6. ジョーカーは君が持っている


 書庫は冬の空気でひんやりと冷えていた。ビル内の空調は全館一括で管理され、節約のため普段人がいないスペースはオフにされている。警備室に頼めばつけてもらえるが、連絡するのも面倒だし動いていれば問題ないくらいに身体は温まっていた。
 社内は徐々に仕事納めに向けて動きはじめている。俺とミョウジが書庫に篭っているのもその一環だった。内容ごとに分けられた区画はすでにあるが、そこに入らなかった資料が空きスペースに適当に突っ込まれている。そんな有様では資料探しに苦戦する社員が多いので、年内に一度整理しようという寸法だ。

「もう結構片付いたな」
「思ったより早いね。三ツ谷くんのおかげだ」
「ほらな。遠慮してねぇで最初っから頼めばいンだよ」

 「今日はコレがあるから」とジーンズにスウェットというラフな装いのミョウジが書庫整理の言い出しっぺのだった。彼女はこういう『直接業務に関係ない困り事』を目敏く見つけて対応してくれるので助かる。知らないうちに問題が片付けられていることも多いので、今回は一緒に時間を取って作業することにした。
 要領よく作業を進めていくミョウジだが、数週間前ここでひっそりと泣いていた。何を抱えていたかは結局わからなかったが、すっかり元気を取り戻したようで一安心だ。泣き顔よりも笑顔の方がいいに決まってる。俺が見たいのはそっちだ。

「あれ、開かない。なんか引っかかってるのかな」

 戸の中を確認しようとするミョウジの踵が少し浮いた。天井近くまで積まれた引違い戸のキャビネットは、最上段ともなると彼女が目一杯手を伸ばしてやっと手が届く程の高さになる。捲り上げたスウェットから伸びた細い腕が何度か戸をスライドさせるも、やっと数センチ開くだけだった。

「俺やるから代わって」
「あ、待って開きそうかも…」

 動かしているうちに中で戸を押さえていた物も動いたのか、ミョウジの宣言通りカラカラと軽い音をたてて引戸が開いた。それからほんの一拍置いた後、中で平積みにされていたファイルが支えを失って雪崩れを起こしはじめる。このままだとミョウジに直撃だ。そう思ってからの動作は無意識だった。
 肩を掴んで引き寄せ、もう片方の腕は頭を守るように後頭部に回した。勢いよく引っ張られたせいでバランスを崩したミョウジを受け止める。先程まで彼女が立っていた場所には重量感のある音を立てて厚みのあるファイルが数冊落ちてきた。

「っぶねー…」

 紙も束ねればそこそこの重さになる。アレを浴びていたら多分ケガをしていただろう。間一髪だったと胸を撫で下ろし、無事かとミョウジを覗き込んだ。身体を預けたまま、状況が飲み込めないのか目を丸くして視線を揺らしている。その姿に何かが込み上げて、思わず華奢な身体を支える腕に力が入った。小さな頭がされるがままに肩口に収まる。もう少しこのままで居たいと思うのはなぜだろうか。答えはひとつしか浮かばなくて、俺はただ戸惑っていた。

 閉店後のD&Dを訪ねたのはそれから数日後の金曜日だった。灯りの消えた店内へ無遠慮に入ると見慣れた龍の刺青が出迎える。修繕済みのツナギが入った紙袋を手渡してやると、中身の確認もしないまま仕舞い込んでいた。ほつれくらいの軽微な損傷を、いわゆる『お友達プライス』で修理していた。仕上がり具合は「見なくても問題ない」らしい。信頼されていて何よりだ。

「ちょっと飲もうぜ」
「いいな。俺アサヒで」

 コンビニ袋をカウンターに置いてアサヒのロング缶を手渡す。三本買ってきたのにイヌピーは先に帰ってしまって不在だった。まぁ残りは持って帰るなりしてくれればいい。プルタブを下げると炭酸の抜ける音が続いた。

「仕事落ち着いたワケ?」
「おう。いつにも増して色々あったけどな」
「ほー、例えば」

 色々、と言ったくせに口をひらけばミョウジの事になってしまう。いつもと様子が違って心配だったこと、泣いているところを初めて見たこと、それに、

「酔っ払って『声かけられたら着いていく』とか言ってんだよ。俺はそれでも困んねぇだろって。ダメに決まってんだろ」
「ダメに決まってんだ?」
「酔った男を家まで送るようなヤツだぞ。ダメだろ」

 ミョウジは記憶を無くすほど飲んだ俺を家まで送った上に、大人しく抱き枕になるようなヤツだ。素性も知れない男に着いて行くなんて冗談だったとしても気に食わない。あの時の苛つきを思い起こしていると、ふっと小さく笑われた。何か含みのある笑みが引っかかる。

「なんだよ」
「三ツ谷、最近ミョウジさんのことばっか喋ってんな」

 胸に突き刺さるのはこの男の言葉だからか。薄らと自覚しはじめていたが、まだぼやけていた気持ちの形が一瞬で明らかになる。抱き止めた身体を離したくないと思った時すら認められなかったのに、信頼する人間に指摘されてしまえばもう言い逃れはできなかった。

「……そうだな」

 薄暗い店内にため息が落ちる。仕事中も出ないような深いものだった。

「変なトコ鈍感だよな。お前」

 精悍な顔を崩してニカリと笑う。いつまで経ってもこの男には敵いそうにない。





 あ、ヤバい。そう思った次の場面でバランスを崩し、気づけば三ツ谷くんに抱き止められていた。背後でドサドサと質量のある物が床にぶつかる音がして、咄嗟に助けてくれたんだと分かる。それ以上の他意はないんだろうけど、体重を預けたこの体勢は生地越しの身体の質感をダイレクトに感じてしまって、かなり心臓に悪い。おまけに「大丈夫か?」と覗き込まれて目があった瞬間、息が止まった。
 見たことのない眼差しだった。いつもより熱がこもっているような、黒目の輝きが違うような、うまく説明できないけれど。その上、後頭部に添えられた手に緩く引き寄せられて鼻先が鎖骨に触れると、あまりの情報過多にフリーズしてしまう。もう大丈夫だから離してくれていいのに。

「ケガねぇか?」
「う、ん……ありがとう」

 やっと腕の中から解放される。数秒の出来事だったはずなのに、随分と長い間かかった気がした。三ツ谷くんに触れていたところから、隅々までどんどん熱が広がっていく。作業しやすいからと髪を纏めているせいで、耳や首筋まで全部熱いのがバレそうだ。

「いつのかな。古そうだね」
「そうだな」

 散らばったファイルを集めていると指先が触れ合いそうになる。思わず引っ込めそうになったのには気づかれてしまっただろうか。お互いに隠し持った何かに気付きつつも気づかないふりを続けている。そんな気まずさを含んだ固い空気の中、黙々と作業を続けた。

 土日を挟んでもあの感触が抜けずにいた。筋肉のついた身体や私より高い体温、添えられた大きな手、どこか意味を持ったような瞳。あまりにも全てが鮮烈だったのか、土曜の夜は夢にまで見てしまって頭を抱えた。こんなの変態みたいじゃないか。
 今までも肩を軽く叩くとか、その程度の軽いスキンシップはあった。あくまでも挨拶でしかないような。この前のことも最初はただ私を守ってくれようとしただけだ。けれどその後の一連の動作には、どうしても別の意志があったように思ってしまう。以前よりも距離感が近くなった実感はあれど、我ながら都合のいい思考回路をしている。

「ナマエさん、このメールの件ですけど…」

 佐藤くんの明るい声が飛んできて、別の思考に沈みかけていたことに気づく。いけない、目が画面を滑り続けるだけになっていた。

「すみません、話しかけても大丈夫でした?」
「うん。で、どのメール?」

 別の場所にトリップしかけていたのが悟られないように表情を整える。ここは仕事をする場所だ。おかしなこと考えていないで集中しないと。幸い仕事納めに向けてやりたい事は沢山ある。全部終わらせないと気持ちの良い新年は迎えられない。

「こんな感じで返信しておいて。CCに私入れてね」
「了解です」

 自席に戻った佐藤くんの手元から軽快にキーボードを叩く音がし、程なくして受信箱に返信が届く。もうビジネスメールはお手のものだ。最初はメールを送る前に全てチェックしていたっけ。改めて彼の成長を思いながら文面をながめていると、視界の端で社内チャットのポップアップが立ち上がる。三ツ谷くんからだ。

『今週の金曜日あいてる?』

 チャットの履歴を辿ればいくつか同じ文字列がある。その時はただ浮かれていたのに、今は送信ボタンを押すのに躊躇してしまう。何度か打ち損じ、書いて消してを繰り返してやっと返答を送信した。
 滑らかに反応する液晶から目を離さないまま言葉を往復させる。お互いチラリとも視線を寄越さず、素知らぬ顔をしているのが滑稽でむず痒かった。





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