海神の宮へおいで


 見知らぬ駅でタクシーに飛び乗ったのは日付も変わろうかという頃だった。目的地に到着してドアが空いた瞬間、暗く湿気った空気がなだれ込んでくる。すっかり真夜中だと言うのに、日中の茹だるような暑さの残る空気が重苦しい。早く快適な家に帰りたいはずなのに、電話越しに聞いた不機嫌な声が絡まるせいで脚が重い。実際、玄関で出迎えた彼の佇まいは全身で不機嫌を伝えていた。

「遅ぇ」

 ただいまを言う間もなく遅い帰宅を責められ、予想以上に怒っていることを悟る。気圧されて詰まった喉をこじ開けて述べた謝罪には、深いため息が答えた。

「お前な、終電で帰るつったんだから、ちゃんと帰って来いよ」
「ごめん。でも、友達置いていけなくて」

 数年ぶりの大学時代のサークル仲間との飲み会は、それはそれは大いに盛り上がった。人生の夏休みを共に謳歌した友人達との集いが楽しいのは予想できていたし、彼も「終電では帰って来いよ」と言いつつ久しぶりの集まりへ送り出してくれた。私だってその約束の通りに帰宅する心づもりだったけれど、道中具合の悪くなった友人を介抱していたら案の定終電を逃してしまい、こんな時間になってしまった。

「もうひとりいたなら、そいつに任せとけばいいだろ」
「それ、男だったから…」
「そんな信用ならねぇ男なわけ?」
「違うよ。トイレこもっちゃったし、男じゃ見に行けないでしょ」
「だからってお前がこんな遅くなる必要ねぇだろ」

 具合の悪い友達を、それも一人暮らしの女の子を置いてさっさと帰るなんて、そんなことできなかった。本当にそれだけだ。なのに、友人を家まで届けた後にタクシーの中で遅くなると電話をした時はトゲトゲしい言葉で。対面した今は態度でもチクチク刺してくるから、私も少し苛ついてしまう。彼もそれを感じ取っているようで、どんどん空気が固くなって行く。

「ほんとにごめん。でも、タクシー乗るまでも送ってもらったから、危なくなかったし…」
「友達は任せらんねぇヤツなのに、自分は一緒にいれんだな」

 理由はどうあれ約束を破っているし、明日は仕事なのにこんな時間まで待ってくれていて申し訳ないと思う。それに、なかなか帰宅しないから心配するのも、お小言を言われるのもわかる。でも、連絡もした上でしっかり帰ってきてるのに、ちょっと言いすぎじゃないかな。

「……わたし、そんなに信用ない?」

 悲しさや苛立ちがぐしゃぐしゃに絡まって、毛玉みたいに口からこぼれた。目も合わず、苛立ちも隠さないまま「そういう事じゃねぇんだよ」と打ち返されて何も言えなくなる。互いの台詞は受け取られることなく、沈黙の中にぽつんと浮かんでいた。なにか、なにか言わなくちゃ。は、と吸った空気は音になる前に、目の前に落とされた大きなため息にさらわれてしまう。なんか、もういいや。そんな機嫌悪くなられても。

「落ち着いてからまた話そう。これ以上喧嘩したくないよ」
「…そうだな。先寝るわ」

 ため息の後にそれだけ言い残すと、くるりと背を向けて寝室へ入ってしまった。廊下にひとり残されて、去り際の彼と同じくらい大きく息を吐く。肺を一掃するくらい深くから吐き出したのに、ひとつも爽快じゃない。むしろ対話の相手が自分になった事で、よりモヤモヤが増幅されていく。投げつけられた言葉をひとつひとつ反芻してしまって、こんなことなら遊びになんて行くんじゃなかったとさえ思う。
 連絡もなしにこんな時間になったんじゃない。それに、隆くんだって同じ状況ならきっと同じことをしたと思う。なのに、なんで私はこんなに責められてるのか。それでも心配するのは理解できるから謝っているのに、全く許してくれる気配がない。これはお互い冷静にならないと解決しなさそうだ。

 行き場を失って沈殿した感情に脚を取られつつ、のろのろと浴室へ向かう。もしかしたら、この間に少し冷静になってくれているかも。淡く期待しつつ寝支度を整えて寝室のドアを開けるけど、ベッドの上で完全に背を向けられていた。それに落胆して、意趣返しのつもりで背を向けてベッドの端に横になる。いつもならすかさず腕が伸びてくるのに、わざとなのか本当に寝ているのかなんの反応もない。自然と目の奥がツンとしてしまうのを納めたくて、意図してゆっくり呼吸する。落ち着こうとしているのに、気づけば掛け布団を握りしめていた。





 上品な光沢と透明感のある薄い生地を作業台に広げると、滑らかながらハリのある感触が手のひらを伝う。真っ直ぐ分けるために生地の端に鋏を入れ、そこから手で力を入れるとビリビリと裂けていく。その音がいつもよりも耳障りに響いて眉を顰めた。理由といえば明白で、昨晩喧嘩をしたまま今に至っているせいだ。

 休日にどちらかが仕事でも、同じ時間に起きて朝食をとって見送る。いつもはそうだったのに、今朝のナマエは寝室から出てこなかった。別に決まったルールじゃないし、単純に目覚めなかっただけかもしれない。けれど、薄手の掛け布団に包まれた華奢な背中は、拒絶を表しているようで今思い起こしても気が重くなる。

 帰り道が同じ友達が体調を崩したから介抱し、家まで送り届けたから遅くなった。本当にそれだけのことだ。ナマエ自身への疑いはない。信用していないのは、オレのよく知らないナマエの周りの男達だ。オレがいるのを知っていながらナマエに告白するような男のいる場所に、平常心で送り出せと言うのは出来ない話で、本人は「昔の事だから」と気にしていないところがまた心配を煽る。それでも彼女の世界を制限したくないから表面上は快く送り出したのに、終電を逃した上に途中までは男に送られて帰って来たモンだから、つい攻撃的な態度になってしまった。
 ぶつけた言葉は元は心配から来たものだったのに、自覚の薄そうなナマエにイラついて刺々しくなっていった。「わたし、そんなに信用ない?」そうこぼした時の表情は、怒りによりも悲しみが強かったように思う。そんな彼女を放ったまま朝を迎えたんだから、今朝の見送りがなかったのも仕方のないことだ。わかっている。
 固まった背中の不快感を解消しようと伸びをする。動作の中で時計を見ればもういい時間だ。これ以降の作業は明日以降でいいだろう。いいことにした。もう早いところ家に帰って、ナマエにちゃんと謝りたい。何時ごろに家に着くと連絡すると、程なくして気の抜けた猫のスタンプがひとつ返ってくる。見慣れたそれに少し安心して家路を急げば、連絡した通りの時間に自宅のドアを開けることができた。

 出迎えはなかったが廊下の先のリビングに気配がする。どうやら夕飯の支度中らしい。少々緊張しながら廊下を進み扉を開けると、シンクで調理器具にスポンジを滑らせていた。まだオレが怒っていると思っているのか、「おかえり」と言う声と表情が少々固い。

「ご飯もうできるから、座って待ってて」
「いや、できてるやつ運ぶわ」
「じゃあ、オネガイシマス」

 早い所謝ればいいのに、何となくこわばったの空気感のせいでタイミングが掴めない。「うまそうだな」とか何でも言って切り出せばいいのに。無言のままランチョンマットを広げる向こうではナマエが主菜を作っているようで、じゅっと熱したフライパンに何かを投入する音がした。
 準備された皿をダイニングテーブルに並べるうちに、どれもオレが特に好きなナマエの料理だと気づく。作り置きの中にはなかったから、わざわざ今日作っているハズだ。もしやと思いナマエの隣から手元を覗き込むと、フライパンの上で仕上がった好物が湯気を立てていた。

「夕飯、オレの好きなのにしてくれたの?」
「あ、気づいた?」

 フライパンの中身を皿に移し替えながら、照れ臭そうな顔をする。

「遅くまで待たせて心配させちゃって、なのにあんな言い方して。約束破ったの私なのに。だから、作ってみたんだけど」

 「どうでしょうか」とこちらを伺ってくるのがたまらなくて、問答無用で抱き寄せた。なぜこんなことをしているのか、大体の想像はついていたけど、こんなんズルすぎる。どうやって切り出そうか悩んでいたのがバカみたいだ。

「お前ほんとさぁ、ズリィわ」
「へ、あの…ご、ごめんなさい?」
「悪かったのオレだろ。オレに謝らせろよ」
「んふふっ、残念でした

 愉快そうに弾けたナマエの息が襟足をくすぐる。喉につっかかっていた言葉はその息づかいに導かれて、嘘のように抵抗なく音になった。

「昨日、さすがに言いすぎた。許して」
「うん。私もごめんね」

 背中に回った手があやすようにシャツを滑る。こっちは彼女への愛しさに悶えてんのに、随分余裕そうじゃねぇか。少し身体を離すと、追加で爆弾を落としてくる。

「こんなに好きな物覚えてるの、隆くんだからだよ」

 そう言って目尻を溶かしたナマエには、たぶん何もかも見透かされている。柔よく剛を制すというが、こんなに柔い身体にこんな強さを隠しているんだ。オレは到底敵いそうにない。それは悔しいので白い頬を両手で包み、緩く上がった口角に唇を寄せた。何度か触れてから離れると、恥ずかしそうに目を伏せる。オレを簡単に手のひらで転がす癖に、こんな初心なキスで恥ずかしがるのが可愛い。もう一度顔を寄せると小さな手に押し返された。

「ね、ご飯冷めちゃうから」
「あと一回。だめ?」
「もう、怒るよ!」
「ちぇ、しゃあねぇな」

 また怒らせたくはないので解放すると、主菜の皿を運んでくれと頼まれるので従う。本当に、ここにはオレの好きなものしかない。これができるのは家族かナマエくらいなモンだ。そう思うとやっぱり愛おしくて、「食い終わった後ならいい?」と耳打ちする。頬を染めて「バカ」と悪態をつく小さな唇がたまらなくて、結局もう一度味わうことになった。



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