▼ 暖かな掌
私は買い出しに街の方まで来ていた。
街には市場が出ていて、そこでは野菜や果物が主に売られている。威勢の良い店主のいる果物売り場で、瑞々しさを感じる赤い林檎に目が留まる。自分の手の平を超える林檎を数個、ドルチェは店主にお願いした。
「お嬢ちゃん、そんなに林檎を買い込んでジャムでも作るのかい?」
「あ……はい」
「良いね〜今度おじさんにも作っておくれよ」
と、店主は陽気に笑った。
市場に買いに行く度、何かと声をかけてくる人が多い。マスターと買い物している時にもよく世間話をする。
私はすぐに会話が終わってしまうけれど、マスターはやっぱり違う。彼が話すと妙齢の女性は頬を染めながらおまけまでしてくれ、無口なお爺さんも笑顔を見せた。
私は何度か顔を合わせた事のある男性に軽くお辞儀をして、店を後にした。
……美味しく作れるだろうか?
重みのある紙袋を両手で抱えながら、完成を想像する。
小さめの紙袋だったのか、林檎が顔を出してしまい今にもこぼれ落ちそうだ。
「あっ、」
ゴロンと一個の林檎が転がった。
コロコロと転がる林檎を追うと、突然目の前に男が立ち塞がってきた。危なく落としそうになった紙袋をひし、と抱く。
何故か男は足の横で林檎を止めたまま、ニヤニヤとその場を動こうとしない。
林檎を止めてくれたのだろうか?それならお礼を言わなくては。
男の目を見て、開けた口を閉じた。そうっとお辞儀をして男の足元にある林檎を拾い上げる。なぜお礼を言えなかったのか、答えを考えながら汚れを払う間も男はその場から動かない。
にこり、と男は笑った。
私は首を傾げた。
まず最初にシャルロットの客人という線が浮かんだが、すぐに打ち消される。売りに来た内容は忘れても、何故かお客様の顔を忘れた事が無い。きっと知らない人……なんだろう。
だが、男からは親しげな雰囲気がある。
帰ろうと足を進める。
が、またも男が目の前に立ちはだかる。
仕方ないので右に移動する。すると男も同じように右に。今度は左に、と同時に男は左に。
「…………?」
動けずに固まっていると男は距離を縮めてきた。
「ねえ、一人?」
「……え……?」
鼻につく、アルコールの匂い。
その匂いは赤らんだ顔の男から漂っていた。
こんなに日が昇っていても、酔っ払いはいるのだ。と何故か感心する。
見れば男の後ろにいる三人組の男も頬を赤らめて、酒を飲んでいる。
目線は私と男に向かっていて、聞こえない声で話したり、笑い声をあげたりしていた。
「何とか言ったらどう〜?ははっ分かった。ここでお喋りするのが恥ずかしいのかな〜」
「いえ、そんな事はありません」
「うわっキツイねえ!でもそんな所も可愛いね」
尚も近寄る男。
……少しでも距離を取りたい。
後ずさる、が、男の手によってそれは敵わなかった。
「……手、離して下さい」
自分なりに睨んでみる。
が、潤んだ目をした男にはまるで伝わらなかった。
「ダーメ!ほら、お兄さんとちょっと奥の方で話をしようよ」
「あの……私、これから用事が、」
「いいからいいから!」
振り払おうと手に力を込めても、男の強い力には敵わない。
そのままずるりと手を引かれて、無理矢理足が進まされる。
「やめて、下さい」
そう男に訴えるが、男は何も答えない。
心臓の音はこんなにも五月蝿く鳴るものだったの……
引かれる手が、痛い。
引きずられるように歩かされ、どんどん暗い方へと向かっていく。
見て見ぬフリをする人、気づきもしない人。そんな人達も次第に少なくなる。
強く引く手を見る。ゴツゴツした男性特有の手だ。
そんな中、何故かふいにマスターの事が浮かぶ。
マスターの手はこの男とそう変わらないのに、何かが違う。
この手は、気持ち悪い。
「もう少ししたらもっと話し易い場所に着くからさあ、」
「こらこら、感心しないね。女性には優しくあるべきだよ」
突如現れた主に、私は目を見開いた。
「マスター……」
同時に男もマスターを見て唖然としていた。
小さな舌打ちが近くで聞こえると、視界が乱暴に揺れた。
男の胸に、自分の身体がある事に気づく。男との距離が一気に縮まった。
「っ、」
「なんだあ〜?色男さん、この子は俺とデートすんの。邪魔しないでくれな」
男は若干不機嫌そうだ。
マスターは優しげな笑みを私に向ける。
「ドルチェ、怖かっただろう。さあ行こう」
まるっきり無視をされた男は、酔った顔を更に真っ赤にしてマスターにつかみ掛かる勢いで近づいた。
「んだお前!その子には俺という先約が、」
「黙れ」
冷たく突き放すかのようなマスターの声。
男は肩を大きく震わせた。
その様子を冷めた目で見ると、マスターはその視線を私の右手に向けた。
マスターが間髪入れずに男の手首を握る。
骨の軋む音が聞こえ、次第に私の手首を掴む男の手は緩んでいった。
男は痛みからか涙目になっている。
すい、とマスターが男の傍に寄り、耳元で何か囁いた。
ぼそぼそと小さい声は、私には聞こえない。
ただ男は目を白黒させて、マスターの左手を見ていた。マスターが微笑みながら手袋を外す動作をする。男はひっ、と声をあげて、体勢を崩しながら逃げて行った。
ガラガラと路上にあった木箱を蹴り飛ばしながら、去る男にマスターは苦笑している。
その様子に、やっと深く息が出来た。男が逃げて行ったからなのか……
ちらりとマスターを見る。
マスターがいる。
それは私にとってこれ程安心するものなのだろうか。
「こんな所に、どうして……」
そう、どうして?
マスターは屋敷にいるはずなのに。
「久しぶりにドルチェと出掛けようと思っていてね。案の定寝坊してしまったけれど……」
マスターは困ったように眉を寄せた。そして深く息を吐いた。
「本当に運が良かった。ドルチェを探していて。すぐに会えるかと思ったのに、中々見つからなくてね……道行く人の話を尋ねたら、ドルチェらしき人物が男に手を引かれて連れてかれた、なんて言うもんだから、焦ったよ」
そうマスターは安堵したように微笑む。
なんとなく、穏やかに聞いた様には思えない。
けれどマスターのおかげで、私は何か大変な目に合わずに済んだと言うことは事実だ。
お礼を……言わないと。
「あの……マスター、有難うございます」
頭を下げて言うと、マスターは私の頭を撫でた。
「もちろん、ドルチェにはもっと気をつけて貰わないとね」
その声音は優しいが、念を押すように聞こえる。はい、と頷くとマスターは満足げに笑った。
そういえば最近マスターと共に出掛けていない。
特に一緒に出掛ける理由がなかったからだ。
出掛けていないからといって、何でもないのだけど。
先程の男の感触が蘇って来る。
右手は少しだけ赤くなっていた。それを見て、少しだけ心臓が不安定に跳ねる。
なんとなく、このまま帰るのは気が進まなかった。
「ああ、久しぶりだね。こうやって二人で出掛けるのは」
何ともない言葉に、見透かされたような気分になる。
私が持っていた紙袋を右腕に抱えながら前を歩くマスターの、背中を見つめる。
「今日一日の仕切直しだ」
そう言うと、マスターは振り返って左手を差し出してきた。
「いつも私に付き合って貰っているけど……今日は一日私に付き合って貰えますか、お姫様?」
それはいつか本で見た光景。ダンスパーティーに誘う男性の様だ。
私は頷かなかった。
代わりにマスターの手を取った。
あの手の感覚を忘れさせてくれるような気がする。
身体に伝わる暖かさ。何が違うのだろう。
マスターはその事を知っているのだろうか。
ただ分かること。
右手にあるその手は、確かに安心するものだった。
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