにも 事前に取り決めていることは少なく
今みたいに 突然言われることはよくあることだった
特に 父が休みの日は 必ずと言ってもいい程 出かける回数が多いので
樹にとっては急でも 父の中ではもっと前から
計画されていたのだろう 次々と挙げられる行き先に
なんとなく そう思っていた
遊園地 水族館 動物園 どれも行きたくてたまらない筈なのに
口から飛び出したのは それとは正反対の言葉で
樹は自分でも 断った理由がよくわかっていなかった
少々残念そうにしている父には 悪いと思っているものの
どうしても 出かけたい気分になれないのだから 仕方がない
体を下へずらしていき 父の太腿に頭を乗せて寝転べば
本当に行かないのか? と尋ねては髪をいじってくる父に頷いた


「おー 美味そう」

テレビを観ていた父が ぽつりと呟いたのが聞こえ
体を起こそうとしたけれど ローテーブルが邪魔だった
中々起き上がれないでいると 引っ張り出してくれたおかげで
その美味しそう な食べ物を見ることができた
おばさんが紹介している ぶりと大根の料理に 思わず涎が
出そうになった樹は 自分でも気づかない内に口を動かしていた
番組も終わりに近づき また来週〜♪ と手を振る女性へ
しっかり手を振るのは いつものこと
挨拶されたらし返すのと同じで 手を振られた時もそう
誰彼構わず振り返してしまうのは 樹のもう一つの癖だった

CMに切り替わった所で ちょっと前から気になっている
妙な感じを 振り払うかのように立ち上がる
それにモヤモヤしながら 和室にある玩具箱をひっくり返しては
一人遊びを始めた
隣にいる父と一緒に遊べばいいのに そうしないのは何故だろう
普段なら すぐ遊びに誘っているのに どうしてだか
今日は そんな気分になれない樹は
他に遊べる物はないかと 押入れの下へ潜り込み
二人で遊ぶにはもってこいの物を見つけた
意気揚々と引っ張り出した物は 黒いギターケース
父が弾いてるのを見て 自分も一緒に弾きたいと我儘を言い
5歳の誕生日に買ってもらった 真赤なミニギターを手に
コードをアンプに繋いで 音の調整をする父の目の前へ立った
久しぶりに演奏した曲を よく覚えていたなと褒めてきた父へ
たまに一人で 弾いていたからと 得意げに話し
その他にも 童謡や知っている曲を演奏しては 一緒に歌い
気づけば お昼の時間になっていた
ご飯を作る間 玩具を片付けるようにと言った父の背を見送ると
演奏していた時には消えていたモヤモヤが また散らつく
玩具を片付けてはいるが 思うように進まず
畳に転がっているカラーボールを 箱に投げ入れては
父がいるキッチンへと走り その長い足へ抱きついた
ぶらぶらと動く足は アトラクションみたいで面白く
自然と 笑い声がこぼれる

「樹〜 お昼ご飯なんだけど…
  ちょっと手を抜いたラーメンにするけど いいか?」

「うん! ぼく ラーメン好きだよ」

手の込んだや 手を抜いたや 父の作る料理なら
なんでも好きな樹にとって そういった事は関係ないのだ
なによりも 父が作ってくれることが大事なのだから

「そういえば 玩具は片付たのか? 随分早い気がするけど」

コンロをのロックを外した父に尋ねらた樹は 口を尖らせて俯いた

「……1人で できない…」

いつもは 一人でも片付けられるのに 今日は
それができなくて拗ねてしまう…そんな樹を
知ってか知らずか あとで一緒に片付けような と話す父は
とても 優しい表情をしていた
野菜ラーメンの上には たっぷりと盛り付けられたコーン
好物のコーンに喜んだ樹は 足をぱたぱた動かし
お箸で器用に摘んでは もくもくと食べた

食後にお茶を飲んで 少々まったりしてから
二人で歯磨きをしに 洗面所へ行く
自分専用の踏み台に乗り 父が持つ歯ブラシを奪っては
これまた自分専用の ぶどう味の歯磨き粉をたっぷりとつけた

「ふふふっ お揃いだね」

相手が顔を引攣らせていた事を 知る由もない樹は
お揃いに喜び 上機嫌に歯を磨いていた
丁寧に磨いたあとは 父に仕上げ磨きをしてもらう
歯科医の先生にも褒められる程のキレイな歯は
樹にとっても 自慢の歯だ

「きれいになった?」

「あぁ ピッカピカだよ」

父の応えに満足した樹は 台からぴょんと飛び降り 和室へ駆けた
散らかった玩具を 敢えて無視しては
近くにあったクッションを手繰り寄せ 頭を乗せた


「食べてすぐ寝転ぶと 牛になるぞ?」

「ならないもーん」

そう言われても気にしない だって ぼくは人間だもの
樹はそう思いながら 周りの玩具を掻き分け
畳を軽く叩いて 隣へ寝転ぶように促した
腕を枕にして横になった父のそばへ クッションごと擦り寄り
つぶらな瞳でじーっと見つめては むくりと体を起こし
自らが使っていたクッションを父に渡した
クッションの代わりに 目の前のお腹を枕代わりにした樹は
その枕が想像以上に固いことに驚き 服を捲ってはペタペタと触れる
ぱっくり割れた見事な腹筋は 男らしさが滲み出ており
樹は自分の柔らかいお腹が不思議で ぷにぷにと揉んでみだ
揉んでいるとおへそが気になり 指を突っ込んだら
父にやめなさいと 止められる
固いお腹を羨ましく思い 自分も同じお腹にしたいと話せば
柔らかいままでいて欲しいと言ってきた父に 変なのと呟きつつも
そのままでいることに決めたのだった
お腹もいっぱいで重くなる瞼は ゆっくり瞬きを繰り返し
ベッドへ移動するかと父の問いに 何も言わないまま静かに眠った



それから数十分ほど経過して ふと目が覚めた樹は
ぽーっとする頭で 父の寝顔を眺めていた
昼寝をしている彼は珍しく 樹が動いても起きないことから
やはり ここ数日の疲れが溜まっていたのだろう
疲れているのなら無理はせず 休んで構わないのに
いつも 遊びに連れ出そうとしてくれる父が
樹はあまり好きではなかった
そのことを 樹本人が自覚していないから 何も言えずにいる
たとえ休日でも 規則正しい生活を送る父のことだから
どうせ アラームを設定しているのだろうと
頭上に置かれたスマホに手を伸ばす
ロック画面になり パスワードがわからない樹は
この間テレビでやっていた 解除の方法をさっそく試してみる
ホームボタンへ 父の親指をくっつけてみると
あっさり解除された画面に 思わずにやりと笑い
時計の画面をタップして 設定されていたアラームを解除した
その辺にスマホを放っては 父の頭をさらりと撫で
薄っすらと隈が浮かぶ目元に そっと唇を寄せた
いつも父にしてもらっていることを いざ自分がしてみると
なんだか無性に恥ずかしくなり 固いお腹に顔を埋める
ドキドキと聴こえるのは自分の心臓の音か それとも
父から聴こえている音なのか 区別がつかないでいる樹
穏やかになっていく心音に 誘われるようにして瞳を閉じた


ーーーーーーーーーー


揺さぶられる感覚に意識を浮上させれば 今から買い物に
行くと話す父へ 眠たい目を擦りながら相槌をうった
タイムセールが始まってるから 急いで身支度をするのに
立ち上がった父を見て思い出した

「パパ 洗濯物!」

「…げっ」

慌ててベランダを開けようとした父は 散らかっていた玩具を
思い切り踏んづけてしまい その痛さに蹲る
玩具を踏まれたことに 抗議の声を上げてきた息子へ
自分の心配はしてくれないのかと ショックを受けながら
散乱した玩具を掻き集め 一箇所に纏めた
冷たくなった洗濯物は浴室乾燥行きだと諦めて
身支度をする父に急かされるのが なんだか面白くなってきた樹は
いそげ いそげ と口ずさみながら靴を履いた
エコバッグよし 財布よし と持ち物を確認する父へ
抱っこをせがめば その方が早いなと抱き上げられ
通路を駆け抜けている際の 振動がまた面白く
きゃっきゃと笑い声を上げる

「急げ♪ 急げ♪」

「いそげ♪ いそげ〜♪」

エレベーターを待ってる間 足踏みをする父と一緒に口ずさみ
乗ってる間も同じようにしていたら ピタリと止んだ声に首を傾げる

「ごめん…車のキー忘れた」

「えぇー」

ポケットをまさぐりながら 眉を下げて笑う父にしょうがないなぁと
地下に着いたエレベーターのボタンを押して 上へ戻った


スーパーの自動ドアを通り抜けると 一目散に鮮魚コーナーへ
走った樹は 値引きのシールが貼られてある
ぶりを発見し 後方の父にも見えるよう高く掲げ
目当ての物があったことを 大声で伝えた
カートを押しながらやって来た父は 人差し指を口元に当て 静かに
するよう注意しては 周りの人にぺこりと頭を下げているのを目にし
やっちゃった と思いつつも 笑顔を崩さない樹
そのすぐ後 知らないおばさんに話しかけられ 父が褒められたのを
聞いては 気分が良くなり思わず小躍りしていた
おまけに頭も撫でてもらえたので 樹の機嫌は上々だ
再度 静かにするんだぞと言われ 元気よく返事をした樹は
繋がれた手に満足し 大人しく買い物について行っていたが
先程渡した ぶりの値段を見た父が大きな声を出したことに
繋いでいた手を引っ張り 人差し指を口元に当てる
苦く笑い 舌を出して誤魔化した父にくすくすと笑った


トントントン──キッチンから聞こえる包丁の音に耳を傾け
後回しにしていた玩具の片付けをしている樹は
時々 ちらりと 和室から顔を覗かせて父親を見ていた
覗くたびに父と目が合い にっこりと微笑まれるのが嬉しくて
何回もしていると は・や・く と口が動いた
帰ってすぐ 父が半分ほど片付けてくれたおかげで
思っていたよりも 早く片付ける事ができた樹は
お決まりの位置から 料理を作る様子を眺めていた


「だから 噛んじゃダメだって言ってるだろ」

「う〜」

本日 二回目のガシガシを注意されるも
ご飯が待ち遠しくて 中々やめない樹が
内心可愛くて仕方がない父は ちょっとだけな と味見をさせる
もぐもぐと咀嚼し また口を開けた息子に ダメだと言いながら
味見をさせてしまう辺り この親の甘さが伺える

「はい これで終わり
  お箸用意して ご飯よそってくれる?」

「うん!」

椅子からぴょんと飛び降りた樹は 引き出しのカトラリーから
お箸を取り出し お気に入りの箸置きと一緒にテーブルに並べた
夕飯を共に食べるのは 何日振りだったか
そんなことを考えながら 手を合わせる
昨日より一段と美味しく感じるご飯に 明るい食卓
会話を交えながらの食事は 樹の心を静かに満たしていった


ーーーーーーーーーー

ベッドに入ったのはいいが もぞもぞと動く樹
昼寝をし過ぎたせいか いつもより遅い就寝時間でも
ぱっちりと開かれた目は 父親も同じだ

「樹 眠れない?」

「眠れなーい…パパは?」

「俺も 眠れないや」

「あははっ」

寝室に響く二人の笑い声
部屋の明かりを消し ベッドサイドのスイッチを捻る
淡い橙色の明かりに包まれながら 寄り添う二人
髪をさらりと撫でられ その心地よさに目を細めた樹は
温かい気持ちで 胸がいっぱいだった
一緒に夕飯を食べ 一緒にお風呂に入り 一緒に寝ることができ
ずっと 頭の隅にあった妙な感じは もうなくなっている
それでも どうしてモヤモヤしていたのか
自分がとうしたかったのかも 何一つわからないでいた
どこかへ連れて行って欲しいわけでもなく
特別 何かして遊んで欲しかったわけでもなく
一番安心できるこの場所で 大好きな父と一緒に過ごす
樹が望んでいたのは ただ それだけだった
だから 今こうして 一緒にいられることに
自分でも 無意識の内に幸せを感じているのだ
眠気がなかったはずの ぱっちりと開いていた瞳が
嘘のように閉じられていき 呼吸が深くなっていく
重みを増す瞼に逆らい まだ辛うじて起きていた樹は
優しく 温かいおまじないを耳にし すうっと眠りに就いた

「──おやすみ 樹」

おまじないの後 そっと明かりが落とされ
先に向かった息子を追い 父も夢の中へと旅立った
二人が どんな夢を見ているかは 定かではないが
穏やかな寝顔からするに きっと 良い夢を見ているのだろう
明日も明後日も これからずっと 今日みたいな日が続けばいい
そう思わずにはいられない程 幸せに満ちた寝顔をしていた






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