薔薇の苗


 ポートフォリオが出来上がったので見せたいと連絡があったのは、あの夜から1週間後のことだった。予定を合わせるだけのやり取りに今までにないくらいドギマギした。「付き合いたいから、シラフの時に改めて言う」なんて、三ツ谷くんがあんなことを言うからだ。
 告白の予告を受けてから、ふとした時にその光景を思い出して1人そわそわしていた。何をしていても頭の片隅に彼が居座っている。会う約束をしてからは更に顕著で、こんな惚けた状態がここ最近の話でよかったと手元の書類を眺めながら思う。そこに書かれた【合格】の文字が、さらに私を悩ませているんだけど…。





 「10分くらい駅から歩くけど」と前置きした三ツ谷くんについて行ったら、素敵なカフェに辿り着いた。木の温もりを感じる内装に季節の植物が飾られている。平日の午後だからか他のお客さんは1人だし、ちょうどいい音量の洋楽もこの店を心地よい空気にしていた。
 カウンター席に飾られた鈴蘭の形のランプを可愛いと言ったらそこに座ることになったけど、思いのほか距離が近くて胸がきゅっとする。

「はい、これ。ナマエちゃんの分な」
「え、くれるの?」
「そりゃモチロン」
「ありがとう!見てもいい?」

 差し出されたポートフォリオを1ページずつ眺める。これは過去の作品、これはそのパターンと、ページをめくるごとに教えてくれる。服飾のことはさっぱり分からないけど、三ツ谷くんがひとつひとつ心血注いで取り組んでいることはわかる。
 自分の写ったページを見て撮影した日のことを思い出す。関わった部分はほんの少しだけど、それでも彼の努力や情熱は充分に伝わってきた。着飾った自分の姿は少し気恥ずかしいけど、それを思うとこの作品のひとつになれたことが素直に嬉しかった。

「すごいね。いい思い出になったなぁ」
「俺はもっと思い出ほしいけど」

 ごく自然に転がってきた言葉があっという間に穏やかな空気を奪って行った。というより、今まで表面を繕っていた穏やかさを全て剥ぎ取っていったと言う方が正しい気がする。
 
「この前の仕切り直しさせてほしい」

 望んでいるのにどこか不安だから、この時が来なくてもいい。そう思っていたのに、三ツ谷くんはやっぱり見逃してくれない。

「俺と付き合って」

 あの夜がフラッシュバックする。一時停止させた物語の続きを再生するみたいだった。

 「返事考えといて」と言われて私も考えすぎるくらい考えた。そうして心はイエスを叫んでいるけど、心のままになれない理由がひとつある。

「わたし、留学しようと思ってて…」

 『留学をする』それが大学生活での1番の目標だった。留学に強いところを選んで受験を頑張ったし、良い評価を取るため講義も真面目に受けた。バイト代も2年かけてなんとかなるくらいには貯まって、満を持して受けた交換留学の選考は先日無事に【合格】の通知をもらった。来年から1年は日本を離れる。それなのに『お付き合い』なんて、そんなのいいのかな。

「いつから留学すんの?」
「来年の9月から」
「じゃあ、俺さえ良ければそこまでは付き合うつもりでいてくれてるってこと?」

 さっきまで真剣に話を聞いてくれていた顔がふっと緩む。日本をたつその時まであと10ヶ月ほど。それをまたずにお別れもあり得るとは思うけど、伝えないで決めるという選択肢は私にはなかった。話しておきたかった理由はそれだけなんだけど、そんなふうに受け取られるとは。私だってすぐ別れちゃうならイヤだけど。

「あの、本当にそれでもよければなんだけど…」
「いーよ。むしろ頑張ってんの知って、もっと付き合いたくなった」

 1年しないうちに私の都合で離れ離れになってしまう。それがどうしても申し訳なく思えてしまうし、それならやめようと言われるかも。そう思っていたけど、彼はそんな器の小さい人じゃなかった。私の夢を受け入れてくれた、その言葉が背中を押してくれる。

「で、返事。考えてくれた?」

 この人ならきっといい関係になれると思った。私と彼を信じてみたい。何より、ここで遠慮して他の人に取られるのはイヤだった。決心を伝えたくて、ぐっと目線をあわせる。

「私でよければ、よろしくお願いします」
「じゃあナマエちゃん、今から俺の彼女な」

 一瞬の間の後、三ツ谷くんがそう言って笑うからなんだかくすぐったい。緊張から解放されて口をつけたカフェラテは、いっそう甘く感じた。

「はー、緊張した」
「緊張してたの?」
「好きな子に告ってんだから緊張すンだろ。この前からずっと考えてたし」

 あの夜のことがずっと片隅にあったのは、彼も同じだったらしい。私ばっかりとどこか悔しく思っていたのがそうじゃないと分かって、ずっと狭かった胸の中に少し余裕が戻る。

「落ち着いたし、続き見ようぜ」

 三ツ谷くんに促されて、ポートフォリオの続きのページをめくる。今度は男性の写真だ。同い年くらいだろうか。背が高そうな人で、口元に傷があるけど綺麗な顔をしている。

「モデルさん?かっこいいね」
「彼氏の前でそういうこと言う?」

 ゆっくりと上がった口角に胸がぎゅっとなる。やっぱり、しばらく余裕にはなれないかもしれない。



- ナノ -