5. 奪われないアマダス


 展示会の会場は取引先や社内の関係者で賑わっていた。ほんの一時間ほど前までは白い壁面に沿ってとりどりの服が並んでいたが、今は片づけられて代わりにケータリングが並んでいる。社内外の交流を兼ねた立食パーティは最終日の恒例行事だった。
 いつもは無機質なこの空間がこうして華やかになると、それまでのどんな苦労も辛さも報われる。どの服にも出来上がるまでのストーリーがあるが、それを自分の口で伝えられる時間は仕事の中でも楽しい事のひとつだった。とはいえ中にはできれば避けたい事もある。今まさにそれに直面していた。

「三ツ谷さん、今度ご飯行きません?」

 数ヶ月前、この女に個人の連絡先を渡された。雑誌編集者の彼女とは何度も顔を合わせていたが、何となく好きになれなかった。媚びるような態度と言動が毎度引っかかる。仕事上無下には出来ず適度に愛想良くしていたが、通話アプリのIDの書かれたメモを渡されてしまうとはまさかだった。面倒な事になったと思って忘れたふりをしていたが、結果はご覧の通り。察していないのか察した上での誘いなのかは分からないが、どっちにしたって俺の答えは変わらない。

「いつも素敵だからデザインのこと聞きたくて。あのワンピースとか、三ツ谷さんのデザインですよね?」

 さすがファッション誌の編集者だけあってお目が高い。トルソーに着せて展示したままのワンピースはシルエットにこだわった今回の自信作だ。同僚の意見に大いに影響されたおかげでいい品ができたと思う。

「ああアレ、あそこにいるミョウジってやつとの合作みたいなモンですよ」
「あ…そうなんですか?」
「アイツの意見かなり参考にしてるんで。デザインのこと聞きたいなら呼びますよ」

 少し離れた場所で常連のバイヤーと談笑しているミョウジを呼ぶと、相手に軽く礼をしてからこちらにやってくる。手にした細身のグラスからは、しゅわしゅわと小さな泡が立ち昇っていた。

「あのワンピが気に入ったんだってサ。俺らで作ったようなモンだろ?」
「ちょっとアイデアだしただけだよ。でも、あれいいですよね。シルエットがきれいで」
「こだわったからな」
「こだわってたねぇ」

 俺とミョウジのデザイン談義にニコニコと相槌を打っているが、先程より明らかに顔が曇っている。ミョウジが気を遣って彼女にも話を振り、次は彼女が俺に、俺がミョウジへと流している。一見和やかな歓談だが、よく聞くと成立していない会話になっていた。

「あの、私そろそろ帰りますんで…」
「あ、そうですか。お越し頂いてありがとうございます」
「お気をつけて」

 少々あからさまだっただろうか。会話の切れ目で強引に編集者の女は去って行った。妙なタイミングでの突然の退場を見送ったミョウジがきょとんとした顔で見上げてくるので、思わず吹き出してしまう。

「ワリ、あの人食事行こうってしつこくてさ」
「なんか違和感あると思ったら。私のことダシにしたんだ」
「悪かったってば」
「へへ、ひとつ貸しだね」

 ぴっと人差し指を立てて悪戯な目をする。ここ一ヶ月ほどは自分で自分を追い詰めるような、そんな鬼気迫る表情ばかりしていたのに。ミョウジのこんな柔らかな顔を見るのはいつぶりだろう。

「じゃあまた飲みいくか」
「私とは行ってもいいんだ」
「当たり前だろ」
「んふふ、うれしい。あ、でも今回はいいかな」

 軽い誘いを軽く断られただけなのに内心ショックだった。この忙しさを乗り越えたらまた、と当たり前に思っていたのに。急にぎこちなくなった俺の胸中と、ミョウジが手にしたグラスに淡々と泡が浮かぶ様子がアンバランスだ。

「私を帰らせるように部長に言ったの、三ツ谷くんだよね?」
「そうだけど…」

 ミョウジが言っているのはあの書庫での一件があった日の事だ。涙に濡れた彼女の顔は、忘れようにも未だ鮮明に俺の心を蝕んでいる。

「あの時、本当はちょっとしんどかったの。おかげで気持ち切り替えられたから」

 唇がやさしい形を作る。あれからずっとこの形を探していた。「だからやっぱ貸しはナシ」と照れくさそうに笑った頬は、手にした酒のせいか薄らと頬に紅が刺している。今のミョウジを飾る全てが丸く温かくて、陽だまりに足を踏み入れたような心地だった。

「なぁ、やっぱりこの後…」
「ナマエさん!三ツ谷さん!」

 威勢よく飛んできた声に割り込まれる。寄ってきた佐藤はスマホの画面を忙しなくスクロールしていた。

「二次会の出欠取ってるんですけど、行きます?」
「せっかくだし行こうかな」
「俺も」

 少し低い位置から送られる期待のこもった目配せに応えると、血色の良い頬に喜びが浮かぶ。さっきからミョウジの表情に心が躍るのは、祭りの終わりを惜しむ様な会場の雰囲気に飲まれているからだろうか。衝動に任せていたら、その頬に触れていた気がする。





 何かを産み出すときは無から有のようで、きっとそうじゃない。自分の内面に隠れている何かを見つけて、それをどうにか人が着られる形にしていく。自分自身との対話を積み重ねてここに並ぶ洋服達は産まれてきた。手がけた服の生地に触れると、大切な気持ちを手に入れるまでをありありと思い出す。色とりどりのラックに飾られた会議室は、いつにも増して華やかに見えた。

 書庫での一件があった日、久しぶりにじっくりと湯船に浸かった。全て脱ぎ捨ててお気に入りの入浴剤の香りがする湯で温まると、弛んだ身体の隙間から透明な影が染み出して目からこぼれる。ひとつひとつがゆらゆらと湯船の底に沈んでいくのが見えるようで、他人事みたいにそれを眺めていた。一粒こぼす度に心に絡まった糸が少しずつ解けて、湯船から上がる頃にはすっかり身体が軽くなっていた。
 三ツ谷くんが恋人と別れてから、それまで凪いでいた彼への好意が事あるごとに期待や不安で波を立てて襲ってくる。それが怖くて忘れたくて、強くいようと脆い砂城を積み立てた。今、それを全て洗い落としてひとつ残った宝石の様な気持ち。どうしても、どうやっても、三ツ谷くんのことが好きだ。認めてしまえば、純粋な恋心は切なくもキラキラと胸を飾った。

 吹っ切れたお陰で仕事も順調に進み展示会も無事に終え、懇親会ではこうして三ツ谷くんとも冗談を飛ばしあえている。会場の砕けた雰囲気のせいか、彼もいつになく優しい顔をしている気がする。浮ついた気分のせいでつい調子にのってしまった。

「ナマエさん、歩けます?」
「ぜんぜん、あるける」

 アルコールで溶けた視界の中で、二次会終わりの街明かりは滲んで揺れていた。現実感を失った足取りは覚束ないけれど歩けてはいるハズ、だと思いたいけれど、佐藤くんの手が遠慮がちに背中を支えているから、あまり大丈夫じゃないのかもしれない。

「佐藤、お前終電ヤベェだろ。ミョウジ引き取るワ」
「あ…ありがとうございます」

 後ろから肩を掴まれて代わりに佐藤くんの手が剥がれた。背中に三ツ谷くんの体温を感じる。確かに佐藤くんは家が遠い。駅へと小走りで去っていく彼に呑気に手を振っていると、三ツ谷くんに小突かれる。少しよろめいたけれど、しっかりと腕を掴まれていたから転ぶことはなかった。

「俺らも駅行くぞ。まだ終電間に合うよな?」
「んー、たぶん?」

 後輩の終電事情にも頭が回らない私は、もはや自分の終電のことすらよくわかっていなかった。

「あれ、先輩たちは?」
「ラーメン食い行った」
「三ツ谷くんは、いかないの?」
「お前置いてけねぇだろ。そんなんで変なやつに絡まれたらどーすンの」
「あはは、そしたら着いてっちゃおうかなぁ」
「は?ダメに決まってんだろ」

 素面で聞いたらビックリする様な低いトーンだったけれど、生憎今の私の脳みそは正常な判断なんて下せない。三ツ谷くんの感情が掴めないままスルスルと言葉が口から出てくる。

「なんで?着いてっても三ツ谷くんは困らないでしょ。ラーメンたべれるし」
「別に食いたかねェよ」

 素直と言えば聞こえはいいけれど、無遠慮に選んだ言葉は全て不正解な気がした。頭のどこかでこの状況を客観視している自分が、もうこの場を去った方がいいと警告する。その声に従って、ちょうどよく通りかかったタクシーを捕まえて乗り込んだ。

「一緒に乗る?」
「いや…」
「だよね」

 運転手に行き先を告げるとドアが閉まる。ガラス越しに手を振ったけれど、三ツ谷くんの顔は影になってよく見えなかった。

 都心から住宅街へ近づくにつれ都会の輝きは消えて夜は深くなり、前方を走る車のテールランプが濃く光る。窓の外で規則的に流れていく街灯を見ているとゆっくりと酔いが覚めていく。平常運転を取り戻しつつある頭で思い起こすと、たぶん三ツ谷くんは怒っていた。

 そんなに怒るようなことだったかな。心配してくれたのかも。でも、みんなに優しいからな。

 一度スッキリしても結局やきもきしてしまう。彼を好きだと思っているうちは、こうやってずっと繰り返すんだと思う。その度に感じるまち針で突かれたようなチクチクした痛みも、いつかきっと愛おしくなる。そうなってほしい。





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