バタード・ラム


 打ち上げもそこそこに帰宅したのは、もうそろそろ二十二時に差し掛かる頃だった。「二次会まで出てくれば?」とナマエは言っていたが、せっかく家に来てくれているのに待たせるのは悪い。何より、オレが早く会いたかった。最後に顔を見たのは、もう一ヶ月以上も前のことになる。専門学生だったオレは一足先に就職したが、ここまで会いにくくなるとは思わなかった。
 ナマエはなんというか、物分かりがいい子だと思う。仕事が修羅場を迎え、ろくに会うことができなくても「頑張ってね」くらいで済ませてしまう。けど、いざ顔をあわせれば心底嬉しそうにする。そんなんだから、会える時にはナマエの希望を叶えたい。大抵は「一緒にゆっくりしたい」とか、そんな手軽なことを言うから、余計に可愛がってやりたくなる。
 家に着いて鍵を取り出すこともせずに呼び鈴を鳴らす。パタパタと軽い足音が近づいて、ドアを開けたナマエが「自分で開けてよ」なんて悪態をつく。その姿にすら癒されてしまうから、二次会なんて行かずに帰ってきて正解だったと思う。

「なぁに、これ」

 指に引っ掛けていた紙袋をテーブルに置く。ナマエが中身を覗き込む仕草に合わせて、ゆるくウェーブした毛束が背中からぱたりと落ちていった。

「あ、カヌレだ。おいしいとこのやつ」
「取引先の人にもらった。一緒に食おうぜ」

 帰り際に「お世話になりました」という定型文と共に渡されたそれは、ナマエの言う通り評判の店のものらしい。「今回で担当を外れることになったから」とも言っていたが、頭の片隅ではナマエが好きそうだとか、帰ったら一緒に食おうとか、そんなことばかりだった。貰っておいて失礼なこととは思うが、オレは家で出迎えてくれるあの姿に、一刻も早く会いたかったのだ。

「やった!じゃあ準備するよ。シャワーしてきたら?」

 ウキウキと効果音でもつきそうな様子だったから、早いところ夜のティータイムと洒落込もうとして、さっさとシャワーもドライヤーも済ませる。それだけをこなしたたったの十数分の間に、何かがナマエの表情を曇らせていた。キッチンに立った名前は神妙な面持ちで、手元の何かを見つめている。

「どした?」

 ぴくりと肩が揺れる。気まずそうに視線を揺らしたあとに作られた笑みはぎこちない。手元を覗き込んでその理由がすぐに分かった。

「ごめん、見ちゃった」

 ナマエの両手につままれたメッセージカードは、ケーキ箱をあけたら出てきたのだという。簡単なメッセージと電話番号、通話アプリのIDが女性らしい線の文字で書かれていた。

「モテるのも大変だね」

 乱雑に扱ってもおかしくない内容なのに、そっとカードを置く手つきがナマエらしい。

「いや、こんなん入ってると思わなくて…」
「あはは、いいよ。それよりどれ食べる?」

 へにゃんと眉をさげた笑顔に無理が見えた。箱に並ぶカヌレの説明書きと実物を見比べながら明るく振る舞っているが、空元気だと分かる。なにより、さっきから目が合わない。

「やっぱりプレーンかな。でも抹茶もおいしそう」
「なぁ」
「ん?どれにするか決まった?」
「なぁって」
「もう、なに?」

 ようやくこちらに向いた瞳の縁はほんの少しだけ歪んでいた。それでも笑みをつくる口元が痛々しい。

「ごめん、怒ってるよな」

 右手で頬を包むと、眉と一緒に口角も元のところへ戻って行った。

「怒ってないよ。ほんとに、怒ってはないんだけど…」

 視線をうろうろさせたあと、きゅっと唇を噛みしめる。左手でナマエの手を握ると、今にも溢れんばかりに瞳が潤んだ。

「隆くんの周りには素敵な人がたくさんいるだろうなって。そう思ったら、八つ当たりしそうになっちゃって、そういう自分が情けなくて」
「うん」
「だから、勝手にイヤになっちゃっただけ」

 どんどんと沈んでいく頭が居た堪れない。ナマエがぎゅっと瞬きした数秒後には、オレの右手は濡れていた。清潔な血がたっぷり通った白く健康な頬。テンセルやシルクを触る時、いつもこの頬の感触を思い出す。何にでもナマエを見つけてしまうのに、他のヤツが入り込む隙間なんてあるはずがない。なのにこんな思いをさせてしまうのは、単純にオレがナマエに甘えていたからじゃないのか。

「な、八つ当たりしていいよ。怒ってもいいし」
「悪いことしてないのに、そんなことできないよ」
「オレのせいで泣いてんだろ。だったらオレが悪い」

 だから怒っていいと告げると、瞳を覆う膜はみるみる水位を増し、ついに決壊した。拭ったそばからぽろぽろとこぼれ落ちる。それが会えない間に溜め込んだナマエ寂しさのように思えて、オレの心臓はひどく締め付けられた。

「もっと色々言ってよ。会いたいとか、こんなん貰ってくんなとか、なんでも」

 ナマエはたぶん、やろうと思えば大抵のことは自分ひとりで解決できる。寂しいとか悲しいとか嫉妬心とか、そう言うのも自分の中で折り合いをつけてどうにかしてしまう。でも、オレにできることはオレにどうにかさせてほしい。自分のせいで悲しい思いをさせるなんて、どうにも耐えられそうにない。それなら直接ぶつけられたほうが断然マシだ。

「オレに言いたいことない?」

 顔を見て本音が言えないナマエのために、頭を胸元へ抱き寄せた。濡れるのを気にしてか少しばかり抵抗されたけど、構わず押し付ける。握ったままの手の指を絡めるようにすると、きゅうと握り返された。

「…お菓子、貰ってきてもいいから」
「ん?」
「もうちょっと、一緒にいれたらうれしい、デス」

 こうしてやってはじめて、遠慮していた本音をなんとか言葉にできる不器用さが、オレを心底愛おしくさせる。こんな風にナマエを愛でることができるのはオレ以外にいない。それが堪らないし、優越感でもある。

「じゃあ一緒に住むか」
「えっ」

 さっきまでほらはらと流れていた涙は止まり、代わりに驚きで丸く開かれている。本当にくるくるとよく動く瞳だ。

「結構いい案だと思うけど」
「や、え、卒業してからだよね?」
「あー、まあ、そうなるか」

 「なら、ナマエの両親に挨拶いかねぇとな」そう告げると今度は顔を赤くする。え、え、と繰り返して困惑しているが、やっぱりいい案だと思うし、どうせそのうち一緒に暮らすつもりだった。遅いか早いかの違いだけなら、早いほうがいい。

「うちのお父さんガンコ親父だから、覚悟したほうがいいかも」
「マジか」
「…ウソ」
「おい、このヤロ」
「へへ。ねぇ、これ食べようよ」

 してやったり顔でニヤリと笑い、カヌレの箱を広げる。洋酒の甘い香りが鼻をかすめた。

「食うんだ」
「んー、ちょっと複雑だけど。でもこれおいしいとこのヤツだから、一緒に食べたいなって思うよ」

 涙の干上がった赤い目の縁が柔らかく、正しく細まる。オレの知らないところで泣くなんてせずに、ずっとこのやり方で笑っていてほしい。どうすれはオレの思いは叶うのか。絵図をいくつも描いてみても、離れずにいる未来しかわからなかった。



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